一年越しの再会

 一年とひと月が経とうかという頃。

 しとしとと霧雨が降る中で、久世が店の看板をひっくり返して閉店表示にしようとしていたところへ、背後から真っ直ぐ近付いてくる足音があった。

 雑踏の中にあって尚明瞭な、聞き慣れた懐かしい音だ。


「あれ、もう閉めちゃうの? せっかく君に会いに来たのに」

「…………入れ」


 声には振り返らず、看板はそのまま閉店と書かれたほうを表向きに返して、久世はドアベルの音と共に店内に滑り込んでいく。その後ろを少し慌てた様子でついてくる羽澄の気配に安堵しつつも、久世の内心は石のような無表情に反して波立っていた。


「いつものでいいのか」

「うん。あと、サンドイッチもほしいな。今日はなにも食べてなくて」

「わかった。先にそっちを出す」

「ありがとう」


 そう言って淡く微笑む羽澄の顔は、久世の気のせいでなければ、どことなく疲れているように見えた。一年間店に来なかったことと疲れが同じ理由であるのかどうかも含めて、内心では羽澄の様子を気にしてはいるものの積極的に客の事情を詮索出来る性格ではない久世は、黙って羽澄から目を逸らして厨房へ引っ込み、サンドイッチを作り始めた。

 六枚切りの食パンに、レタスとトマトと蒸し鶏、チーズを挟んでホットサンド用のプレートで焼く。焼き上がったら三角形になるよう半分に切ったものを四つ。単純な枚数にして六枚切りが四枚というなかなか量の多いサンドイッチを白い角皿に乗せてカウンターに置いた。


「今日、食べてないって言ったな」


 普段は殆ど自分からなにかを尋ねたりしない久世の口から羽澄のことを問う言葉が出てきたことに驚いた羽澄が一瞬瞠目したが、気取られぬようすぐにいつもの笑みを浮かべて頷いた。


「うん、ついさっき帰国したんだ。向こうで合わないものを食べるよりは早く帰ってここに来たかったから」

「帰国……」


 また来ると言って一年間店に来なかったのは、海外出張でもしていたからなのかと納得しかけた久世に、羽澄は熱々のサンドイッチを指先で突っつくように触れながら尋ねる。


「春佳さんって、映画とかあんまり見ない?」


 警戒している猫のような仕草を見て、久世はそういえば羽澄は猫舌ではないが熱いものを触るのが苦手で、珈琲カップも淹れたては持ち手を慎重につまむように持っていたと思い出した。


「まあ、進んで映画館に行くことはないな。家にはテレビも置いてないし」

「えっ」


 見かねた久世が、洋食用のナイフとフォークを出してやりながら答えると、羽澄が驚いた表情で久世を見つめた。


「じゃあ、休日はなにをして過ごしているの? ああ、えっと……別に休日の娯楽がテレビだけとは言わないけど……」

「別に、特別なことは……本を読むか、珈琲豆の仕入れにいくか、そんなところだ」

「あ、そっか。お店だもん、仕入れとか仕込みとかの時間もあるんだよね。従業員は雇わないの?」

「必要ない」


 そう答えた久世の眉が一瞬痛切に歪められたように見えたが、すぐに後ろを向いてしまったため、見間違いのようにも思える。どちらにせよ、傷をつく以外に確かめる術はないのだからこれ以上の詮索は出来なかった。

 受け取ったナイフとフォークで器用にサンドイッチを切り分けて口に運ぶ。

 チーズがとろけて細い糸を引くのを絡めながら、一年とひと月ぶりの味をゆっくり噛み締めつつ腹に収めていく。

 食べ進めていくうち、羽澄の白かった顔色に少しずつ色が差していくのを目の端でとらえ、久世は人知れず安堵の息を漏らした。


「…………春佳さん」


 ふいに名前を呼ばれ、久世は羽澄に向き直った。羽澄は最後の一切れを残して一度フォークを置くと真っ直ぐに久世を見据えて口を開いた。


「あの、あなたに見てもらいたいものがあるんです」


 改まった言い方を怪訝に思いながら、黙って先を促す。羽澄は暫く逡巡してから、決意を新たにするように小さく息を吸い、カウンターの上に所在無げに置きっ放しにしていた両手をぎゅっと握り締めた。


