第2話 傷だらけ。

2:稗圃宝雅


 久々の日光は、ただただ眩しかった。


 10月の半ば、冷たい風が肌に吹き付ける。あまりに外に出るのが久しぶりすぎて半袖で家を出てきた1時間前の僕に文句を言ってやりたい。


 母さんが死んでから、僕は葬儀以外で外に出ていなかった。入院する弟のお見舞いにも行っていない。薄情だと思われるかもしれないが、それでも僕は彼に合わせる顔がなかったのだ。疾風には、どうしてもこんな情けない兄の姿を見せたくなかった。


 一時は生死を彷徨っていた弟に、僕は気を遣った言葉をかけることが出来ない。父さんみたいに「大丈夫だ」なんて言えない。それに、僕が疾風に何をしてあげられるのかと言えば、何もない。自分の心の整理も追いついていないのに、弟を気遣う優しいお兄ちゃんではいられない。だから、僕は疾風に会いに行けないでいる。


 高校も休み、家でTVと睨めっこする日々を過ごしていた僕が外に出た理由は、決して大きいものではなかった。


 外の空気を吸いたかった。それだけだ。


 実際、TVと母さんの遺影と過ごしている日中の家は息苦しかった。母さんが帰って来ないとわかっているのに、何となく帰ってきてくれる気がして、母さんを待っている自分にうんざりした。それに、ずっと家にいたら、母さんのことで頭がいっぱいになって狂ってしまうかもしれない。


 だから、気分転換のつもりで外に出た。足は重かったけど、それでも宛てもなく歩いた。


 でも、無意識に歩く道は、母さんと歩いた路だ。母さんが運転してくれた車で走った路だ。


 そうやって思ってしまったら、もう駄目だった。涙が、溢れてきて止まらない。通りかかる人たちがひそひそ話をしながら僕を指さすけれど、僕には溢れ出すものを抑えることが出来なかった。


 何とか、人通りの少ない細い道に入り、呼吸を整えながら涙を拭う。拭っても、拭っても、溢れるものは溢れる。


 そのうち、気持ちが悪くなって、蹲った。ドキドキと心臓がうるさい。


 体育座りをしながら、顔を自分の胸になるべく引き寄せた。誰もいないのに、誰かに顔を見られるのを恐れたからだった。


 情けないとは思うのだけれど、でも、自分のせいではないのだ。勝手に涙が出て来るのだ。


 「うっ」


 胃がムカムカする.


 やばい……そう思った時にはもう遅かった。自分の着ていた白いYシャツにベットリと胃液が付いてしまう。


 しばらく胃の気持ち悪さを堪えきれず、体育座りを崩さないまま、吐いていた。自分の嗚咽が聞こえるだけで、他には何もない。助けてくれる人はいない。


 落ち着いた頃には「染みになるな」なんて他人事のように思えた。とりあえず、口の中の酸っぱさをどうにかしたい。でも、残念ながら僕はお金を持ってきていないから自動販売機で水を買うことすら出来ない。


