天の音

橋本もる

第1話 あの人のピアノ

(1)

 言いたい。言ってしまいたい。

 だって久遠も僕を好きなんでしょ?

 だったら伝えて、両思いだね、嬉しいなって。

 なれたら、どんなにいいだろう――。

 けど僕は絶対にしない。

 

 僕と久遠の未来は絶対に交わらないから。

 そんな事させないから。


       *    *    *

 

 荷物を寮の自室に運び込む。既に室内は冷房が効いていて、脇の下を冷えた風が流れ、体温が下がって少し楽になる。

「久しぶり。あは、さすがに焼けてはないな。」

 夏休みから先に戻っていた同室の高瀬が、椅子に座って眼鏡の下で笑う。

「まあね。ずっと引きこもりだった。」

 と、久遠は鍵盤に手を置く仕草をする。

 長い夏休みもコンクールシーズンを挟むため、ピアノ科の俺たちにとっては、眩しい青春とは無縁である。

「そういえば、もう見た?」

 高瀬がメガネを拭きながら「編入生。」と言った。

「いや、まだ。けど、今から礼拝堂に呼ばれてる。寮を案内しないと。」

「こんな時期に編入って、どうしたんだろうね。」

 ……何か事情があったのだろうか。

 入試の時はどうしていたのだろう。

「僕さ、ちらっと見たんだけど。」

 と高瀬は言い、

「あれは目立つよ。」

 と、メガネの奥で、薄い目をさらに細めた。

 

 目立つとは。と思いながら、礼拝堂へ向かった。石造りの建物の頑丈な陰影は、午後の太陽を遮って、肌の火照りを穏やかに冷ます。

 わずかに開いた礼拝堂の扉の隙間から、ピアノの音が風に乗って届いた。

 ドアに至る手前で、そんなはずはと足が止まる。

 思い出す。思い出せる。

 ああ、どこかで絶対聴いた。


 そうだ、あの日のピアノ。

 

 そう思い至り、胸が湧き立つ。拍動が高まる。

 まさか彼だろうか?本当に?


 ――あの日。この学校への、入試の日。

 春になる前の、冷えた2月のとある日。

 実技試験で、ある人と同じグループだった。

 部屋に入った時からその存在が印象的だった。

 柔らかな栗毛が頭頂部からふんわりと空気をはらみ、ゆるく曲線を描いて頬の横に辿り着いている。尖った鼻筋と顎。西洋絵画のような美しさに思わず見惚れた。光を集めたような透明感。

 しかし印象的なのはその外見のせいだけではない。

 久遠の目に最初に映った彼は、どこか試験そのものに対して投げやりで、半ば不貞腐れた顔をしていた。その態度は試験の場で失礼ではないかと思えたが、よく見ると、何か諦めにも似た無力感があった。

 自分の演奏が終わり、数人を経て彼の番になる。

 そんな目立つ見た目で、そのやる気のなさで、さあ一体どう弾くんだと、半ば見定めてやるつもりで目線を構えた。

 その時、呼ばれて立ち上がる彼の表情の、確かな変化に気がついた。強い感情を隠しているが、滲む戸惑いと決意の気配。思い詰めたような切実さ。真剣さ。

 ピアノに向かい、トムソン椅子の高さを変える。

 腰を下ろして一つの呼吸をしたとき、再び彼は雰囲気を変えた。

 窓から差し込む光が、彼の髪をかすめた。空中の粒子が反射して、彼の頭上でキラキラと舞っている。

 深刻な空気は立ち所に消え、代わりに彼は、微笑んだ。

 

 何もない空間へ――。

 

 それはまるで、未だ生まれてもいない音楽への、祝福の合図のようだった。厳格に両側からぴんと張られ、僅かな狂いも許さず調律された金属製の弦。そこから微細な振動を伴って大気へと柔らかく開放されるのを、今か今かと待ち詫びる無数の音の粒たちへの、さあ出ておいで、という無言の呼びかけだった。

