第4話 沈む月

 放課後の空は、どこか濁っていた。

 陽が沈む前の光が、薄い青の層を残しながら校舎の窓に反射している。

 風が止まり、鳥の声も遠ざかっていく。


 ――静寂が、何かをじっと待っている。


 白瀬湊は校門を抜ける足を止め、ふと空を見上げた。

 高く、淡い月が出ていた。まだ夜には早い時間なのに、その月だけが異様に白い。

 まるで昼と夜の境目に、ぽつりと迷い込んだようだった。


 そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。

 画面には、見慣れた名前。

 ――黒川陸。


 息を呑んだ。

 震える指でタップする。だが、通話ではなかった。

 メッセージが一行。


 『湊。俺、生きてる。“青の丘”で、待ってる』


 指先が凍りつく。

 あの夢の中と同じ言葉――。


 湊は気づけば、もう走り出していた。

 周囲の景色が薄れていく。踏みしめるアスファルトが、やけに遠く感じる。

 意識の奥で、波の音が微かに重なっていく。




 “青の丘”は、街の外れにある小さな公園の奥にある一角だ。

 子どもの頃、湊と陸と真白の三人で、よく秘密基地を作った場所。

 今では立ち入り禁止の柵が錆びつき、草が腰の高さまで伸びている。


 丘の上まで来たとき、風が止まった。

 世界が呼吸をやめたように。


 そこに――陸が立っていた。


 制服姿のまま、ゆっくりとこちらを振り返る。

 あの日と変わらない顔。

 だが、その瞳だけが、どこか違っていた。

 生者の光ではなく、月の光をそのまま閉じ込めたような、冷たい青。


「……陸……?」


 湊の声は震えていた。

 陸は笑った。その笑顔は優しく、それでいて遠かった。


「覚えてる? ここで誓ったよな。“いつかこの小さな町をふたりで出よう”って。そしてお前は“その時は、この丘の上から満天の星空を眺めよう”って言ったよな」


「ちゃんと覚えているよ……」


「俺、本気だったよ。だって、お前は俺の……“半分”だから」


 風が吹いた。月が雲に隠れ、一瞬、陸の姿が揺らぐ。

 その背後に、青い光が滲んだ。

 まるで、水の底にいるような淡い明滅。


 湊の足元の土が湿っていく。

 冷たい波紋が、靴の縁に触れた。

 気づけば丘の地面が、まるで水面のように揺れている。


「陸、そこに……何があるんだ?」


 陸は静かに手を伸ばした。

 その指先が、月の光を裂くように白く輝く。


「“記憶”だよ。俺たちが忘れてるもの。……俺がここに残された理由」


 湊は息を詰めた。

 胸の奥に冷たい痛みが走る。

 記憶――それは、陸が“消える前”の夏の日。


 海に行く約束をして、自転車で出かけた。その途中で雨が降って、陸が笑いながら言った。

「じゃあ、かわりに“青の丘”で泳ごうぜ」って。


 その冗談を、湊は本気にして自転車で走り出した。

 ――そして、雷鳴が落ちた。

 そのあとの記憶がない。

 ただ、目の前にはひしゃげた自転車と歪んだガードレール、そして大破した乗用車――。


「陸……お前、あの日――」


 言葉を遮るように、陸の姿がふっと滲む。

 水面のように揺れ、そこから複数の“顔”が浮かび上がる。

 真白、透、そして見知らぬ人々。

 全員が、青い光の中で泣いていた。


「……見える? これが“波紋”だ。俺だけじゃない。みんな、何かを忘れてる。でも、“忘れたもの”が消えるわけじゃない。それは、別の誰かの記憶に移る。……俺は、その波の中に沈んだんだ」


 陸の声は、水の奥から響いているようだった。

 湊は無意識に陸の手を掴もうとした。

 だが、触れた瞬間――冷たい。

 まるで、凍った水を掴んだようだった。


「湊。“青の残響”が完全に広がる前に、思い出してくれ。俺たちが、“何を約束したか”」


 その声と同時に、風が爆ぜた。

 月が完全に沈み、丘の下の街の灯りが遠く霞んでいく。

 水音が耳の奥で鳴り響き、空気が湿り気を帯びる。


 ――気づけば、陸はいなかった。


 ただ、丘の中心に小さな水たまりが残っている。

 そこに月の残光が揺れていた。

 そして、その中から微かな声が聴こえた。


 『“次は……青の海で”』


 湊は膝をつき、震える指でその水面に触れた。

 冷たいはずなのに、どこか懐かしい温度だった。

 涙がこぼれる。

 それは、自分のものか、陸のものか、もうわからなかった。


 ――月は完全に沈み、空には青い残光だけが残っていた。

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