 まだ体のだるさが残って、立ち上がりたくなかった。父さんに迎えに来てほしいなんて、我儘なことを考えてしまう。


 「おい、どうしたんだ? そんなところで」


 「え、僕?」


 「お前だ。他にいないだろ」


 突然、頭に声をかけられた。慌てて顔を上げると、ジャージを着た男性が立っていた。


 男性は茶髪で耳にピアスを付けていて、学校では比較的地味な部類の僕にとっては少し怖く感じた。

しかも、彼はジャージのズボンのポケットに両手を突っ込んでいる。どう見ても柄が悪い。


 カツアゲされたりして……。


 何て恐怖に晒されながら、僕は彼に質問されていたことを思い出す。「どうしたんだ」って言われても……。


 僕が黙っていると、彼は何かに気付いたようだ。突然、着ていたジャージを脱いで、僕の方に乱暴に投げつけてきた。 


 「ほら、吐いたもの、服に付いてるぞ。気持ち悪いだろ。脱いでそれ着ろ」


 「え、でも」


 「いいから着ろ。……具合悪くて着替えられないのか? 着せてやろうか?」


 「い、いえ! 自分で着れますけど……でも」


 「いいから」


 「……」


 彼の鋭い赤い瞳が怖くて、僕は慌ててYシャツのボタンをはずした。そして、見知らぬ彼がガン見している前で、彼のジャージに着替えた。


 ジャージのファスナーを上まで閉める。そこまで見て、彼は体育座りする僕の視線に合わせるようにしゃがみ込む。


 「具合が悪いなら、背負って送ってやる」


 「えっ!」


 「顔色が悪い。遠慮するな、ほら」


 「ええ!?」


 彼は僕をしっかり目に捉えて言った後、何事もないかのように僕に背を向けた。


 そんな彼の日焼けしていない白い腕を見ると、傷があった。刃物で傷つけたのだと思われる古傷が、腕に何本もある。


 「あの」


 「ほら、早くしろ」


 「……」


 強い口調で言われては、断る方が勇気の必要なことに思えた。


 「失礼します」


 僕は諦めて、彼の背中に体重を乗せた。


 彼の背中に顔を埋めながら、ぼんやりと彼の瞳を思い出す。


 彼の瞳は、空っぽに見えた。


 まるで、今の僕のようだ。



 「本当に大丈夫か」


 「はい。すみません、一緒にいてもらっちゃって」


 「急に泣かれて焦ったが問題ない」


 「すみません……あはは……」


 どこが家なのかと聞かれたが、さすがに家までおぶってもらうわけにもいかないので、彼の用事のある場所の近くを希望した。はじめは彼も食い下がってきたが、僕がここら辺に住んでいるのだと頑張って説明したら諦めてくれた。


 彼が連れてきてくれた場所はプールの前だ。僕はこのプールに中学生の頃まで大会でお世話になっていたため、馴染みのある場所だった。中学では水泳部で青春を過ごしたのが懐かしい。高校は今は休んでいるから、殆ど水泳部には顔を出していない。今から練習を再開しても、きっと大会メンバーにも選ばれないだろう。


 彼は、僕のために水を買ってくれた。彼の所持金はわずか200円だった。「足りてよかった」なんて無表情で言った後、僕に何も聞かずに買って「飲め」と押し付けた。強引だが、いい人なのだと思う。人は見かけによらないとはこのことだ。


「あの、時間は大丈夫なんですか」


「ああ、俺は午後からだから……まあ、遅刻しても平気だ」


「え、遅刻!? 何かあるんですか!?」


 まさか、水泳の大会では……?


 「……水泳部の、大会だ」


 思っていた通りの回答が来て、僕は慌てて彼のジャージを脱ごうとする。恐らく、彼のこのジャージは高校の部活のジャージだ。彼にとって大切なものだろう。


 「脱ぐな。シャツで歩かれても困る」


 「でも」


 「気にするな。あ、暇なら見て行けよ、大会」


 ジャージのファスナーに手をかけたが、彼に制止され、やめた。そうだ、今脱いだらシャツだ。だからといって今手に持っている吐いたものがついたYシャツは着たくないし……。


 「たまには、現実逃避もいいだろう? まあ、現実逃避になるかわからないが」


 「……」


 僕は、彼の前で「母さん」と叫んで泣いてしまっていた。だからなのか、彼は僕の心境を重んじてくれているようだ。


 泣いている時は、慰めの言葉はなかった。彼は、母さんを呼ぶ僕の背中を擦って、無言で傍にいてくれた。


 別に、慰めてほしいとか、同情してほしいとかは思っていなかったから、僕は彼がそういう対応をしてくれて、嬉しかった。


 それでも、僕がこのままではいけないと思っていることを察してか否か、彼は僕に現実逃避の仕方を一つ教えてくれる。ただ、大会を観戦する。それだけ。


 「あの、失礼ですが……その傷」


 僕は、彼に少し踏み込まれた。だから、僕も少しだけ踏み込んでみたい。


 僕は、彼の自傷行為の痕と思われる傷を見る。


 「プールに入ったら隠せないし……今だって隠してないけど……その、それ、自分で切ったんですよね……? いいんですか?」


 見られて、嫌じゃないんですか?


 僕なら、嫌だ。傷は、出来たら見ないでほしい。彼に情けない姿を見せてしまったが、見られなかった方が良かったとは思っている。


 「その、いや、えっと」


 本当に失礼な奴だと思う。だって、彼は、僕を助けてくれたのに。それなのに、多分言われたくないことを聞かれている。


 でも、僕だけが傷を見せたままなのは、なんか嫌だった。自分が弱いもののようで、悲しかった。


 「まあ、結構引かれるな」


 彼は、僕の失礼な態度に特に気を悪くした素振りも見せず、無表情で言った。


 それを見て、それこそ自分だけが弱いもののように感じ、申し訳なさが膨らむ。


 「あの、すみませ……」


 「いい、気にするな。お前も……少し引いたんだろ? でも、俺はこれでいいんだ。恥じても何も変わらない。それよりも、今は水泳部でみんなと一緒にいる時間の方が大切なんだ」


