第36話 ドレスに身を包み、伸ばした手

 琴宮邸の廊下はパーティー会場とは異なる乳白色を基調とした大理石で出来ており、所々にしわの入った金色の模様が目につく。

 窓から入り込む月明かりでそれが恐らく金箔であることが分かった。


 パーティー会場に隣接している廊下だけあって、ガラス張りの窓からは日本庭園が顔を覗かせる。

 本来ならば、この廊下は四季折々の風情を楽しませてくれるのであろう。

 

 だが今は、この場に不釣り合いな高校生3人の足音が響いていた。

 璃乃が明日香の手を引き、瑞穂を先導するが、あまりにも明日香の足が遅い。

 身を持て余した瑞穂は二人の前に出てしまう。

 

「琴宮、スピードを上げたい。悪いがヒールを脱いで裸足で走ってくれ」

 

 明日香は言われるがままパンプスを脱ぎ捨てた。

 廊下から壁を通して、コトンッと音が聞こえた。

 そして彼女の足音が聞こえなくなる。

 瑞穂は半身を返し、璃乃へ合図をした。

 璃乃が走る速度を上げると、もの数秒で明日香の息遣いが目立ち始めた。

 

「……ぜぇ……ぜぇ……っ……」

 

 そして、璃乃から離れて、廊下の真ん中で立ち止まって足に手を乗せ、俯く。

 背中が波打つように吸って、吐いてと繰り返す明日香。

 

 璃乃のローファーの音が大理石の廊下を辿った。

 瑞穂も立ち止まり、肩越しに振り返る。

 

「明日香ちゃん。今は——」

 

 璃乃が明日香の背中を擦り、気を遣うように瑞穂にまで目配せをする。

 

「……私のことは……置いていっていいから」

「一緒にいないと危ないから、ね?」

 

 明日香は璃乃が差し伸べた手のひらを見つめるが、手を取ろうとはしない。

 

「何が……危ないの?」

「……」

 

 璃乃の瞳が揺れていた。

 親友の想いを考えず、自分勝手に話し始める明日香に痺れを切らし、瑞穂は来た道を踏みしめるように歩みを返した。

 

「どうして、話してくれないの!?」

「それは——」

 

 璃乃は口籠り。伸ばした手を胸へ閉まってしまう。

 

「私だって。璃乃ちゃんの近くにいたいのにどうして突き放すの!?」

 

 明日香の叫びが彼女へ刺さる前に瑞穂は二人の間に入る。

 璃乃を背にして鋭利な眼光を向ける。

 

「いい加減にしろ琴宮!ガキみたいに喚いてそんなに璃乃を困らせたいのか!?」

 

 彼の怒号に明日香は押し黙り、唇を噛む。

 

「瑞穂。明日香ちゃんも」

 

 璃乃が瑞穂のように間に入ろとするも、彼は明日香を睨みつけたまま璃乃へ指示を出す。

 

「璃乃、悪いが先に行って状況を見てきてくれ。それで状況が把握できたら何もしないで、すぐに戻ってきてほしい」

「えっ?」

「俺はこいつに言わなきゃならないことがある」

「う、うん。分かった」

 

 鬼気迫る眼差しを飲み込むように璃乃は頷き、二人をあとにして走り去った。

 

「私に話したいこと……」

「そんなに話してほしいなら全てを話す。そこからはお前が決めろ。だがな——真実を知ってもなお、璃乃や俺たちを否定するようなクソ野郎だったら、俺がここでお前を殺す。お前にはそれだけの覚悟があるか?」

 

 明日香の視線が、瑞穂の鞘に納められた刀へ吸い寄せられる。

 

「こっちの世界へ足を踏み入れる……生半可な覚悟の奴は、俺が絶対に許さねぇ!!」


 譲れない信念が彼の拳を硬くさせる。

 彼女は次第に大きく震え、腰を抜かすように座り込む。

 冷たい大理石に花を逆さにしたような黒い大きなスカートは広がり、陰と同化する。

 赤いブラウスに包まれる彼女の上半身だけが浮き上がる。

 

「なんで……暁君が私を……」

 

 か細い声を切り捨てるように、瑞穂は鞘から刀を抜く。

 月光を銀色に反射する刃は明日香の嗚咽を誘った。

 

「お前は無意識だったのかもしれないが、璃乃の覚悟を何度も踏みにじってきた。あいつは命がけでバカみたいな夢を追いかけてる」

「璃乃ちゃんの夢!?教えて!」

 

 物乞いのように手を伸ばし、彼女の夢を掴もうとする明日香の額に向い、切先を向けた。

 拳二つ分以上の間があった。

 それでも明日香は手を後ろに回して、背を反らした。

 彼女は逃げたのだ。

 瑞穂は明日香を見下す。

 

「これがお前だ。口先だけで何も行動できない。哀れで“無力な人間“だ。壇上でのお前を見て少しでも期待した俺がバカだった」

 

 最後に彼女を一瞥する。

 

「もう、二度と俺と璃乃の前に姿を見せるな!」

 

 彼女のために恭平は涙を流し、孫ほどの歳であろう少年に頭を下げた。

 それなのに当の本人がこのような醜態を晒している。

 瑞穂は怒りを通り越して、呆れるほどだった。

 その場を去ろうと踵を返し、足を前に運んだ。

 

 ——はずだった。

 

