第十一章 対話、夕立 (リン)


 悪いのはわたしの方ではないと思いたい。わたしにも事情はあるし、これだけは許して欲しい。当然、カイくんは混乱しているだろうけど、なんとなく察してくれたらいいな……。

 わたしが寝たふりをしたのも、ちょっと一人にさせてほしかったからだ。今は色々と考えなくてはならないことが山ほどあるから、ある意味落ち着きたかったのかもしれない……。

 こうしてわたしは、ずっとうつ伏せになりながら、休み時間を過ごしていったのだった。


 教室に駆け込む足音を聞いて、わたしはようやく顔を上げる。隣にはカイくんが既に座っていたが、顔を合わせようとはしなかった。

 嫌われちゃったのかな、わたし……。せっかく心配してくれたのに、わたしが無視して、彼は意味深なことを汲み取ってしまったのかもしれない。とりあえず今は気まずい雰囲気になってしまったことは、わたしにも感じ取れた。

 授業の号令がかかり、わたしも重くなった体を立たせる。挨拶を言い終わると、わたしは一足遅れてゆっくりと腰を下ろした。

 それからも座学で、ずっと尻に圧がかかって痛かった。体育館で床に座らせられたような苦痛を、ふと思い出したほどだ。一方で、カイくんはわたしの隣で黙々と授業の内容をノートにとっている。わたしは一向にやる気が出ずに、筆箱の中身をガサツに探り、ペンを回し始めていた。気づいたらそうなっている癖はまだ直っていないみたいだ……。

 暇でもないのに、ふと窓に目をやった。さっきまで青々としていた空は、すっかりと厚い入道雲に覆われていた。わたしの心も、いつの間にか淀んでしまったな……と普段のわたしからは出ないようなことを思っていた。

 ……まるで先が見えない。暗闇の中で彷徨っているわけでもないのに、どこか不透明な霧が漂っている。……いや、今更わたしは何を考えているのだろう。


 待ってくれるはずもなく、激流に飲み込まれるように時間は進み、放課後を告げるチャイムが鳴った。皆が廊下に出る中、カイくんは立ち上がらない……。わたしは反射的に顔をそらす。すると、彼はわたしの背中を指で突いた。

 思わず振り向くと、彼は何か言いたげな顔をしていた。そして、少しの間を空けて口を開く。

「リンさん、先生から聞きましたよ。貴女の生い立ちについて」

「……え? あれは誰にも言わない約束のはずじゃ……」

 すると、彼は足元を見るようにして、語り出した。

「私は特別みたいで、私は貴女の信頼できる人と見られるようになったみたいです。少し恥ずかしいですが、ですかね。私達は」

 認められたのか、私は。彼に親友として接せる存在となったのか――。

 あの日父を失って、ずっと地下の存在が憎かった。……だが、彼は違う。わたしの立場を見くびることなく、わたしを救ってくれた。それも、温かく……。

「……ありがとう。わたしと接してくれて、うれしいよ」

 わたしは彼の腕を掴むと、手のひらを両手で触った。

 なぜか、涙が込み上げてきた。彼の手からは温もりを感じられて、優しさというものをしみじみと思い知らされた。

 そして彼はわたしに優しく言った。

「そろそろ帰りましょうか。今日は色々とありましたから、ゆっくりいきましょう……」

 わたしは、沈みゆく夕陽を横目に立ち上がった。


 もう人影もない生徒玄関を出ると、曇りの影が濃くなっていた。わたしは踏み潰した靴の踵に指を入れて直す。

「やば、雨降りそうだよ……。傘ある?」

 彼は遅れて玄関を飛び出してきた。それと同時にポツポツと地面が点々に違う色になっていく。

「私、傘持ってないですけど……。どうします?」

 わたしはもちろん、彼にこう言う。

「……雨に濡れるの、好き? わたしはやってみたいけど」

 彼は少し遅れて答える。

「雨、ですか……ちょっと興味はあります」

 わたし達は一斉に、外屋根がない雨の中へと歩み出した。

「走るのは嫌いだなぁ。せっかくだから、歩いて行こう?」

「……風邪、ひかなければいいのですがね。まぁ、明日は休みで良かったです」

 雨に打たれる彼の姿は、驚いて楽しんでいるようにも見えた。わたしも、いつもより、身が軽くなったように感じる。背負うものも、もうなくなったからなのかも……。今はひたすらに、清々しく、輝いていられた。

「ねぇ、カイくんのいた地下にはさ、雨とかあったの?」

「あったとしても、雨漏りくらいですよ……。だから、今はそれの数百倍すごいですね」

 彼は足元を見ながら微笑んだ。雨もすっかり強さを増しており、制服もずぶ濡れだった。それでも、わたし達は急がない……。背中を雨が打つ音や感触が心地よく思えてくる。

 いつのまにか、わたし達は手を繋ぎあって歩いていた。……体が冷えてきたからだろう。水を含んだ毛は冷たいが、彼の手のひらは一段と温かかった。ただそれだけのことだけど、それでも体の芯から温まったような気がして、より強くその手を握りしめた。

「あの、さっきはごめんね、無視しちゃって。ああする必要はなかったかもしれないけど……わたしは考える時間が欲しかった」

「……私達はもう親友なのですよ。そういう空白の時間だって必要です。

 出鱈目に色を混ぜていても、決して明るい色にはならないように、誰にだって何もしない時間はとても意味のあることです。……謝る必要はないのですよ」

 彼は視線を足元から雨空に変える。

「雨、やまないですけど。意外にも好きかもしれません……この天気が」

 わたしは彼の方に顔を向ける。彼は上を見上げたまま目を瞑り、手をかざす。全身で雨を感じたいようで、微かに口角が上がっている。そんな彼を見たわたしも、口元が緩んだ。


 いつもより、時間をかけて家に着く。案の定、びしょ濡れになったわたし達を見たユイカは怒っていたが、意外にも手優しかった。……やはり心配しているのか、わたしに声をかけてくれた。

「アンタ、大丈夫かい? あのクソ担任……リンのためとは言えど、そんな理由じゃカイも可哀想だわ……」

 彼女はわたしの顔を肩にかけたタオルで拭きながら話す。

「もう大丈夫よ……ユイカ。カイくんとはもう仲がいい関係だから、心配する必要は全くない! 安心して頂戴」

 わたしは優越感たっぷりにという意味で言った。彼女はそんなに面白いのか、涙目になっていた。

「そうかぁ、良かったなぁ! 私がずっと心配してたのが嘘みたいだよ、リン。立派だよ、アンタは……」

 ここでわたしはようやく気づいた。彼女は笑っているのではなく、感激するあまり、涙目になっていたのだ。彼女はわたしを抱きしめながら、話を続ける。

「カイも嬉しいだろうよ。初めてのができただろうしね……なんだか私も参っちゃ――」

「ちょっと待ってよ! まだ出会って一週間! ……流石にそれは早いよ」

 わたしは真っ先に反応する。彼女はわたしの心情を読み取ろうと伺ってくる。

「アンタ、もしかして……もう落ちてるとかあったりして。いくらなんでも早すぎるなぁ、リン。私には乙女心というもんをよく理解はできていないが、頻繁に一目惚れするものなのか? いや、それとも――」

「一旦落ち着けってば! 考察はいらないよ!」

 こんな風にわたしが取り乱している中、カイくんはシャワーを浴び終えたようで、タオルを首にかけたまま、こちらを不思議そうに覗いていたのだった。

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