第二部:旅と鍛錬の章
第五章:《黎明の祈り》 ――序章:《始まりの草原》
乾いた風が草原を渡り、青白く鋭い光が一瞬、地を裂いた。
息を詰めるようにして身をひねる。掠める刃の風圧に、千鶴の髪がふわりと舞った。
体勢を整える間もなく、再び鋭い気配が迫る。
必死に身を引き、転がるようにして距離を取ると、足元の土が小さく弾けた。
荒い呼吸を整えながら、千鶴は震える手を前に差し出した。掌の奥に宿したはずの“祈りの光”――。
だが、それは以前、無我夢中で放った閃光とは比べものにならないほど、小さく、頼りない光だった。
光は一瞬淡く揺れ、すぐに消えた。
「……くっ……」
悔しさに唇を噛む。よろめいた拍子に足がもつれ、千鶴は地面に倒れ込んだ。
その視界の先――鞘に納められた剣の切っ先が、静かに目の前へ差し出される。
目に映ったのは、わざとらしく微笑を浮かべるセリウスの姿だった。
「……もう、わざとですよね」
頬をふくらませて言う千鶴に、セリウスは肩をすくめる。
「さて、どうだろうな」
とぼける表情に、千鶴は思わず口を尖らせ――そして吹き出した。
セリウスもつられるように微笑む。二人の間に柔らかな空気が流れた。
「……立てるか」
差し伸べられた手に、千鶴は息を整えながら応じて立ち上がる。
「……ちょっとは手加減してください」
「体力は大分戻ってきたようだな。だが鍛錬は、少しきついくらいでないと意味がない」
そう言って、セリウスは近くの泉から汲んだ水を差し出した。
千鶴は一気に飲み干し、額の汗を拭いながら息をつく。
「それは分かってますけど……もともと運動は得意じゃないんです」
拗ねたような声音に、セリウスは濡れた髪を優しく撫でた。
「分かっている。だが――動きは確かに良くなっている。短い間で、上出来だ」
褒められ、俯きながらも少し嬉しそうな千鶴。
だが、その横顔には悔しさと焦りが混じっていた。
祈りの力が、思うように出せない。
あの夜、無我夢中で放った光は奇跡のような一撃だった。
けれど今は、その感覚さえ掴めない。
――セリウスの家から少し離れた大草原のほとりで、千鶴のリハビリを兼ねた鍛錬は続いていた。
最初は軽い体術から始まったが、セリウスの提案で、防御と回避を中心とした実践的な訓練へと変わっていった。
その合間、千鶴は祈りの力を取り戻そうと、何度も空へ手を伸ばしていた。
セリウスは剣に秀でていたが、祈りの扱いを正確に理解しているわけではない。
それでも彼の中には――確かに“知っている感覚”が残っていた。
かつて、少女が女神として祈りの光を放っていた頃、その傍らで共に戦っていた“記憶の残滓”。
――そう、“記憶”が少しずつ戻りはじめていたのだった。
あの夜、女神であった少女の祈りの真意を知り、あふれる想いと涙に心が洗われた瞬間に――。
戦火の中で見た背中。消えゆく声。そして、呼びかけた名を。
「――ウスさん! ちょっと、セリウスさん!」
頭に手が置かれたままで、千鶴が困ったように呼んでいた。
「……! すまない」
慌てて手を離すセリウス。
「大丈夫ですか……? “ノエルさん”のことで、また何か思い出しました?」
心配そうに覗き込む千鶴に、セリウスは言葉を濁す。
「いや……そういうわけでは……」
女神だった少女の名を千鶴には伝えた。
だが、少しずつ記憶の断片全てを語るには、まだためらいがある。
しかし、まっすぐ前を見据える千鶴を見て、
セリウスは少しずつ――過去を共有する覚悟を固めていた。
ふと、夢に現れた一つの場所が脳裏をよぎる。
女神が祈りの力を高めた“修練の地”。
「……千鶴。ノエルがかつて女神として祈りの力を高めた場所がある」
荷をまとめながら、セリウスは静かに告げる。
「一度そこへ行ってみよう。――おまえが祈りを取り戻すために」
千鶴は草原の先を見つめた。
風に揺れる草の向こう、空の果てまで続く地平線。
そこに待つ未来を思い描くと、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
――もう、逃げるわけにはいかない。
自分の力を取り戻し、前に進む。
あの夜の光を、今度は自分の意思で放つために。
小さく息を吸い、頬の汗を拭う。
その瞳はまっすぐ前を向いていた。
「……分かりました、セリウスさん。私、頑張ります。必ず力を取り戻します!」
震えながらも、声には確かな決意が宿っていた。
風が草原を駆け抜ける。
草の海が揺れ、光は空の果てで煌めいた。
二人の影は長く伸び、どこまでも続いていく。
――第二の旅路。
祈りの力を取り戻すための道が、いま静かに幕を開けた。
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