 瑞穂の足が止まった。

 ズボンの裾に、華奢な手が二つ。

 引き剥がそうとすれば一瞬でできるし、振り返って蹴り飛ばすこともできる。

 しかし、彼は足を止めていた。

 

「お願い……お願いだから、教えて!」

 

 明日香の手を振り解き、瑞穂は振り返ると同時に右足を横へ払った。彼女に触れる寸前でその足はぴたりと止まる。

 風圧で靡いた髪の隙間から覗ける彼女の目を見た。

 琴宮明日香は見据えていたのだ。

 瞳の奥には確かにあった。

 

 そして——

 

 彼の右足は振り抜かれ、明日香の右頬を捉えた。

 床を転がり、横たわる明日香をじっと見つめる。

 彼女は這いつくばりながら瑞穂を睨んだ。

 

「教えて!!私は知らなきゃいけないの!!」

 

 明日香の鼻からブラウスと同じ赤い血がスーッと流れる。

 右頬は薄っすらと腫れ始めた。

 しかし、その瞳に覚悟が灯っているように輝いていた。

 瑞穂は大きく口を開いた。

 

「いいか、全てを話す。受け止めろ!」

 

 瑞穂は息を吸い、一気に吐き出した。

 

——4月末、生徒を襲った “怪病” は錬金術の結界による魔力の搾取だった。

 倒れた明日香を救うため、璃乃は何も知らない無防備なまま病院へ潜り、鋼の大蛇と戦った。

 今度の“野犬”を模した怪物も同じ手口だ。噛まれた人々に恐怖に心を痛め、怪物が人から作られていた残酷な現実を知った。

 それでも璃乃は誰も殺させないために、自分の命を賭けて走り続けている。

 

 九条璃乃の夢とは——魔法でみんなを幸せにすること。

 

 瑞穂が語り終えたとき、明日香の肩は小刻みに震えていた。

 鼻血と混じり合った涙が、口元を抑える手の甲を伝い垂れて落ちる。

 

「私、何も知らないで璃乃ちゃんに——」

「その夢の中には間違いなく琴宮も入ってる。お前はあいつの親友なんだろ?」

 

 明日香の肩は大きく息をし震えが一度止まる。

 そして吹き上がり、溢れる。

 

「うっあぁぁ……!」

 

 彼女は両手で顔を押さえ、そのまま床に額を着けた。

 薄暗い廊下中に響き渡るほどに大声で泣き叫んだ。

 しばらくすると遠くで足音らしき音が聞こえ始める。おそらく璃乃だ。

 その足音は次第に早く、大きくなる。

 

「……ハァ……明日香ちゃん!」

 

 角を曲がってきた璃乃が息を切らしながら二人のもとへ駆け寄る。

 

「璃乃ちゃん!!」

 

 明日香は、引き寄せられるように抱き着く。

 

「ど、どうしたの!?」

 

 抱き返しながらも涙を大量に流し、頬も腫れ、鼻血を流す明日香に驚きを隠せないように瑞穂を見る。

 

「4月からのことを全て話した」

 

 大きく息を吐き壁に寄り掛かる瑞穂。

 

「ごめんね。私……璃乃ちゃんのこと…ひぐっ…ひっ、く……っ!」

 

 璃乃は状況に着いていけていないようで目を丸くし視線の置き場を探している。

 

「でも、顔が……鼻血も」

「暁君が私を試すために蹴ってくれたの」

 

 その言葉を聞いた途端、璃乃の瞳がぎらりと光った。

 

「瑞穂、最低!」

 

 抗議したその耳元で——

 

「ニャー」

 

 猫が一言。

 

 瑞穂は驚いて顔を上げると、九条家のペット・ヒナが二人の間に飛び出してきた。

 涙が落ち着いた明日香も璃乃から少し離れ、その存在を見つけていた。

 

「ヒナちゃん!?」

「そうなんだよ。なんかリュックに入ってたみたいで、この騒ぎで飛び出してきたみたいなんだよね」

 

 璃乃の肩に乗り、体中を舐めまわすペットのヒナ。

 

「この猫は何を考えてるんだ!?」

 

 瑞穂が璃乃の肩に向かい指を差すとヒナは跳び上がり、「シャー!」と瑞穂の指へ噛みつく。

 

「痛ってー!」

「瑞穂ってヒナに嫌われてるの?」

 

 ヒナを振り払おうと手を懸命に振る瑞穂を横目に「女の子を蹴る人は嫌われるよね」と冷めたように言う璃乃。

 なんとかヒナを振り払い、噛まれた指に息をそっと吹きつつ、話を切り替える。

 

「それでどうだった?」

 

 空気が一変し、璃乃も神妙な面持ちを見せる。

 

「うん。詳しくは分からないけど、配電盤がボコボコになったり、燃えたりしている様子は無いみたい」

 

 そう語る璃乃の顔は浮かない様子だった。

 

「でも、嫌な胸騒ぎがするの……」

「お前の胸騒ぎは当たるような気がするな。とりあえず配電盤の方へ行くか」

「そうだね」

 

 瑞穂と璃乃は歩き出す。

 

「琴宮、このバカ猫を頼む」

 瑞穂は「シャー」と威嚇をしているヒナを摘まむように持ち上げ、明日香へ渡す。

「えっ?」

 

 明日香はキョトンとした顔で立ち尽くしている。

 

「行こ!明日香ちゃん!」


 璃乃は明日香の方を振り返り、手を差し伸べた。

 二つの手は自然と握られていた。

 

「うん!」

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