第27話 あたしの娘、孝謙天皇即位
天平二十一年(七四九)六月――譲位前夜。
紫の夕雲が、都の空をゆっくりと溶かしていく。
薄闇の宮中は、どこか張り詰めていて……まるで息をひそめているみたいだった。
あたしは長い回廊を歩いた。
砂利の音が、やけに響く。
その先に――
聖武天皇、あたしのダーリンがひとり、月を見上げて座していた。
その背中は、以前よりずっと細く、静かだった。
ここ数年、疫病と反乱と遷都ラッシュで、彼の肩は限界まで削れていたのを……あたしは痛いほど知っている。
「……光明」
振り返ったダーリンの声は、ひどく静かで、逆に胸が鳴った。
「何? ダーリン」
横に座ると、彼はふっと笑った。
その笑みは、少年みたいで、そして――仏のように穏やかだった。
「決めたのだ。
明日、阿倍を……孝謙を、皇位につける」
空気が止まった気がした。
あたしは、しばらく答えられなかった。
阿倍――
あたしの娘であり、あの人が全霊で愛した、唯一残った子。
(ついに……言ったね、ダーリン)
「この国を救えるのは、もはや王の力ではない。
わたしは……祈る者として、生きたいのだ」
吹っ切れた男の声だった。
幾年も災厄を抱え続け、苦しみ抜き、なお国を想う王の声だった。
胸が熱くなり、あたしは拳を握った。
「……逃げるわけじゃ、ないのよね?」
「逃げぬ」
ダーリンは月を仰いだ。
「阿倍ならば、光明、おぬしが側で支えるが良い」
涙が落ちそうだった。
だけど、極道のお嬢は泣かない。
代わりに、あたしはダーリンの手を握った。
「任せなさいよ、ダーリン。
あたしが娘を支える。
あんたの作った道を、あたしが守る。
国も、仏も、人も――全部まとめて背負ってやる」
ダーリンが肩を震わせて笑った。
「……光明は、強いな。
光明……ありがとう」
この ありがとうを聞くために、
あたしはこの時代に転生してきたのかもしれない――
翌日――孝謙即位。
娘は、朝日の中で宝石みたいに輝いていた。
孝謙が玉座へ歩む足取りは、強く、揺らぎがなかった。
裾の長い裳もが朝の光をひらめかせる
――そうよ。あたしの娘だもの。
膝を折り、孝謙が玉座に座した瞬間、
宮中がまるで滝のようにざわめき、空気が変わる。
新しい時代の始まり。
そのとき――
譲位したばかりの聖武が、そっとあたしの耳元で言った。
「光明……あとは頼む」
あたしはにやっと笑った。
「言われなくてもやるわよ。
――この国、娘と一緒に再建してやる!」
琥珀色の光が、広がっていく。
仏の光か、それとも運命が動き始めたのか。
どちらにせよ、あたしは前に出る。
権力も、仏も、愛も、全部まとめて――手に入れてやる。
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