吸血鬼マリーと王の博物学者

セオリンゴ

第1話 王の博物学者

 マリー・エティエンヌは夜明けの珊瑚礁に、ざぶりと潜った。


インド洋に浮かぶフランス島(現モーリシャス島)の海は彼女の庭だ。いまだ薄暗い水をかき分け、魚影を追った。マリーの青い眼が水中できらりと光る。優雅に身をくねらせ、一気に洋上に出た。

 着古した麻の水夫シャツと膝丈ズボンに空気を入れると、仰向けに浮かび、波に揺られた。


「人魚になった気分ね。ふふ、化け物の私が自身を想像の生き物に例えるなんて。かなり滑稽だわ」

束ねた黒髪をほどくと、水に広がった。

「ああ、いい気持ち。……ん、何の音?」


耳障りなフルフルという振動とともに、海蛇が一匹近寄ってきた。

「失礼ね、私を仲間と勘違いしないで」

マリーは海蛇を掴み、海水から飛び上がった。蛇を珊瑚礁の外海まで投げた。人間離れした動きだった。


 東方の雲が朱に染まり始めた。1767年に故国フランスを離れて6年、フランス島に住んで5年、すっかり見慣れた光景だ。


 マリーは浅瀬に戻った。滴り落ちる潮を払いもせず、小ぶりな熱帯魚を咥えていた。黒い岩に腰かけ、小刀で魚のエラのすぐ上を刺す。流れ出た血を素早く口に含んだ。


 次の瞬間、赤い塊を鋭く吐けば、すぐさま波に攫われていく。

「厭らしい味! やっぱり美味しいのは人間の血よ。いっそ、糞ッたれのフィリベール・コメルソン師匠を喰っちまおうかしら」


 水平線から濃いオレンジの光が射した。濡れた黒髪がぬらぬらと光を散らした。


「いいえ、駄目よ、死にかけの病人は駄目。それに『王の博物学者』の称号を持つ人間だもの。殺したら王への不敬になる。

 さあ、この魚をスープにして師匠に食わせなきゃ」

小刀で魚を捌いて潮で洗った。慣れたものだった。


 王の博物学者。

 王とはフランス国王ルイ15世だ。

 1764年、彼は海軍大佐ブーガンヴィルの世界一周航海探検計画を裁可し、王の軍船を2隻与えた。その名は旗艦ブードゥーズ号と補給船エトワール号だ。


 ルイ曰く、

「我がフランス王国を始め、欧州各国は海外植民地から多彩な動植物と鉱物を本国に持ち帰り、分類する博物学者を擁しておる。朕、鑑みるにブーガンヴィル探検隊一行には『王の博物学者』が必要であろう」


 国王はとんでもない男に称号を与えたと、マリーは毒づきながら浜の砂を踏んだ。

「師匠にブーガンヴィル大佐の聡明さがあれは、今頃はパリで博物誌を10巻は出版してるはずよ。本当に運もなければ世渡りの知恵もない男だわ」


 マリーは浜から上がり、フラック教区の斜面を登った。彼女の記憶に潮騒が打ち寄せる。

「おまけに師匠には良心のかけらもない。よく耐えたわ、マリー・エティエンヌ。偉いじゃないの!」


 1767年11月、マリーはフランス王国が大西洋岸に設けた軍港ロシュフォールでフィリベール・コメルソン医師を探していた。彼はエトワール号乗船準備の真っ最中のはずだ。


 彼に伝えることがふたつあった。

 ひとつはコメルソンの助手にして愛人ジャンヌ・バレの急死。もうひとつはジャンヌ・バレの代わりにマリーが助手となり、間もなく出航するエトワール号に同乗すること。


 そのコメルソンはロシュフォール海軍医学校の一角を当然の権利として占領していた。

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