第7話 距離という優しさ



 玄関の靴音がまだ残るうちに、ドアが静かに閉まった。

 春斗が出ていった朝の空気は、いつもより少し冷たい。

 白湯の湯気が、テーブルの上で小さくほどけていく。


 カーテンを開けると、街の光が眩しい。

 今日、春斗は事務所で撮影。

 休止明けの初ロケらしい。

 「外に出ると、顔が戻る」と昨夜彼は言った。

 “星影ハル”の顔に、ではなく“自分の輪郭”に。


 俺は洗濯機を回しながら、その言葉の意味をずっと考えていた。

 外で自分を取り戻すという感覚を、俺は持ったことがない。

 俺にとっての“輪郭”は、たぶん家の中にある。

 湯気、皿、呼吸、音のない会話。

 その全部が、俺の形を作っている。


 洗濯機の音が止まり、ベランダに風が通る。

 シーツを干すと、日差しの中に少しだけ春斗の匂いが残っていた。

 柔軟剤と喉飴。

 ほんの少しの甘さ。

 風がそれを奪っていく。


 ──恋をしている。

 その自覚は、もう確実にあった。

でも、愛しているとはまだ言えない。

“好き”と“愛してる”の間には、ちゃんとした距離がある。

その距離を測れるようになるまで、焦らない方がいい。


 昼過ぎ、七海からメッセージが届いた。


七海:

例の撮影、今スタジオ横にいる。

顔色、よかった。

あんたの作った弁当、ちゃんと食べてた。


……それだけ報告。


 俺は小さく笑って、「ありがとう」とだけ返す。

 七海の文は、まるで天気予報みたいだ。

 余計な感情は入れないけど、確実に“晴れ”を伝えてくる。


 ***


 撮影スタジオでは、白い照明の下、カメラとスタッフが忙しく動いていた。

 七海は機材班の陰に隠れながら、こっそり様子を見ていた。

 “星影ハル”の声が響く。

 その声を聞くだけで、彼女は少し笑った。

 あの穏やかな声が、誰かを支えていることを知っている。

 撮影の合間、春斗はペットボトルの水を一口飲み、少し空を見た。

 その視線の先に、彼女は気づいた。

 ――あの子のことを考えてるな、と。


 スマホを取り出し、颯太にメッセージを打つ。


七海:

