第3話 消しゴムの跡

十一月十七日、朝六時半、雨上がりの冷気が襖の隙間から這い込んでくる。節子はまだ寝息を立てている。私は枕元の老眼鏡をかけ、昨夜書いた議事録の消しゴムの跡を指でなぞった。薄れてはいるが、紙面にうっすらと残る輪郭——まるで私たちの伝統のように、完全には消えない。


七時半、自治会事務所。鈴木副会長はすでに座り、資料の束を前に腕を組んでいた。


「本日はご臨席賜り、誠にありがとうございます」


私が頭を下げると、鈴木は老眼鏡をずらしながら言った。


「おはよう、会長。それより、今日は決めないといけない。住民説明会の形式だ」


役員五人が揃う。私は膝の痛みを押さえながら立ち上がり、ホワイトボードに「1.全戸訪問 2.集会開催 3.SNS活用」と書いた。


「まず、鈴木副会長の案だ。全戸訪問を主軸に、個別に意向を聞く」


鈴木は資料をめくった。消しゴムで削った跡が無数にあり、紙が薄くなっている。


「若手はスマホばかり見ておって、顔を合わせなきゃ本音は聞けん。七十年続く盆踊りも、最初は門戸を叩いて回ったからこそ成り立った」


私は老眼鏡を直し、反論した。


「承知いたしました。しかし、高齢者の方には夜の集会がきつい。SNSで事前情報を流し、不安を減らすことも必要です」


「会長、そうすると伝統が薄れる。条例という名の新しい線を引くとき、昔の線が消しゴムで消えるんじゃないか!」


鈴木の声が震えた。私は階段を下りる時のように、ゆっくりと腰を落とした。


「鈴木さん、私も同じ不安を抱いています。ただ、消しゴムの跡は残る。問題は、どう活かすかだ」


会議は平行線。結局、「午後に現場を歩いてみる」とだけ決めて散会となった。


午後一時、黒川町黒塩地区。雨上がりの空気は冷え、乾いた柿の葉がアスファルトに張り付いている。私と鈴木は、廃棄物運搬車の試走コースを歩いた。


「ここを右折すると、山田さんの家の前だな」


鈴木が地図に線を引く。消しゴムで何度も削り、紙が破れそうだ。


「全戸訪問なら、山田さんの不安も直接聞ける」


私は車の乗り降りで腰をかがめながら答えた。


「しかし、商店街の田中店長は通行止めで売上が減ると言っている。SNSで事前に周知すれば、迂回案も提示できる」


風が吹き、柿の葉が舞う。タイヤ跡を柔らかく覆っていく——まるで新しい条例が、古い生活を包み込むように。


三時、商店街。田中店長は店先でがっかりしていた。


「会長、説明会の案内状、まだ届かないんです。客も『道路が狭くなる』って心配で、買い物控えてるみたいで」


私は老眼鏡をずらし、試算書を見た。


「数字は分かる。だけど、田中さん、もしSNSで『臨時バスを回します』と流せば、客足も変わるかもしれない」


鈴木が口を挟んだ。


「それが、顔の見えない情報の怖さだ。昔は口伝で十分だった」


田中は困った顔で言った。


「副会長も会長も、意見が対立してると、商店街が二つに割れちまう」


私は膝を押さえ、二人を見た。


「だからこそ、明日の説明会で一緒に座ってもらう。対立を見せるんじゃなく、選択肢を増やすことにする」


夕方五時、自治会事務所。鈴木と二人きりになった。私は古いアルバムを開いた。昭和三十五年の盆踊り写真——子どもだった鈴木が、私と手を繋いでいる。


「鈴木さん、お前の若き日もそうだったんだよ。条例なんて知らなかったくせに、道を譲り合って踊った」


鈴木の老眼鏡がくもる。彼は消しゴムでそれを拭いた。


「会長……あの時は線もなにもなかった。それが、今は線が増えすぎて、どれを選べばいいか分からん」


私は手紙を書く時のように、手が震えるのを感じながら言った。


「だから、最初に線を引いたのは俺たちだ。七十歳を越えて、もう一度線を引き直すときが来た。今度は、消しゴムの跡を活かしてな」


鈴木は黙って頷いた。二人で地図を広げ、試走コースに新しい線——商店街を迂回し、山田さんの家の前に一時停止スペースを設ける案を書き込んだ。消しゴムは使わない。古い線の上に、太めのシャープペンシルで重ね書きした。


夜八時、自宅。節子はシチューをかき回している。


「今日も、大変だったんでしょ」


私はテーブルに座り、老眼鏡を外した。


「鈴木さんと和解した。明日の説明会で、最初に彼を紹介することにした」


節子が微笑む。


「昔は説明会なんてなくても、寺の鐘が鳴れば集まったのに」


私は消しゴムの跡を指でなぞりながら答えた。


「消しゴムの跡は、完全には消えない。でも、新しい線を引くことで、地図は生き返る。俺たちの仕事は、跡を活かすことだ」


「あなたなら、できるわ」


私は決意を新たにした。十一月十八日の住民説明会——最初に紹介するのは、六十五年の友人・鈴木一郎。その姿こそ、消しゴムで消せない伝統の証。そして、新しい線を引く起点になる。


雨上がりの夜、冷たい月が窓を照らす。私は老眼鏡をかけ直し、明日の原稿用紙に向かった。最初の文字は、鈴木の名前だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る