第9話 好きになんて、ならなきゃよかった

5月3日、水曜日。ゴールデンウィーク初日。昼過ぎの温泉街は、多くの観光客で賑わっている。楽しそうな声が、ざわざわと飛び交っている。

俺たちは前野先生の引率のもと、「さくら乃宿」まで来ていた。


「宿の主人の佐倉さくらさんには、既に話をしてある。ここでお世話になりながら、明日から二日間、ゴミ拾いボランティアに参加するように。あ、海野会長!」

「ああ、前野くん。それから『お助け部』のお二人。おはよう。ボランティア参加、ありがとう。助かるよ。」


宿のロビーで前野先生が声をかけたのは、翠和神社の蚤の市にもいた、観光協会の会長。俺たちも軽く挨拶を済ませ、一日のスケジュールと集合場所などを聞いた。


「昼までに終わるのは嬉しいけどさ、毎朝6時集合だって。陸、起きれんの?」

「…がん、ばる…」

「ハッ、声ちっさ」


軽く笑って、「俺が叩き起こしてやんよ」と冗談まで付け加えると、陸も「頼む」と、照れたように笑った。

あの昼休みの出来事以降、俺は意識して「今まで通り」を装っている。本当は、陸を見る度に胸は甘く切なく疼くし、同時に、どれだけ望んでも叶わない絶望を味わってる。何度も何度も。痛みこそあるけど、でも少しは慣れた気もする。


「おはようございます。私は『さくら乃宿』の渡瀬わたせと申します。よろしくお願いします。」

「うちの生徒をよろしくお願いします。何かありましたら、学校か、私の業務用携帯にご連絡ください」

「はい。お預かりします。では、早速お部屋にご案内しますね。どうぞ」


海野会長と別れると、宿の女性スタッフから案内を受ける。前野先生とも、ここで解散だ。

案内された宿の部屋は、従業員用の部屋だそうで、2人分の布団を敷けるだけのスペースしかない。

まあ、期待はしてなかったけど。

食事は賄いを分けてくれるそうで、陸の言っていた通り、宿泊客の利用時間後、1時間だけ温泉の利用も可能とのことだった。

といっても、宿泊客の利用時間は24時までだから、毎朝5時起きの俺たちは、部屋備え付けのシャワールームを使うことになりそう。


「ボランティアは明日の朝からだから、今日は温泉街でもブラつく?」

「ああ。良ければ翠和神社に寄りたいんだが…」


部屋に荷物を置き、宿内の探索をしながらロビーまで戻る。陸の口から翠和神社と聞いて、眉がピクリと動いた。あそこには陸を狙う胡散臭い後輩がいる。…行きたくない。


「祐希人に、借りたシャツを返しに行きたいんだ。寄れそうなら、連絡しておく」

「え、連絡?」

「ああ。シャツを借りた時に、返しに来る時は教えて欲しいと言われてたからな」


は〜〜〜!?

名前で呼ばせるだけに留まらず、アイツ、ちゃっかり連絡先まで…!

陸が、俺のものにならないとしても、アイツのものになるのはムカつく。絶対にヤダ。


「…伊吹のシャツは、返さなくていいんじゃない?多分もう忘れてるって。」

「ダメに決まってるだろ!」


チッ。

捨てなよ、とまでは言わなかったけど、即否定された。


「あ、あ…!あの…!」


陸との会話に集中していると、ふと、足元から鈴を転がすような声がした。


「お…、お兄ちゃんたち、は、のみのいちに来てた、『おたすけマン』…?」

「んー、惜しいけど、まあそんな感じ」

「迷子か?」


そこにいたのは、小学生くらいの女の子。顔を赤くして、緊張を堪えて俺たちに話しかけてきた。

あ、この子、見たことある。

蚤の市で転んでた子だ。確か、花屋のおばあさんと一緒に来てた。


「迷子じゃないの!あのね、…えーと、えーっと…」


もじもじと言い淀む様子に、俺と陸は目を見合わせ、その子と同じ目線になるようしゃがみ込む。すると、その子は、つぶらな瞳で俺たちを見て、覚悟を決めたように口元をキュッと引き締めた。

