第6話 看板は味方に
十一月二十日、水曜日。朝の七時、冷え込みは一気に深まった。雨戸を開けると、商店街の屋根瓦が白く霜で覆われている。私は寝間着の上からでも寒さが伝わるほどの冷えに、老眼鏡を探した。机の上に置いたままの売上推移表が、朝の光を受けて冷たく光る。
七時半、商店街を巡回する。まだ店を開けていないのに、田中店長は軒先に立ち、運搬車の通行時刻表を睨んでいた。
「おはよう、田中さん。今朝も早いな」
私が声をかけると、彼は額の霜を払いながら振り向いた。
「会長、今朝のデータです。15%減ですよ、15%。昨日なんて、運搬車が通った直後に入った客が『排気ガス臭くて買い物どころじゃない』って帰っていきました」
私は老眼鏡を3回もずらして、表を見た。数字は冷たく、確かに15%の赤字が並ぶ。しかし、店の中を覗くと、棚に並ぶ商品は温かそうだ。数値の冷たさと人の温かさの狭間で、私は言葉を失った。
「田中さん、私も店をやっていた頃を思い出すよ。客足が減ったら、まず自分の足で歩いた。だけど、今は条例という大きな壁が……」
「壁ですよ、会長。看板を出しても『排気ガスで汚れる』って言われる。商売の敵です、この条例は」
私は膝の痛みを押さえながら、店の階段を上がった。手すりを握ると、金属の冷たさが掌に伝わる。昔はこの手すりを、子どもたちが滑り台にしていた。今は誰もいない。
午後一時、若手店主・榊原悠太さんの店。SNS専用の撮影スタジオのような店内だ。
「会長、看板なんて古いですよ。インスタで『廃棄物処理施設の見学ツアー』をやったら、リピート客が来ます」
私は老眼鏡を外し、スマホの画面をのぞいた。ピンクのハートマークが踊っている。
「榊原さん、これが商売になるのか?」
「はい。実は処理場の見学コースを作って、最後に商店街で買い物って流れです。エコツーリズムですよ。田中店長のところにも連絡しようと思ってた」
私は膝を打った。痛みが走るが、気にしない。
「お前、それいいじゃないか。条例を敵じゃなく、客引きのネタにする」
榊原は笑った。
「敵か味方かは、使い方次第です。看板だって、汚れを恐れずに出せばいい。汚れたら洗えばいい」
三時、市役所。村井係長は資料を広げた。
「自治会長、経済影響のデータです。商店街の売上は平均12%減、特に飲食店が……」
私は手を振った。
「村井さん、データは分かった。次は、データを味方にする方法を話そう」
「味方に?」
「榊原君が言っていた。エコツーリズムだ。処理施設を見学コースに組み込み、最後は商店街で買い物。運搬車の通行時間も、ツアー時間に合わせれば、客は逃げない」
村井は老眼鏡をずらした。私と同じように、3回も調整している。
「そうですね……条例は経済を守るためのものでもある。活用するのは、住民の知恵です」
夕方五時、商店街。街灯が点る時間に、運搬車が通過した。しかし、榊原君の店前では観光客が写真を撮っている。田中店長も、看板を出し始めた。「排気ガス後も、安心して買い物を」という文言だ。
私は売上推移表を見た。15%減だった数字が、14%に下がり始めている。まだ道は長い。しかし、数字が温かさを帯び始めた。
夜七時、自宅。節子がカレーをかき回している。
「看板、汚れてもいいって榊原君が言ってた。昔は、看板を手で作ってたんだよ」
私は腰を押さえながら、テーブルに座った。
「節子、明日から商店街の看板を、廃棄物処理施設の説明に使おう。通行時間に合わせて、『今なら処理場見学ツアー実施中』ってネオンにする」
「あなたらしいわ。条例を敵じゃなく、味方にする」
私は手紙を書く時のように、手が震えるのを感じながら言った。
「商売の敵は、変化を恐れる心だ。条例は変化の助走台にすぎない」
冷えた夜、私は売上推移表に丸を付けた。14%減、だが下向きの矢印が、初めて上を向き始めている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます