第二部 殺戮の証明
カシウスの隠れ家である洞窟に戻った後も、彼は目の前で起きている現実をうまく飲み込めずにいた。リッセと名乗った人形は、彼の言葉を寸分違わず理解し、実行した。散らかったガラクタを種類別に分類させれば、その動作はどこまでも正確無比で、人間ならば半日はかかる作業を瞬く間に終えてしまった。だが、そこに感情の介在は一切ない。カシウスが話しかければ答え、命令すれば動く。それだけだった。紫色の美しい瞳は、カシウスを映してはいても、彼を見ているようには思えなかった。それは、まるで精巧な鏡と会話しているような、虚しい感覚だった。
夜になり、カシウスが干し肉を火で炙り始めると、その匂いに気づいたのか、リッセは音もなく彼の隣に立っていた。
「それは、有機物を熱によって変質させ、摂取しやすくする行為ですね」
「……まあな。お前も食うか?」
半分は揶揄のつもりだった。だが、リッセは真顔で、しかしその表情は微動だにせず、静かに首を横に振った。
「生命維持に、外部からの有機物摂取は必要ありません。当機は、マスターの言う『味覚』という感覚機能を実装していません。塩味、甘味、苦味……それらの概念は理解できますが、体感することはできません」
「そうか……」
カシウスは、焼けた干し肉を一人でかじりながら、奇妙な孤独感に襲われた。目の前に、これほど美しい少女の姿をしたものがいるというのに、その心は遥か彼方の、カシウスには決して届かない場所にあるように感じられた。彼女との間には、決して越えることのできない、硝子の壁が存在しているかのようだった。
その夜半、カシウスが浅い眠りに落ちていた時だった。
「マスター。外気に複数の敵性反応を感知。数は三十……いえ、三十を超えます。武装レベル、高い。当機への脅威度はクラスBと判定」
リッセの声で、カシウスは跳ね起きた。洞窟の入り口から外を窺うと、
「クソっ……〈鉄錆〉の連中か! なんでここが……」
〈鉄錆〉のギデオン。このあたりの砂漠を縄張りとし、古代の兵器をかき集めては、その力で覇を唱えようとしている悪党だ。遺跡の情報をどこかで嗅ぎつけたに違いない。あるいは、リッセが目覚めたことで発せられた何らかのエネルギーを感知したのか。
「マスター、指示を」
リッセは、その美しい
カシウスの脳裏に、選択肢が浮かぶ。逃げるか? いや、囲まれている。戦うか? 相手は三十人以上。カシウス一人では到底かなわない。
「……リッセ」
カシウスは、意を決して言った。己が何を口にしようとしているのか、半分は理解していなかったかもしれない。それは、神に祈るようでもあり、悪魔に魂を売るようでもあった。
「お前、戦えるのか?」
「はい。当機は、護衛および戦闘を主目的の一つとして設計されています」
「そうか……なら、頼む。あいつらを、排除してくれ」
その言葉が、引き金だった。
「――了解しました。マスターの安全確保を最優先事項とします」
リッセは静かに頷くと、洞窟の闇へと溶け込むように歩みを進めた。その手には、何も持っていない。カシウスは
次の瞬間、洞窟の外から絶叫が響き渡った。
それは、恐怖と苦痛に満ちた、人間の断末魔の叫びだった。一つではない。いくつもの絶叫が、次々と重なり、砂漠の夜を引き裂いた。金属がぶつかり合う甲高い音、肉が断ち切られる生々しい音。
カシウスが恐る恐る入り口から顔を出すと、そこには地獄があった。
月光の下、銀色の髪をなびかせ、リッセが舞っていた。それは、戦闘というよりは、死の舞踏と呼ぶにふさわしい光景だった。彼女の両腕は、肘から先が滑らかな黒曜石の刃へと変形していた。その刃が
リッセの動きには一切の無駄がなかった。敵の攻撃は、すべて最小限の動きで見切られ、回避される。そして、一瞬の隙を突いて放たれる刃は、的確に急所を捉えていた。その紫色の瞳は、先ほどと何一つ変わらない。感情のない、冷たい光をたたえたまま、ただ眼前の「敵性体」を「排除」していく。彼女がまとっていた、数百年を経て脆くなっていた古代の絹衣は、その激しい動きの中でズタズタに引き裂かれ、血に濡れた夜風に散っていった。
やがて、絶叫は止んだ。
戦場には、三十を超える亡骸と、おびただしい血の匂いだけが残された。その中心に、リッセは静かに立っていた。返り血一滴浴びていない、滑らかな象牙の肌を月光に晒して。黒曜石の刃は、いつの間にか元のしなやかな腕に戻っていた。
「――敵性体の排除、完了しました。マスター」
その声も、表情も、先ほどまでと何ら変わるところはなかった。まるで、庭の掃除でも終えたかのように、淡々と。