 音楽への、人の心への、抗い難い甘い誘い。

 その場が、優しく、柔らかくなった。

 何かが始まるという期待と予感。

 緊張感の中の、喜び。

 そこにいる者の全ての視線が、吸い込まれるようにその指先に集中した。

 

 ……一枚の羽が舞い降りて着地する瞬間を、誰にもそれが「いつ」とは言い切れないように、その音は知らぬうちに立ち上がり、人々の意識に入り込んできた。気がついた時には既に美しい音の世界に引き込まれている。

 不思議だ。この音楽はいったいいつ始まっていたのだろう。この空間はいったいいつ、こんなにも美しい音で満たされていたのだろう。そう思い振り返ってみても、もはや答えられる者はいない。そして、自分達は彼のピアノが鳴るより遥か前から、その虜になっていたのだと知る。

 

 細くしなやかな体つきそのままの、繊細なタッチ。

 体は大きくない。しかし指先が信じられないほどしなやかに動いている。手首から肩がほどよく脱力され、無駄な緊張感がなく、安心してその音に身を委ねられる。

 か細い音の線が、どうしてこんなによく通って響くのか。まるで、音の終わりが減衰しながら、永遠に心の中に喰い込んでくるようだ。

 

 さらに、部屋に入った時にはどこか投げやりな目をしていた彼だが、今、音楽と共に血の通った暖かな人柄を醸し出している。

 

 彼の名は知らない。顔も知らない。どこのコンクールでも見たことがない。今日初めて、この試験会場で会った。

 その横顔が、泣いているようにも、また喜びに溢れているようにも見えた。その矛盾に大きく心を揺さぶられる。

 試験であることを忘れてただの観客になって、ただ彼を見た。見続けた。目を逸らす事は到底できない。

 彼は、鳴らすピアノの音そのままに、美しい人だったのだ。

 語りかけるような、自然な言葉遣いに似た歌わせ方。どんな人生を歩んだら、その深い哀しみを美しい音楽へ昇華させられるのかと思うほどの、高い芸術性。

 

 久遠は思わず立ち上がりかけた衝動を、

 やっと堪えた。

 その場から逃げてしまいたくなったのだ。

 

 自分の時はこんな風には鳴らなかったのに。

 彼と自分で、何が違うのか。

 知りたい。誰なんだ。どこのコンクールでも見たことはない。こんな人がいたなんて。

 

 何一つ嘘のない、心からの演奏。

 世界観に引き込む圧倒的な説得力。

 音楽を楽しみ愛し、届けたいという素直な心。

 その引力。

 

 そんな演奏ができたらと、ずっとずっと目指してきたものがそこにあった。胸の奥でずっとずっと、忘れ去られたように長い間眠っていた、何か大切なもの。それが揺さぶられ、揺り起こされ、その心ごと見事に彼に連れ去られてしまった。

 どうして、こんなに美しいんだろう。

 そして、俺はどうして、こんな風には弾けないんだろう。

 

 その光は心の痛みを伴っていた。

 それを再び、礼拝堂の扉の前で思い出したのだ。

 

 聴こえてくるのはモーツァルト。

 ピアノソナタ第12番 ハ長調 K《ケッヘル》.332

 暖かな空に飛び立っていきそうなこの曲。

 誰もが思い描く、明るく綺麗なモーツァルト。

 しかし、朗らかな笑顔の裏に彼が巧みに隠した寂しげな陰翳の手触りを、誰が知るだろう。それらを抱きしめたくなる自分がいる。早く会いたい。

 演奏が終わるタイミングで礼拝堂に入る。

 視界に広がる大きなステンドグラスに、ここに来るたび何度でも圧倒される。中心の円形のものは、紋様が花火のように広がっているが、よく見るとその中には聖書の内容を現したであろう人物等が描かれていた