 彼はきっと、凄い人なんだと思う。


 何か、時別な人間という訳ではないだろうけど。それでも、自分の古傷を晒し、誰に引かれようと気にしないその心は、僕にはないものだ。


 僕は、自分の傷を見せたくない。多くの人がそうだと思う。僕は、自分が情けないのも自覚しているし、だからこそ弟の前にも行けないし、外で気丈に振る舞うことも出来ないでいる。


 彼は、きっと自分の古傷を「傷」だと思っていないのだろう。それはきっと、その「傷」を乗り越えた結果なのかもしれない。


 「お前に何があったのかはわからないし、聞かないが。俺もお前みたいに母さん、母さんって泣いていた頃もあった。永遠に自分はそうなのかと思ったけど、今はその頃に比べたらだいぶ楽だ」


 彼が僕の前に立つ。彼は人の目を真っ直ぐ見つめる人だ。だから、僕も彼に倣ってついつい見つめてしまう。


 「お前も、変わりたいと思って外に出て来たんだろう……。焦ることはない。時間がかかってもいいから、お母さんを心配させないようになれよ。時間が解決してくれることもあるし、自分で解決出来ることもある。傷はなくならないけれど……今じゃなくていいんだ。焦らずに、ゆっくり向き合え」


 僕の頭に、彼の手が触れる。彼の手はそのまま僕の頭を優しく撫でてくれた。


 僕は、泣きそうになってしまった。僕は、焦っていたのだろうか。ああ、きっとそうだ。このままではダメなのだと、焦って外に飛び出した。でも、結局身動きが出来なくなってしまったのだ。


 彼は、僕の母さんが事故で死んだことは知らないし、僕も彼の傷のことはわからない。でも、それでも何かが通じた彼に僕は心から感謝する。


 「あの、お名前、教えてもらっていいですか?」


 人に名前を聞くときは自分から名乗るのが礼儀なのだが、あいにくこの時の僕はそんなことを考えられなかった。


 ただ、彼のことを忘れたくなくて、急いで彼に名前を尋ねる。


 名乗りもしない失礼な僕に、彼は少し目を細めたが何も咎めてはこなかった。代わりに、僕の質問に表情を変えないまま答える。


 「ノウガワだ」


 「ノウガワ、さん」


 「ああ」


ノウガワさん。


僕は、彼の名前を何度も頭でくり返した。



 水泳の大会。ノウガワさんが出場したのは個人メドレー200メートルだ。彼はどうやら強豪校の選手だったようだ。僕の家から最も近い高校の名前を背負って、彼は泳いだ。


 ノウガワさんは、バタフライと背泳ぎでは3位くらいの位置にいたが、平泳ぎとクロールで1位に浮上した。


 壁にタッチしたノウガワさんが、順位の出る掲示板を見る。肩を上下にしながらそれを確認した後、ゴーグルとキャップを脱ぎ捨てた。 


 そこで僕が観客席から見ていると気付いたらしい。ノウガワさんは僕の方に軽く手を挙げてくれる。僕もつられて手を挙げた。


 ノウガワさんは、腕以外にも古傷がたくさんあった。背中の傷というか痣というか、あれは火傷なのだろうか。


 傷だらけの彼は、それでも僕には美しく見えた。


 彼の言っていたように、あの傷だらけの体を見たら引く人もたくさんいたのだと思う。同情する人もいたのだと思う。それくらい目の引く傷だ。


 でも、彼はそんな目を一切気にしていないように見えた。いや、実際はわからないけれど、少なくても僕にはそう見えたのだ。


 僕の身近にも、リストカットの痕のある女の子がいた。彼女の傷を見た時は、「可哀想だと思ってほしいのかな」なんて酷いことを思った。あの時の僕は恥ずかしい人間だった。今ならそう思う。


 別に、ノウガワさんも彼女も、同情を得るために傷を負っているわけではないのだ。それは、自分の手で付けた傷であっても、「自分で傷つけた」わけではない。何かに傷づいた「痕」を体に表しているだけだ。


 傷があってもいいのかもしれない。それを隠す必要はないのかもしれない。ノウガワさんを見ているとそんな風に思える。


 「疾風も、吉穂も、僕に傷を見せてくれるかな」


 そして、僕も誰かに弱気な自分を見せてもいいのだろうか。


 ノウガワさんが友だちと思われる人と話しているのを遠くで眺めながら、僕は唾を飲み込んだ。

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