カシウスは、言葉を失った。彼は手に入れてしまったのだ。美しい少女の姿をした、この世で最も冷徹で、そして最も強力な――殺戮の天使を。その事実に、カシウスは歓喜よりもむしろ、底知れぬ恐怖と、そして奇妙な罪悪感を感じていた。
◇
〈鉄錆〉のギデオンの執拗な追跡から逃れるため、二人は伝説の〈星見のオアシス〉を目指す旅に出ることを決めた。そこならば、リッセの秘密を解き明かし、ギデオンの手から逃れる方法が見つかるかもしれない。カシウスは、もはやリッセという存在から目を逸らすことができなかった。
旅の途中、彼らは砂漠の民が細々と営む小さな街に立ち寄った。そこでカシウスは、けちな有り金の中から、フード付きの粗末な旅人のローブを一枚買った。彼はそれを、無言でリッセに差し出した。
リッセは、差し出されたローブとしばらくの間、カシウスの顔を交互に見つめた。
「命令、ですか?」
「……そうだ」
「了解しました。ですがマスター、この布に、戦闘補助および身体防護機能は確認できません。着用する合理的な理由を提示してください」
「いいから着ろ!」
カシウスは、思わず声を荒らげていた。リッセの、あまりにも完璧で、あまりにも無防備な裸身に、街の男たちの下卑た視線が突き刺さるのが、我慢ならなかったのだ。それは嫉妬とは違う。もっと、自分の所有物を汚されまいとするような、独善的な感情だった。
「これは……お前を守るためのおまじないみたいなもんだ。それに、人の中で生きていくためのルールでもある」
不器用にそう言うと、リッセは初めて、わずかに戸惑うような素振りを見せた。彼女は、与えられたローブにゆっくりと袖を通す。その仕草は、初めて服を着る子供のようでもあった。フードまで深く被ると、彼女の神々しいまでの美しさは粗末な布の陰に隠れ、ただの旅の少女のように見えた。リッセは、ローブの裾を指でつまむと、不思議そうにそれを眺めた。
「おまじない……ルール……。理解不能な概念です。ですが、マスターの命令として記録します」
カシウスは、その姿から目をそらし、足早に歩き出した。胸の奥が、ちりちりと痛むようだった。
砂漠の旅は過酷を極めた。灼熱の太陽が照りつけ、カシウスは汗を流し、日に日に体力を奪われていく。だが、リッセは涼しい顔で、常に彼の数歩後ろを正確な歩幅でついてきた。
「マスターは、なぜ発汗を? 体内水分の損失は、生命維持において非効率的です」
「……うるさい。これが、人間だ。汗もかかなきゃ、体温が上がりすぎてぶっ倒れるんだよ」
「非効率的な設計ですね」
平然と返すリッセに、カシウスは時折どうしようもない孤独と、そして怒りに似た感情さえ感じた。
しかし、夜になれば、二人の関係は逆転した。
砂漠の夜は、すべてを凍らせるほどに冷え込む。人間であるカシウスは火を焚き、毛布にくるまらなければ眠れない。だが、リッセは体温という概念を持たなかった。彼女の肌は、外気と同じ温度まで、ただひんやりと冷たくなるだけだ。
そして、夜はメンテナンスの時間でもあった。
「リッセ、こっちへ来い」
焚き火のそばで、カシウスはリッセを手招きした。リッセは音もなく彼の前に座る。カシウスは、自分の水筒から湿らせた布で、彼女の球体関節に詰まった砂を、一つ一つ丁寧に拭き取っていく。
「……関節内部にマイクロダストが侵入。動作に0.02%の遅延が発生しています」
「悪かったな、こんな旅に付き合わせて」
「これはマスターの命令によるものです。私に、異議を唱える権利はありません」
カシウスは、返事をせずに、貴重な機械油を染み込ませた革片で、彼女の関節を磨き上げた。象牙のようになめらかで、石のように冷たい肌。その感触が、彼女が人間ではないという事実を、カシウスにまざまざと突きつける。
「私のボディに、マスター以外の人間が触れることは許可しません」
ふと、リッセが呟いた。
「……当たり前だ」
カシウスはぶっきらぼうに答えながら、顔を上げることができなかった。
この行為は、ただの道具の手入れのはずだった。だが、彼の心には、それだけでは割り切れない感情が、確かに芽生え始めていた。この冷たい人形に、彼は何か人間的なものを、温かい何かを見出そうとしている。それは、妹を救うという大義から逃れるための、ただの感傷なのかもしれない。それでも、彼はこのメンテナンスの時間を、奇妙な安らぎと共に受け入れている自分に気づいていた。それは、彼にとって救いであると同時に、抗いがたい苦悩の始まりでもあった。
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