いい顔してる。

カメラが終わっても、たぶんまだ笑ってる。

それって、あんたのせい。


 送信して、ポケットに戻す。

 その瞬間、春斗がカメラの方を見て、柔らかく笑った。

 照明の光を浴びているのに、不思議と目が優しい。

 その笑顔は、画面の外の誰かに向けられていた。


 ***


 夕方。

 玄関の鍵が回る音。

 外の風と一緒に、春斗が帰ってきた。

 リュックの紐が肩に少し食い込み、髪の先に撮影用のライトの匂いが残っている。


「おかえり」

「ただいま」

「疲れた?」

「少し。……でも、外の空気、やっぱり気持ちよかった」

 彼の声は穏やかで、少しだけ弾んでいた。

 「玲さんが、弁当うまかったって」

 「それ、七海から聞いた」

 「ほんとに、あの人なんでも喋るね」

 笑い合う。

 笑うと、空気の層が一枚薄くなる。


 靴を脱いで部屋に入ると、彼はすぐに加湿器を確認してスイッチを入れた。

 「喉、大丈夫?」

 「大丈夫。……多分」

 「多分、のあとに咳すんな」

 「うん」

 会話の中で、心臓が少しだけ動く。

 好きな人を心配できるというのは、ちょっとした贅沢だ。


 夕食は軽く、野菜スープとおにぎり。

 春斗は食器を並べながら、ぽつりとつぶやく。

 「今日、インタビューで聞かれた。“家でのリフレッシュ方法”って」

 「なんて答えたの?」

「“部屋の空気を整えること”って言った」

「それ、完全に俺じゃん」

「そう。……だから、嘘は言ってない」


 スプーンがスープをすくう音。

 沈黙。

 その沈黙の中に、確かな信頼がある。


「ねえ、颯太」

「うん」

「この距離って、変えない方がいいんだろうなって思ってる」

「……どういう意味?」

「近すぎると、仕事が壊れる。遠すぎると、心が壊れる」

 彼の言葉は、まるで定規みたいにまっすぐだった。

 「でも今は、ちゃんと釣り合ってる。だから、まだ触れなくていい」

 「うん」

 「ただ、安心して」

 「なにを?」

 「俺、ここに帰ってくる理由、ちゃんとあるから」


 胸の奥がゆっくり熱くなる。

 「……それ、ズルい言い方」

 「そう?」

 「うん。でも、嬉しい」


 ***


 食器を洗い終えると、春斗は珍しく自分からテレビをつけた。

 地方局の再放送ドラマ。

 俳優の台詞が、どこか配信の喋り方に似ている。

 「これ、台詞のリズムが好きなんだ」

 「へぇ」

 「間があるでしょ? 言葉って、間で伝わる気がする」

 「たしかに」

 「颯太の“うん”とか、“そうだね”とか、あれ間がいい」

 「褒められてる気がしない」

 「褒めてる」


 笑い合う。

 そうやって笑うたび、距離の線が一度ぼやける。

 “恋人”という言葉をまだ選ばないのは、

 その線が曖昧なままでいい夜があるから。


 春斗はソファの背にもたれ、マグを持った。

 「温かい」

 「冷めにくいマグだから」

 「……ほんとに、俺の生活、君でできてる」

 「それは言いすぎ」

 「でも、半分くらいはほんと」


 ソファの上で、手がそっと重なる。

 今日は、もう“触れない日”じゃなかった。

 焦りはない。

 手を重ねるだけで、十分だと思える夜がある。


 「ねえ、颯太」

 「うん?」

 「撮影の帰り、玲さんに言われた」

 「なにを?」

 「“恋してる顔だな”って」

 「正解」

 「否定しなかった」

 「正解」

 「……バレたくないけど、隠したくない。変だね」

 「変じゃないよ。人間だよ」


 春斗が小さく笑って、指を軽く握った。

 「ねえ、手、冷たい」

 「外寒かったから」

 「……温めて」

 少しの間。

 何も言わずに、指を絡める。

 温度が混ざる。

 それだけで、世界が落ち着く。


 「颯太」

 「ん」

 「俺、君と話してるときの声がいちばん好き」

 「配信より?」

 「配信のは“聞かせる声”。君と話すときは“聞かれてもいい声”」

 「それ、なんかずるい」

 「ずるいよ。だって本音だもん」


 頬が熱い。

 でも笑う。

 恋は、こういう小さな会話で形を作っていくんだと思った。


 外の風が弱まり、部屋の明かりが少しだけ揺れた。

 星柄のマグが、テーブルの上で淡く光を拾う。

 恋という言葉を、もう何度も心の中で繰り返しているのに、

 まだ口には出さない。

 言葉にした瞬間、壊れそうなほど大事だから。


 「そろそろ寝る?」

 「うん」

 「明日、早いんだろ」

 「そう。六時出」

 「起こす?」

 「起こされるの、嫌いじゃない」


 照明を落とす。

 影が広がる。

 春斗が隣に腰を下ろして、軽く肩が触れる。

 “触れていい”と“まだ早い”のあいだを、指先で確かめるみたいに。


 額が、そっと触れる。

 それだけで、時間が止まる。

 「……おやすみ」

 「おやすみ」

 息が混じる。

 声が混じる。

 線は越えない。

 でも、もうお互いの心の中では、とっくに越えている。


 ──距離は、優しさになる。

 近づくばかりが恋じゃない。

 離れても、同じ温度を保てる関係こそが、本物だ。


 春斗がゆっくり目を閉じた。

 その横顔を見ながら、俺は息を整えた。

 静かに目を閉じる。

 壁の向こうの静けさが、やけに心地よい夜だった。


 夕食の片づけが終わると、湯気のにおいがゆっくり部屋から退いていった。換気扇の音が止み、加湿器の低い唸りだけが残る。

 春斗はテーブルの端に、現場でもらったらしい撮影スケジュールの紙を伏せて置いた。角が汗で少し柔らかくなっている。指でそこを押さえたまま、しばらく動かない。


「……笑う、って難しいね」

 ぽつんと落ちた声は、夜のはじまりの温度をしていた。

「現場で?」

「うん。笑うの、できるけど、持続させるのがね。息をどこで吸えばいいか、忘れる」

「吸っていいとき、ここで練習しようか」

「ここ?」

「うん。ここなら、失敗しても誰も死なない」


 春斗は、困ったように笑って肩を落とした。「それ、最高の基準だな」

 笑顔は柔らかく、でも目の奥の筋肉だけが疲れている。そこで初めて気づく種類の疲労だ。

 俺はポットに水を足して、ミントを一枚千切って白湯に浮かべた。湯気に混じる青い香りが、夜の輪郭を少しだけ丸くする。


「外に出ると、自分の輪郭が戻るって言ったけど」

「うん」

「戻るっていうより、“輪郭が二重になる”かもしれない」

「二重?」

「ハルの輪郭と、春斗の輪郭。重なってるところは喉と手。ずれるところは、目」

「目?」

「ハルの目は、いつも“向こう”を見る。春斗の目は、帰ってくる場所を探す。……今日は、帰ってくる場所がはっきりしてた」


 言葉が胸の内側に静かに張りつく。「帰ってくる場所」。それは住所じゃなくて、温度とか匂いとか、音の少なさとか、そういう集合の名前だ。

「俺、たぶん輪郭の片方のために、ここにいるんだな」

「そう。……両方かもしれないけど」


 ポットの湯がカチ、と合図を出す。マグに注いだ湯の面が、薄く揺れた。

 春斗は両手でそれを受け取り、口元に近づける前に、いつもの癖で喉をひとつ鳴らした。家の音。

「ありがとう」

「うん」


 ***


 九時を過ぎると、七海から通話のリクエストが来た。スピーカーにはしない。台所で小声で話す。

「おつかれ。撮影、無事に終わった」

「ありがと。見守りお大事さま」

「はは。……恋ってやつ、気づいたら始まってたんだね、って顔してたよ」

「どっちが?」

「両方」

 短く笑ってから、七海は声の色を落とす。「で、ここからが“悪い友達”の仕事。明日は掲示板が少しだけザワつく。休止明けのテンションで“同居説”が小さく再燃する。火にはならないけど火種にはなる」