両手を赤く染まった頬に添え、内緒話をする声で俺たちに囁く。


「…まどかを、王子様と結婚させてほしいの。」









小さな依頼人は、どうやらこの宿の娘らしい。両親が宿を経営していて、祖母がお花の先生。なるほど、お嬢様じゃん。


「この時間は、お客さんがいないから、ロビーにいても怒られないよ!」


溌剌とした瞳が、俺たちを見る。


「お兄ちゃんたち、『おたすけマン』でしょ?まどかね、…あのね…、ゆきとくんと結婚したいの…!」

「『ゆきとくん』って…翠和神社の?」

「そう!」


ぷっくりした頬を染めるまどか。

よかったな、伊吹。お前の嫁は決まったらしい。もう陸のことは諦めてくれ。


「えっと…、俺たちは『お助け部』だ。それで、申し訳ないが…、結婚の手伝いは…できない。」


珍しく陸が依頼を断ろうとしている。まあ俺もこんな依頼は受けるつもりないけど。


「実は、結婚ができる年齢は、法律で決まっているんだ。まどかちゃんも祐希人も、結婚できる年齢じゃない。」

「え、そこ?」

「じゃあ、まどかが、ゆきとくんに告白するお手伝いは?」

「それなら引き受けよう」

「おい、待てって」


穏やかに微笑む陸をすかさず止める。

安請け合いにも程があるだろ。告白の手伝いって何だよ。てか、どう見ても小学生だし!


「はぁ。…まどか、お前何歳?」

「8歳!灰霞小学校3年2組!」

「あーそう。いいか?あと10年くらい待ってから考え直せ。小3と中3って、今、この年齢で6歳差は絶望的だから。」

「ぜつぼー?」

「楓!」


陸が、俺を叱るように睨む。なんだよ、本当のことじゃん。

諦めるなら、早いうちの方がいいんだから。


「気持ちを伝えるのは、悪いことじゃない。そして俺たちを頼ってくれている。なのに、なんでそんな意地悪言うんだ」


陸の言葉に、頭の中がカッと熱くなった。

意地悪?違う。

守ろうとしてんの、まどかの心を。

…俺の、心を。


「は?別に、意地悪のつもりないけど。まどかが傷付く前に止めてやってんの。」

「傷付くって…!」

「だって無理に決まってんじゃん!」

「…ふぇっ…」


思わず大きな声が出ていた。まどかが泣き出しそうな声を上げ、ハッとする。まどかを振り返ると、その大きな目には涙が溜まっていた。


「あ…、」

「…まどかちゃん、びっくりさせてすまない。大丈夫。俺たちが必ず協力する。続きはまた明日話そう。それでもいいか?」

「…うん、わかった」


陸が、また明日、同じ時間に同じ場所で、と約束してまどかを帰す。振り返った陸は厳しい目で俺を見た。


「楓、部屋で話そう。」













部屋に戻るまで、お互い一言も発しなかった。聞こえるのは、毛の短いカーペットを靴底が擦るバラバラなリズムだけ。

シリンダーキーが外れる音と同時に陸が扉を押し開ける。胸の高さの窓が一つあるだけの、小さな部屋。畳の上には俺たちの荷物と敷布団だけが置いてある。

そんな殺風景な部屋に入ると、陸は靴も脱がずに振り返った。


「あんな風に言うのは…、良くない。楓だって分かるだろ」


背後でガチャンと扉の閉まる音がする。

陸の目の奥には、また静かな青い炎がチラついていた。


「さっきも言ったが、気持ちを伝えることは、悪いことじゃない。だから…」

「…はぁ。お前さ、マジで言ってんの?」


大きくため息をついて、陸の言葉を遮る。

陸の声は、硬い。俺の声は、イラついている。


「告白したって当然フラれるのに、逆にまどかが可哀想だって言ってんの。」

「どうしてそう悲観的なことだけを言うんだ。それ以外にも大事なことはあるだろ!」


真剣な顔で訴える陸に、呆れて冷笑する。


「結果より過程って?そんなん綺麗事じゃん」


吐き捨てるように言うと、ギラリと光った目に強引に胸ぐらを引き寄せられる。視界がブレる。


「そうじゃない!楓も見ただろ!あの子は真剣に考えてる!」

「はあ!?まどかはガキだから!真剣っていっても、知れてるし!告ったら泣きを見るってことも分かってねーよ!」


苛立ちが語気を強める。陸の強い視線に、負けじと俺も睨み返す。


「なあ、なんでわかんねーの?お前さ、まどかが、俺たちに担ぎ上げられて、告ってフラれて、それで立ち直れないくらい傷付いたらどーすんの?『大丈夫、すぐ立ち直れる』って無責任に励ますわけ!?」