「ずっと、一年のあいだどうしようか迷っていたんだけど……でも、僕、これだけはどうしても春佳さんに見てほしくて」


 熱のこもった視線と言葉に気圧されるように、久世は一つ息を吐いて瞬きをした。


「わかった。それで、なにを見ればいいんだ」


「……! あ、あの、この映画なんだけどね、実はもうチケットを買ってあって……ダメなら後輩にでもあげようかなって思ってたんだけど、その、僕と、一緒に行ってもらえないかな?」


 あからさまに怪訝そうな顔で目を眇められ、羽澄は一瞬退きかけた。しかしここで投げ出しては、勇気を出した意味が霧消してしまう。思わず「嫌なら別に」と口から飛び出しかけたのを飲み込み、別の言葉を喉元に用意する。


「僕、がんばったんだよ。このためだけに慣れない海外でのお仕事も、一年もここに来られないことも、ずっと、ずっと全部我慢して……だから、これだけはどうしても春佳さんにお願いしたいんだ……」


 まるで、勉強を頑張ったから遊びに行きたいと親にねだる子供のような姿だ。

 羽澄の縋るような眼差しに押し負け、久世は一言「わかった」とだけ返した。ただそれだけのぶっきらぼうな答えにも、羽澄は念願叶ったように泣きそうな顔で喜んでいる。


「ああ良かった……海外にいるあいだ、ずっとこのことばかり気にかかっちゃって、一緒にお仕事していた仲間にも、上の空だって何度も怒られちゃって。それに、一応向こうにもアフォガートはあるんだけど、やっぱりここのじゃないとダメなんだって再認識するだけだった」


 ずっと胸に詰まっていた想いを言い切ると、羽澄は深く長く息を吐いてフォークを握り、最後の一切れを口に放り込んだ。

 それは、あまりにも熱烈な言葉だった。

 目を瞠るような美貌の持ち主に、遠く離れているあいだずっと想いを馳せていたと言われれば口説かれているのではないかと勘違いしてしまいそうになる。

 もし自分が女性だったなら、きっと思い上がっているところだ。そこまで考えて、久世は意味のないことだと溜息を落とし、ありもしない想像を振り切った。


「春佳さん」

「ほら」

「あ……これ……」


 食べ終えた皿を引くのと入れ違いに、もう一つの注文の品を出す。

 小さな器に盛りつけられたバニラアイスと、少量のエスプレッソ。店内に充満する珈琲の香りが一層濃くなって、羽澄の胸を満たしていく。


「嬉しいなあ……何だかやっと帰ってきたって気がするよ」

「大袈裟な」


 心を丸ごと音にして零すかのようなしあわせ満面の羽澄に、久世はいつものように愛想もなにもなく言った。

 そのつもりだった。

 そうではなかったと気付いたのは、羽澄の丸く見開かれた目と、驚きを張り付けた顔、そして久世に否応なく違いを突きつけるこの一言。


「春佳さん、凄く優しい顔で笑うんだね」


 ただの気のせいだろうと素っ気なく言えばよかったのに、いつもなら容易く喉から滑り出てくる簡単な言葉が、このときはたったの一音さえも出て来なかった。

 気まずそうに眉を寄せ、目を伏せて黙り込む。


「ごめん、触れてほしくなかったかな」

「別に……そういうわけでは」


 ただ、久世には微笑んだ自覚すらなかった。自分の表情は、あるきっかけの日から凍り付いたまま、ほどける日など二度とこないのだとばかり思っていたのが、そうでなかったことにひどく動揺していた。


「この店は、元は父のものだった。それを急遽俺が継ぐことになって、店にとっても客にとっても急なことで……俺は、接客の仕方など知らないままなし崩し的に店主になっていた」