 そして正面には巨大な磔の十字架……。

 その真下にあるピアノの前にいるのは、やはりあの人だった。

 

 ゆるい栗毛の、儚い横顔の。寂しげな、翳りの……。

 

 あの人だ。そう知った瞬間、胸が躍った。

 また会えた。……向こうは覚えてすらないだろうが。

 なぜ彼が?あの日の試験は不合格だった?といくつか疑問が湧いたが、しかしあのピアノの人に再び会えただけで、そんな事どうでもよくなった。

 つい、足早に駆けてしまう。どんな事情があっても構わないじゃないか、そう心の中で呟きながら。

 彼はこちらに背を向けて座っていた。式典で使う白色のガウンを着て、丁度蓋を閉めるところだ。隣の校長が1人拍手をしている。

 校長はこちらに気づくと

「ああ。来たね。さ、天河あまかわくん、彼が寮の一年生の責任者、久遠君ですよ。」

 と彼と俺に交互に目をやった。

 振り向いた彼の顔。驚いたように一瞬だけ目を見開き、すっと逸らした。

 

「はじめまして、久遠です。一年生代表で寮生活の監督を任されています。よろしく。」

 

 彼は再びこちらをじっと見てから、

 

天河透眞あまかわとうまです。本日よりお世話になります。よろしくお願いします。」

 と慇懃に挨拶し頭を下げた。

 

 俺は監督生として、彼の硬い雰囲気を和らげようと、出来る限り親しみのある笑顔を向けたつもりだった。

「俺も同じ一年だから。あまりかしこまらないで、楽にして下さい。」

 しかしそう言うと、天河は「分かりました。」と表情を変えずあっさり答えるのみだった。

 

 ピアノの音をそのまま人の形にしたような、澄んだ印象だった。ただ、演奏中の柔らかく包み込むような音色とは異なり、一旦ピアノから離れた彼からは、どこか収まりの悪い、無音の手触りが漂っていた。


(2)

 聖グレゴリウス音楽学院高等部――全寮制の男子校。

 音楽を学ぶだけでなく、信仰に基づいた規則と行動基盤によって、奉仕と自立――「他者への奉仕と己を律する心を育む」が理念だそうだ。

 メインがピアノで、ほとんどの生徒がこれに属する。次に弦楽、声楽そして作曲科を併せた四科からなる。

 学年ごとに宿舎があり、それぞれ二名、監督生と副監督生が選ばれる。久遠は監督生であり、副監督生の高瀬とは同室だ。

 礼拝堂から寮までは近いが、レンガ造りで似ている外観の建築物が続くため、慣れるまではすこし迷いやすい。久遠は天河に、建物の名前や用途を手早く説明した。

 その間、天河は説明を素直に聴いているようではあった。ただそれよりも、顔の薄暗さが気になる。初めての環境に戸惑っている、知らないところで緊張している。それは分かる。だが……。

「出口はここだけですか?」

「え?」

 振り返ると天河が、今入ってきた寮の、玄関扉を指差している。

「あぁ、非常口のこと?あっち、廊下の奥に非常灯があるの見える?そこにあるけど。」

「……あ、うん、分かりました。」

 何が聞きたいんだろうという久遠の視線に気がつくと、誤魔化すように笑った。

「トイレがそこ、お風呂はそこを曲がったところ。起床は6時。起きたらすぐ掃除。当番表に君の名も加えておくのでまたあとで確認して下さい。」

 その間、彼の目線は窓やドア、通路、その隅々まで追って、動線を確認しているようだった。設備を見よう覚えようというのは分かるが、それにしては熱心で、慎重に何かを記憶しておこうとする彼の仕草に、少し違和感を覚えた。

 単に緊張している、というわけではなさそうだった。

 そのうちに寮生があちらこちらから顔を出してくる。わらわらと集まり、無言ではあるが、興味を隠さずクスクス、ニヤニヤと集ってくる同級生達に、硬い顔をした天河は目も合わせない。