「無責任なんて…!」

「無責任だろ!」


頭の中がヒリつく。

力任せに胸ぐらを掴み返し、額がぶつかる勢いで陸の鋭く光る瞳を覗き込む。


「傷付いてるやつの痛みは代わってやれない!」


分かってる。俺が言っているのは、まどかの話じゃない。

俺の話だ。

まどかのことに自分を重ね合わせて、陸に八つ当たりしてる、だけ。

陸の首元を握る手が震えた。喉をひくつかせる乾いた空気。口元が歪む。


「惨めな奴を救うことなんてできねーんだよ!!」


自分の声が部屋の壁にビリリと響いた。


鼻の奥がツンとする。

全て、俺の心の叫びだ。

胸の奥にずっとわだかまっていた痛み。それが、怒りに似た悲しみになって、目の奥を熱くしている。

視線を落とし、胸ぐらを掴んでいた手を力なく離す。

震える喉で息を吸い込み、数度、肩で呼吸する。力の入らない両手をグッと握り込んだ。


「…好きになんて、ならなきゃよかった…」


吐き出した言葉が、喉を通り過ぎると同時に身体の力も抜けた。

呟くような声だったのに、静かな室内にはやたら響いた。

陸も、それ以上は続けない。首元の圧迫がスルリと消え、部屋の中には空調の無機質な低音だけが残る。

自分の浅い呼吸が、身体に響いた。


「…楓、」


陸の静かな声。

足元に落ちていた視線をゆっくり上げると、陸は戸惑うように瞳を揺らす。瞳の奥の炎は消えていて、そのまま伏せ目がちに言葉を発した。


「…わかった。そこまで嫌なら無理に協力する必要はない。…でも、俺はまどかちゃんの力になりたい。だから、俺1人でやる」

「……あっそ。じゃあそーすれば?」


陸から顔を背ける。

まだ、泣いちゃダメだ。コイツに涙は見られたくない。

視界がぼやける。


「…出かけてくる」

「…」


早くこの場から立ち去りたい。

黙ったままの陸を置いて部屋を出る。ガチャンとドアが閉じると、俺と陸の間にできた分厚い隔たりが、空気さえ遮断する。

重い足をズッと引き摺り、とにかく歩き出した。行き先なんて決めてない。

「大切なのは本人の気持ち」?…ばかじゃねーの。

お前にはわかんねーよ。フラれる側の気持ちなんて。

涙がはらりと零れたのを、弾くように指先で払った。













2日目の朝。アラーム音で目が覚めると、隣の布団は綺麗に畳まれていた。


「一人で起きれんじゃん…」


腕を額に当て、天井を仰ぐ。ふぅっと、息を吐き出す。

昨日は、帰ってからも、陸とはろくに口も利かなかった。陸は、何か言いたそうにしていたけど、俺は目すら合わせなかった。

カーテンの開かれた窓から、朝の光が射し込む。いつもと違う景色。見慣れない部屋。幽霊小屋の、緑のカーテンから透ける朝の陽を思い出す。


戻りたい。あの場所に、あの時に。


扉の向こうからは、旅館の朝支度の音が聞こえる。パタパタと廊下を小走りする音、ザアッとたくさんの水を流す音、何かを指示するような明るい声。

何もない空間に、自分だけポツンと取り残されている気分になる。

一人だけの狭い部屋には、ため息だけが響いた。







「みなさん、ご苦労様でした。明日もよろしくお願いします。」


ゴミ拾いが終わり、ボランティアスタッフは、会長の挨拶で解散する。三列前にならぶ黒い頭は、俺に振り返ることなく、宿への道を歩き出した。

俺は…、昼は、外で食べよう。

陸に向き合う勇気はなく、俺は反対方向へ足を向けた。


昼時の温泉街は一際賑わっている。以前、陸と歩いた道を、一人で歩く。飲食店から香る美味しそうな匂いも、楽しそうに笑い合う観光客グループも、客を呼び込む活気のいい声も、全てが俺の心細さを強めた。