 目を伏せたまま訥々と語り始めた久世を、羽澄はじっと見守っている。


「父の店が好きで通っていた人ほど早く離れて、偶然立ち寄っただけの客は、二度と訪れることはなかった。……いつ来ても人がいないこと、気付いていただろう?」

「うん……路地の奥のお店だから、繁盛しにくいのかなって勝手に思ってた。でも、僕は静かな雰囲気が好きだから、あんまり気にしたことはなかったよ」

「店としてはどうかと思うが」


 確かに。と同意しかけたのを思い留まり、羽澄は曖昧に淡く笑んで流す。

 久世自身も特に反応を求めることなく溜め息を一つ吐いた。店の奥に投げ出された眼差しは、羽澄の知らない父の代の店を映しているかのようだ。


「俺も、父の店が作る優しい雰囲気が好きな人間の一人だった。この店を売ることも考えたが、どうしても思い入れのあるこの場を離れることが出来ず、かといって俺が父のように出来るわけもなく……気付けばアイス屋になっていた」


 アイス屋という言葉と共に視線を感じた羽澄が顔を上げる。すると、相変わらずの無表情に悪戯そうな色を宿した久世の眼差しとぶつかった。


「えっ、それって僕のこと言われてる?」

「ほかに客がいるか」

「う……そういう反応に困る自虐はやめてよ」


 重い話かと思って聞いていたら唐突に揶揄われ、しかもその最後に一番重い一撃を加えられ、羽澄は拗ねたような顔で溶けかけのアイスを口に運んだ。


「父の死を悼む時間も、哀しむ余裕も落ち込む時間もないまま店を継ぐことになったせいか、愛想笑いすら出来た記憶がなかったからな。驚いた」

「そっか。……今度の映画、楽しみにしててよ」


 なぜいまの話が映画に繋がるのか。爆笑必至のコメディでも見せようというのか。気にはなったものの見ればわかることだと思い、肩を竦めて羽澄に背を向けた。

 羽澄の正面、つまりカウンターの背後には、珈琲の袋や珈琲ミルなどの道具が並ぶ棚がある。そこからミルを取り出すと、久世は流れるような手つきで操り始めた。


「余程好きなんだな」

「そりゃあね。僕の渾身の作だもの」

「……? あんた、映画監督かなにかだったのか……?」


 怪訝そうに尋ねられ、羽澄は思わずといった様子で吹き出した。子供のように声をたてて笑いながら手を振って「違う違う」と言い、暫くのあいだ笑い続けた。羽澄が笑い転げている一方で、大笑いされるほどおかしなことを言った自覚がない久世は、妙なものを見る目で羽澄を眺めている。


「ふふっ。撮るほうじゃなくて、撮られるほうだよ」


 目尻ににじんだ涙を拭いつつそう言うと、懐から名刺を取り出して久世に渡した。そこには所属事務所などを含めた羽澄の芸名が書かれている。業界内でも大手の芸能事務所の名を見てもピンときていない表情の久世に、羽澄はどこか和やかな気持ちになっていた。

 別に、自分が全人類に知れ渡っているなどと思い上がっているつもりはない。だがこうして改めて『芸能人ではない自分しか知らない』人に触れると、新鮮な気持ちになるものだ。


「僕ね、一応俳優やってるんだ。テレビにも何度か出てるんだけど……春佳さんってテレビも見ないんだよね」

「…………ああ。知らなかった」


 久世の芸能人相手に知らないと言い切るあまりにも素直な姿に、笑みが深まる。


「ふふ、そうだと思った。でなかったらこんなに通わないもの」

「そういうものなのか」

「そういうものだよ。特に君には俳優羽代実之のファンじゃなくてただの僕を好きになってほしいから」


 また不穏な言葉が投げかけられた。けれどこれも、良く考えればあまりメディアに触れない久世にも理解出来た。

 羽澄ほど見た目も良く愛想もいい男なら、行く先々で人に囲まれファンサービスを求められることもあるだろう。何処へ行っても人目が追ってくるなら、たまにはそういったありがたくも煩わしい日常から離れたいという悩みを持っていてもおかしくはないのだ。


「それでも、映画は見せたいのか」

「だって、君を思って撮ったものだもの」


 眩しそうに細められた目で真っ直ぐ見つめながらそう言われ、久世はあからさまに怪訝そうな顔をして見せた。


「さっきからなんだ……口説く練習なら相手が悪いんじゃないか」

「練習じゃなくて本番だからいいんだよ」


 空になった器を片付けようとカウンターに伸ばした久世の手を、羽澄の白く整った手が優しく捕えた。そのまま両手で包むように引き寄せられ、手の先には熱の籠った目と、真剣な表情の羽澄がいる。