 

 天河の部屋へ到着し、中へ入る。二人部屋だが、ルームメイトは今は不在で、その荷物だけがある。

「起きて掃除……は、さっき言ったか。

 7時からミサ、7時40分から朝食、8時30分始業。

 朝が少し忙しくて最初は大変だと思うけど、大丈夫かな。」

 天河はドサリ、と荷物を置いた。

「……はい。」

 説明を続けた。

「あと、ピアノの地下練習室は、予約制、22時で閉めます。それから寮の中では、談話室以外で飲食禁止……だけど、ペットボトルとか、蓋つきの飲み物なら大丈夫です。あとは……、全ての持ち物に記名すること。それくらいかな。何か質問は?」

「あ。……まって、ふう、暑い……。」

 と天河はガウンをやや乱暴に脱いでから、尋ねた。

「あの、部屋の鍵って……。」

「鍵?」

「その、内側から締められる?」

 その機能はある。古い金属のドアノブの、ツマミを水平に回せば。

「出来ます。ただ、使ってる人はあまりいないかな。でも使っちゃダメってことはないから、別に鍵かけていいですよ。プライバシーも人それぞれだし。」

 そう答えると少し安心したように、ふっと肩を下げた。

「ミサは毎朝?体調が悪くても?」

「休む場合はルームメイトか俺に必ず伝えて。」

「分かりました。」

 実際彼は笑みを貼り付けただけで、本当に笑っているように見えなかった。

 

 そこへ、同室の者が部屋へ戻ってくる。

「あっ、転校生!」

 快活な笑顔を見せて部屋に入ってきたのはルームメイトの松岡。少しだけ日に焼けている。

 小柄で、2人並ぶと同じくらいの背丈だ。

「天河です。よろしく。」

 にこりと笑う天河。

「松岡でーす。よろしくね。君に祝福がありますように。」

「祝福?あぁ、さすが。クリスチャンって事だね。」

 と言って二人は握手を交わした。

「そうだよ、君は違うんだ?」

 と松岡は邪気なく聞いた。

「僕は、……まあ、初心者なので。おいおい学んでいくつもり。」

「僕はヴァイオリン。天河君は?何科?」

「あ、僕は作曲です。」

 えっ、と久遠は声を出した。

「……ピアノでは?」

 天河がこちらを見て不思議そうに笑った。

「ピアノは副科だけど。……なぜそう思ったの?」

「……なぜって……。」

 ピアノは副科?作曲科だって?

 あんなに心を抉るピアノを弾いておいて、と心の中で反論したが、口にはしなかった。明るく笑っているのに、冷めた影がその流麗な眉目に一瞬だけ落ちたように見えて、つい目を逸らす。

「作曲科、変人しかいないよ!」

 と松岡は明るく言った。

「平気、僕も変人だから。」

 と天河が答えると、松岡はいかにも楽しそうにカラカラと笑い声を上げた。

 久遠は、その声に救われるように、もう集まる時間だと2人を促す。

 天河に、

「君の歓迎会だ。」

 と教えると、せっかく和らいだ表情が、また少し硬くなった。


 談話室に集ったクラスメイト達に久遠が天河を紹介すると、彼は前に出て朗らかに挨拶した。

「作曲科専攻です。学校のこと、いろいろと教えてください。」

 ざわざわと色めきだつ。

「色々って何だー?」

「こんな時期に編入って何か事情があるんですかぁ?」

「彼女いる?」

 後ろの方からヤジめいた声も飛ぶ。そのどれに対しても天河はにこにこと受け流している。

「まあまあ。」

 久遠と同じく副責任者として前に立つ高瀬がなだめる。

「気持ちは分かるが、そういう個人的なことは、親しくなったあとで。」

「えー、今教えて欲しいですー!」

 と手を挙げたのは松岡だった。

 天河は読めない表情で軽い笑みを浮かべていた。

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