温泉街を外れて、コンビニに入る。何の変わり映えのないおにぎりを二つ買って、イートインスペースで食べた。狭い駐車場と、寂れたアパートの裏側。味気ない風景をぼんやり眺めて食べる昼食は、しょっぱさしか感じられなかった。





旅館に戻ると、まどかと陸の声が聞こえた。しまった。自分たちの部屋に戻るには、ロビーの横を通らないといけないんだった。


「今日はお兄ちゃん一人なの?」

「すまない。考えるのは楓の方が得意なんだが…」


自分の名前が出て、思わず足を止め、近くの自販機コーナーに隠れる。


「楓お兄ちゃん、お熱?」

「いや、楓は元気だ。ただ、あいつは…、少し素直じゃないところがあるんだ。」

「そうなのー?」

「ああ。楓は、他人の言葉はしっかり聞くのに、自分の気持ちには嘘をつく。たまに泣き出しそうなほど不安そうにしてるのに、俺が落ち込んだときは…優しく手を引いてくれる。不器用だけど、とにかくあったかくて、頼れるやつなんだ」

「んー、よく分かんない…」

「フッ、すまない。つまり、俺と一緒に楓のこと、信じてやってほしい。きっと、また戻ってきてくれる。」

「うん!わかった!」

「ありがとう。」


ドクンと耳元で鼓動が聞こえ、陸の言葉が溶けて身体に満ちる。

胸を押されたみたいに、はあっと、息が塊になって漏れ出た。


「なんだよ…それ」


呟いた声は掠れている。

ぎゅっと胸が締め付けられた。苦しさを感じると同時に、体温が1度上がる。耳まで熱くなる。胸いっぱいになるようにゆっくり息を吸い込んだら、気恥ずかしさに反して、自然と顔は上を向いた。

俺が必死に隠してたこと、陸には勘付かれてんじゃん。


「脳筋陸のくせに。」


フッと、身体の力が抜けてしまう。後ろの壁にトンと背中をつき、体重を預ける。足にも力が入らなくて、そのままズルズル滑るように座り込んだ。やり場のない気持ちに、自分の殻に閉じこもるように顔を手で覆った。

昨日あんな風に言ったのに、陸は俺を信じてくれてる。あの日、陸は俺を頼りにしてるって言ってくれたのに、俺は…逃げて…。情けない自分が嫌になる。


「それで、告白の手伝いというのは、具体的に何をしたらいいんだ?」

「えーとね、ゆきとくんに、どんな子が好きか聞いてきてほしいの!」


俺が座り込む壁の向こうでは、二人の作戦会議が和気藹々と進む。


「あさって、まどかが告白するときに、ゆきとくんが好きなタイプになって、告白するの!」

「あさって?一日で準備できるのか?」

「だってあさっては、まどか、星座占いが一位なの!」

「…そうか。承知した。」


片手でこめかみを押さえるように、目を塞いでいた俺は、二人の和やかな会話に、フッと、笑いをこぼす。

二人とも、自分の気持ちにまっすぐだ。眩しいほどに。目は瞑っているのに、瞼の裏では真っ白な光に包まれる。

俺の負けだよ、ごめん、陸。

観念してしまえば、さっきまでの憂鬱から解き放たれたようなきがして、軽くなった心に、口元が緩んだ。


少しすると、こちらに向かってくる足音がして、慌てて立ち上がり、さらに奥に身を潜めた。

そっと様子を伺うと、見慣れた陸の後ろ姿。

足先に力が入る。

追うべきか、いや、急に話しかけるのはちょっと…。まだなんて言おうか考えてないし…。

正面玄関を出て、左に曲がった陸が、畳んだシャツを手に持っているのが見えた。

もしや、翠和神社に行くつもり…?


「…クソっ」


小さく呟いて、見えなくなった黒頭を追う。頭の中には、不敵に笑う伊吹の姿が思い浮かぶ。

考えはまとまらないままだけど、とにかく足が動いた。俺は、そっと陸の後を追った。









伊吹と陸は、社務所の前にいた。俺は近くにあった大きな木の陰から、二人のやりとりを見守る。

側から見たら不審者っぽいだろうな…。


「陸先輩、わざわざありがとうございます。」

「いいや、こちらこそ、助かった。」


距離近くね?伊吹。

陸の半歩前で、下から覗き込むように陸を見上げる伊吹。

西日が照らす伊吹の髪が、キラキラと艶めく。相変わらずの王子感。


「あと、祐希人の好きなタイプを教えてくれ」

「え?」


陸〜〜〜!!