「気付いたら、君に囚われてた。最初は、たくさんの常連の一人でもいいって思っていた。でも、それだけじゃ足りなくなって、一番の常連になりたくなって、それでもだめで、君を独占したくなった。会えば会うほど惹かれていって、会わなければその分だけ息が苦しくなって……本当に、ごめん……映画だけ、見てくれればいいから。そのあとならフラれても嫌われてもちゃんと諦めるから……」

「………………」


 手のひらの檻に捕えた久世の手を額に押し当て、羽澄は懇願する格好で胸の奥から絞り出すように告白した。

 理解が追いつかない。捉えられている右手が異様に熱い。羽澄の手から伝わる熱に眩暈がしそうになる。

 どんなに容姿が整っていようが相手は男で、自分も男。なにより、異性相手だって恋愛出来る気がしていなかった久世にとって、羽澄の熱を帯びた言葉は異国の言語に聞こえるほど未知のものに感じられた。

 ただ、繰り返し懇願する『映画』は見なければならないと、そう思った。


「その映画は、もう公開されているのか」

「えっ、うん、もうやってるよ。そこの駅前の映画館でもやってるし……」

「時間は……さすがに今日はもう終わってるか」

「えっと、待ってね……」


 手のひらの檻が開かれ、右手が解放される。支えを失って、重力に従い下ろされた手は、本来行う予定だった器の片付けを機械的にこなしていく。

 そのあいだ羽澄は、使い込んだ跡の見えるスマートフォンで、近くの映画館の放映内容と時間を調べていた。


「あ、やってるよ。三十分後くらいにもう一本あるみたい」

「そうか」


 答えを聞くと久世はカフェエプロンを外して一度キッチンに引っ込んでから、店とキッチンのあいだにある事務所の扉を開け、腕に上着を引っ掻けて店内に出て来た。

 一連の動作を目を丸くして眺めていた羽澄を見て、久世は上着を羽織りながら口を開く。


「行かないのか」

「えっ、い、いまから……? 待って、僕、心の準備が……」


 羽澄の言葉に目を眇め、久世は呆れた顔で口を開く。


「あんた、さっきのを聞いた俺が、心の準備が出来ていたとでも?」

「うっ……それを言われると……」


 羽澄は暫く、言葉を知らない乳児のように低く唸った。時折混じる単語らしき音も久世の位置からははっきりとは聞こえない。


「うん、そうだよね……春佳さんと会えなくなるのは寂しいけど、でも、この一年間ずっと苦しかったから……春佳さんに迷惑をかけ続けないためにも、断ち切るのなら早いほうがいいよね。……よし、行こうか」


 いまの言葉は、恐らく口に出していた自覚はないのだろう。

 羽澄は小さく呟いて決心がついたように顔をあげると、カウンター席から降りた。

 久世は、羽澄が外套を羽織り帽子を頭に乗せたのを横目で確かめ、扉を開けて外に出た。店の鍵を閉め、念のため外看板が閉店を示しているか確かめてから歩き出す。纏わり付くように降っていた霧雨は、いつの間にか止んでいた。

 陽が落ちて空気が冷え、暗夜色で塗り潰したような空に代わり、地上に色鮮やかな人工の星が競って地上で輝き始めるこの時間帯に外を歩くのは久々で、久世の目には知らない景色のように映った。


「月が綺麗だね。こんな都会でもちゃんと見えるんだ」


 白い息を吐きながら言う羽澄の視線は、ビルの遥か上空を向いている。その視線を追うように見上げると、猫の爪のような細い月が遠くに見えた。


「こんな時間に外へ出たのは久しぶりだ」


 視線を戻して襟元を合わせながら言う久世の横顔を見つめ、羽澄は目を細める。


「春佳さん、夜遊びとかしなさそうだもんね」

「必要ないからな」

「ふふ、そうだね。僕も付き合いでもなかったら夜の街に用はないかな」


 横に並んで駅前の映画館までの道を行く。隣を歩く羽澄のほうが頭一つ分ほど背が高いことを心の片隅で気にしつつ、冬の夜風で肺を満たした。

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