青い炎は、眠る英雄を照らす。
杞憂谷
プロローグ 『逸脱』
日常なんて、壊すのは簡単だ。
いつもは右に曲がる道、左に行くだけ。
説教を垂れる教官、今日はたまたま殴り飛ばすだけ。
優等生は、たった一撃で問題児へ。
今日、私の綺麗な未来は壊れた。
音もなく、ただ静かに、透き通っていたはずの世界は割れ落ちた。
両親は――普通。厳しくもなく、甘くもなく。
私は普通の家に生まれ、普通の『良い子』だった。
いや、演じていた。多分、ずっと。
勉強も、剣術も、魔術も、それなりにできた。
そう見えるように努力した。
"良い子"でいるために。
王国の兵士になって、平和な世の中でそれなりに出世して、
普通に生きて、普通に死ぬ。
……そう思っていた。
でも、終わったんだ。今日。
後悔はない。やってしまったことは、もう仕方がない。
気づくと私は、教官の鼻っ面に拳をめり込ませていた。
木剣を取り落として転がる教官を、私は妙に冷静で、冷めた目で見下ろしていた。
怒り狂った教官は、立ち上がるや否や反撃に出た。
私は教官の木剣による反撃を受け入れ、滅多打ちにされた。
――ああ、痛い。
焼けるような熱が、骨まで染みる。
――ああ、肋骨いったな。顔も痛いな。
そう考えていたあたりで、視界が真っ黒になった。
気がつくと、消毒液の匂い。医務室の天井が見えた。
起き上がろうとした瞬間、右の肋骨がギシギシと警告を鳴らす。
顔の右側も、なんだか動きが鈍い。熱を帯びている。
「いてて……」
呻きながら起き上がる。窓の外に目をやる。
たくさんの訓練生が木剣で素振りをしていた。
そこに、扉が開いた音。
私を殴った張本人、教官が入ってきた。
開口一番、
「大丈夫か?メティ」
笑わせないでくれ。
お前がやったんだろ。
「いえ、何か所か折れてますね。大丈夫なわけないです」
なるべく冷静に、嫌味たっぷりに返す。
「……なんで、あんなことしたんだ」
教官の顔が、少しだけ曇った。
「なんででしょうね」
私も曇らせてやった。
「……まぁ、俺も悪かった。やりすぎた。だけどお前、午前中の訓練を無断欠席したろ?そのことで説教していただけなのに、いきなり殴るのはあんまりだろうよ……」
「ええ、本当に申し訳ないと思ってますよ」
間を置いて、棒読みで返す。
「……で?何かあったのか?」
「色々考えた結果冒険者になろうと思ってます」
咄嗟に出た方便だった。実際には微塵もそんなことは考えていない。
「……は?」
教官の顔が間抜けに歪んだ。
「王国への推薦、もう出してあるぞ?」
「取り消しておいてください。代わりに、冒険者ギルドへの推薦状をお願いします」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて教官は息をついた。
「……また様子を見に来る。それまでに考え直せ」
「無駄ですよ。私の気持ちは変わりませんから」
親には、何か言われるだろう。
でも、どうでもいい。
私はベッドに横たわり、頭まで布団を被った。
ぽつりと呟く。
「……甘いもの、食べたいな」
不意に、一筋の涙が頬を滑った。
さよならだ、昨日までの私。
"良い子"だった私。
口の中は、鉄の味。
視界がゆらぎ、瞼が重くなっていく。
私は、ゆっくりと沈んでいった。
薄暗く、ぬるい夢の底に。
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