突然の切り出しに、声にならないツッコミを心の中で叫ぶ。木の幹に添えていた手に力が入り、樹皮がパキッと小さな音を立てた。

お前、ストレートすぎるって!


「僕の好きなタイプ、ですか…?」

「ああ。できればすぐ真似できそうな外見なんかを教えてくれると助かる。」

「…知りたいですか?陸先輩」


陸の美しい瞳を、宝石のようなグレーの瞳が見つめる。逆光が、二人の整った横顔を光の線で縁取る。

映画のワンシーンのようにたっぷり数秒見つめ合うと、伊吹はチラリと視線を滑らせた。


「え」


バチリと視線が合う。

伊吹の口の端が微かに上がった。

サッと陸に視線を戻すと、グレーの瞳を穏やかに細める。


「僕、陸先輩の素直なところ、素敵だと思ってます。あと、その黒い髪と黒い瞳、すごく好きです。」

「そ、そうか。…えっと…、ありがとう?」

「僕にはない、真夜中の空みたいな、深い色…」


華奢な指先で、陸の耳元の髪に触れる。くすぐったさからか、陸の肩が小さく揺れた。

その瞬間、俺の身体にもビリッと電流が流れた。頭の中がカッと熱くなり、地面を蹴ると、二人の間に飛び込んでいた。


「勝手に触んなッ!」

「楓!?」


陸に触れている、伊吹の手をサッと払う。

伊吹は一瞬、真顔で俺を睨むも、すぐに表情を戻す。そのまま、爽やかな声色で続けた。


「あれ?楓先輩もいたんですか。」

「うるせーよ、白々しいんだよお前」

「楓、なんでここに…」


この場で唯一、状況を飲み込めてない陸が、困惑の声を上げる。平たく言うと、俺と伊吹がお前を取り合ってんの。

でも今は、陸の質問はスルー。目の前の腹黒エセ王子が優先。


「伊吹、この前俺に聞いたよな」

「はい」


あっけらかんに済ました顔で頷く伊吹に、一呼吸、間を空けて伝える。


「お前には、渡したくない。」


ザワッと、木々が風に揺れた。

覚悟をもった声は、低く響いた。真剣な色を宿した目で、ジッと伊吹を見つめる。わざとらしく目を見開く伊吹。


「そう、ですか…」


それだけ言うと、目を伏せる。

そして、品良く口の端を持ち上げると、グレーの瞳を細めた。


「まぁ、わがまま言ってるだけの楓先輩には、難しいと思いますけど」

「お前!ほんっと、かわいくない後輩」

「楓先輩も、先輩と思えないほど子供っぽいです」


セリフと顔が合ってない伊吹。毒のあるセリフを吐いているくせに、表情は聖母のような優しい笑み。ただ、俺に向けられる空気は刺々しい。


「もういこーぜ、陸」

「え?あ、ああ。またな、祐希人」

「はい。また」


陸の手を掴み、強制的に連れ去る。陸の別れの挨拶に手を振り返す伊吹を、気に食わない気持ちで見る。

食えない奴。

右手の中にある温もりをギュッと握り込んだ。











陸の手を掴んだまま、鳥居をくぐり、旅館へ続く道を歩く。神社を出た時は、伊吹への嫉妬から躊躇なく掴んだ陸の手。今は、ただ離したくなくて、未練がましく握り続けていた。


「楓、」


西に向かう道は、石畳に光が反射して輝いている。

遠慮がちに名前を呼ばれ、足が止まる。一瞬迷ったけど、大人しく陸に振り返った。


「信じてた。ありがとう」


眩しそうに目を細める陸。握る手に力が入る。自分の表情がグシャっと崩れた。情けない涙を見せないよう、再び前を向き、空を見上げた。

夜の群青が夕陽の橙に混ざり合い、淡く優しいグラデーションを作っている。西の空に浮かんでいる雲は、光の当たる面だけが橙に染まる。それはまるで、強い光に憧れ、集い、沈む夕陽を惜しんでいるかのように見えた。


「俺こそ、ごめん。」


俺の光は、ここにある。

再び、陸を振り返る。俺の大切な、失いたくない光。憧れて、焦がれて、止まない光。


「信じてくれて、ありがとう」


繋いだ手は、離さない。

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