第2話 世界の非効率を解く者
五感が徐々にオンラインになっていく。
混沌としたノイズの嵐は収まり、それぞれのセンサーが意味のある信号を受信し始めた。
最初に安定したのは聴覚だった。遠くで聞こえる穏やかで規則的な二つの心音。そして自らのか細い呼吸音。
次に触覚。柔らかい布が肌を包む感覚と、背中に感じる適度な弾力。
そして最後に、視覚情報が像を結んだ。
ぼやけた輪郭が徐々に焦点を合わせていく。
最初に認識したのは白木のフレームを持つ豪奢な揺り籠の天蓋だった。フレームには魔力を帯びた銀糸で無数の幾何学模様が刺繍されている。
夜が訪れると、その銀糸に光る虫のような小さな魔力の光が宿り、周囲を穏やかに照らし始めた。
それはただの照明ではなかった。光は揺り籠の内部を常に快適な温度と湿度に保ち、外部からの物理的、魔法的な脅威を遮断する薄い結界を形成している。
後に知ることになる、この高級な魔道具の名前だ。
貴族の赤子をあらゆる脅威から守り、健やかな眠りを約束するための愛情と技術の結晶。
普通の赤子ならば、その柔らかな光に安らぎを覚え再び眠りに落ちるのだろう。
だが、この揺り籠に眠る赤子の魂は34歳の物理学者のものだった。
(観測を開始する)
俺は桐山徹の思考で、目の前の現象を分析する。
まず入力。フレームに刺繍された銀糸……これが魔力回路か。
揺り籠の木材そのものに練り込まれた微量の魔力石からエネルギーを供給されているらしい。極めて安定した低出力のエネルギー源だ。
次にプロセス。銀糸の魔法陣は供給された魔力を励起させ、特定の波長を持つエネルギーへと変換する。
そのエネルギーがあの光る虫のような魔力の光を形成している。光虫は生物ではない。純粋なエネルギーの集合体だ。
そして出力。光虫は二つの仕事をしている。
一つは可視光線の放射による照明。もう一つは熱放射による温度維持と、外部からの魔素干渉を防ぐための力場の形成。
美しい。実にファンタジックで美しい光景だ。
だが、物理学者としての俺の思考はその美しさの奥にある致命的な欠陥を見逃さなかった。
(……非効率だ。あまりにも非効率すぎる)
エネルギー変換効率の計算を開始する。
入力される魔力量を100と仮定する。光虫が放射する光エネルギーと熱エネルギーの総量を計算。力場の維持に必要なエネルギーも加味する。
……計算するまでもない。この魔道具は入力されたエネルギーの80%以上を、意味のない熱や効果範囲外への光の拡散として無駄に放出している。
ただの美しいガラクタだ。
(俺なら、こうは設計しない)
思考の中で俺は揺り籠の設計図を再構築する。
まず魔力回路のレイアウト。銀糸の配置が冗長すぎる。
もっと単純だが最適化された経路でエネルギーを伝達すれば、伝送ロスだけで15%は削減できる。
次に光虫の励起プロセス。現在の魔法式はただ魔力を光に変換するだけだ。
これでは可視光線以外の波長……つまり不要な赤外線や紫外線まで放射してしまっている。
俺なら特定の波長のみを放射するように魔法式をチューニングする。それだけでエネルギー効率は倍以上に跳ね上がるだろう。
最後に結界の形成。現在の力場は揺り籠全体を均一に覆っている。無駄だ。
脅威が侵入する可能性が高いのは揺り籠の上部と側面だけ。底面にかけるエネルギーは最小限に抑え、その分のリソースを上部の防御に回すべきだ。
俺の頭脳の中では数秒で、より少ないコストでより高い性能を発揮する完璧な揺り籠が完成していた。
その事実が俺に二つの感情を同時にもたらした。
一つは絶望。
この世界の技術レベルは驚くほど低い。俺が前世で学んだ物理学のほんの基礎的な知識さえあれば、この世界の魔法技術は飛躍的に進歩するだろう。
だが、この赤子の身体ではそれを誰かに伝える術がない。俺は宝の山に埋もれながら、身動き一つ取れない囚人だ。
そしてもう一つは……ほんの少しの歓喜だった。
前世の世界はとうの昔に完成されていた。
物理法則は発見され尽くし、俺たち学者の仕事はその法則の綻びを探すか応用範囲を広げるかの、いわばデバッグ作業でしかなかった。
だが、この世界は違う。
この世界はバグだらけの旧式のOSで動いている。非効率で非合理的で、無駄だらけだ。
つまり俺が再定義すべき未知のフロンティアが、無限に広がっているということだ。
(面白い。実に面白いじゃないか)
俺はまだ声も出せないこの身体で、心の底から笑った。
この非効率な世界を俺の知性で解き明かし、再定義してやる。それがこの不条理な二度目の人生に与えられた唯一の存在意義だ。
(だが、そのためには情報が足りない。圧倒的に。書物……この世界の知識がアーカイブされた書物が必要だ)
揺り籠の柔らかな光の中で俺は次の目標を設定した。
最初のターゲットは父の書斎。
あの知の宝庫を征服することが、俺の探求の第一歩となる。
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