「うん」

「だから、生活の音はさらに減らして。……それから、颯太」

「はい」

「あなた、“好き”って言ったでしょ」

 心臓が一拍、遅れる。

「え、なんで」

「声に出して言った人の“歩き方”、ちょっと変わるんだよ。足の裏がちゃんと床を踏む。今日のあなた、そうだった」

 苦笑しながらも、どこか嬉しい。「観察魔」

「プロだから。……でも、覚えておいて。言葉は強い。君が言った“好き”は、相手を軽くも重くもする。春斗は、重さをちゃんと受け止める人。だからこそ、君が軽く持ち続けて」

「軽く?」

「うん、“軽やかに”。軽薄じゃなくて」

「わかった」

「よし。じゃ、悪い友達は退散。おやすみ、静かにね」

「おやすみ」


 通話を切る。台所のステンレスが、熱の抜ける音を微かに立てた。

 居間に戻ると、春斗がソファで台本をめくっている。指の動きが、すこしだけ早い。「七海?」

「うん。明日、ちょっとざわつくらしい」

「うん。……大丈夫」

 その返事に迷いはなく、でもすごく静かだった。静けさで固めた盾。俺はその横に腰を下ろす。盾の裏にいる位置。


「練習、する?」

「なにを」

「息を吸うタイミング」

 春斗は笑って頷いた。テレビを消す。部屋が一段暗くなる。

「では先生、お願いします」

「先生って柄じゃない」

「じゃあ、颯太で」

「最初からそれでいい」


 互いに正面を向かず、少し斜めに座る。

「三拍で吸って、五拍で吐こう。四でもいい」

「ふむ」

「吸って」「吐いて」

 加湿器の青いランプが、拍に合わせて脈打っているように見える。実際はただ点いているだけなのに、身体が勝手に意味づけをする。

「……ねえ」

「うん」

「こういう“何も起きてない時間”、好きだ」

「何も起きてるよ」

「起きてる?」

「起きてる。呼吸がそろうって、だいぶ起きてる」


 春斗は笑い、「それはそうだ」と声を低くした。

 拍は呼吸のためにあるけれど、心のためにもある。等しい間隔で何かを繰り返すと、人はだいたい安心する。

 五分、十分。時間の感覚が溶ける。

 やがて春斗が、小さく指を動かした。「……手、いい?」

「うん」


 触れた。

 指の節が、指の節にそっと沿う。強さは乗せない。

 触れているのに、まだ“触れてない”みたいに軽い。

 その軽さが、今の俺たちの形だとわかる。

 指先から腕へ、ゆっくり体温が伝わって、肩の力がほどける。


「初めては、雑にしたくない」

「うん」

「でも、“初めての前の練習”は、今してる気がする」

「うん。上手いね」

「職業柄」


 笑って、笑い声が音にならないように、喉の奥で砕く。

 遠くでエレベーターの到着音が鳴った。どこかの階の扉が開く音。生活の音は、合図にはならない。ただの風景だ。

 ソファの背にもたれ、ひとつ息を深く吸う。部屋の空気は、清潔な柔らかさで満ちていた。


 ***


 夜半を過ぎたころ、カップの底に残った白湯がもうぬるくなっていた。

 寝室に灯りを移す。布団のしわが、海の等高線みたいに見える。

 春斗が先に潜り、俺があとから入る。

 同じ布団の中で、手の甲がふれて、少しだけ離れて、また寄る。

 音は立てない。立てなくても、十分に届く。


「颯太」

「ん」

「明日の朝、五時半に起こして」

「起きる自信は」

「半分」

「じゃあ、二重に保険かけよう。俺が起きなかったら七海に電話する」

「それは最後の最後の保険」

「わかってる」


 布の重みが、身体に均等に落ちる。

 暗闇で、彼の呼吸の山が整っていく。

 “好き”という言葉を口にした後の夜なのに、胸は不思議と静かだった。

 “言えた”より“聞けた”のほうが大きい。

 聞けた、そして受け取った。それだけで、長い距離を歩いたような疲労と、歩いた分の満足。


 眠りの淵で、春斗がもう一度だけ囁く。

「戻ってくる理由、増えた」

「増えた?」

「うん。……名前が、増えた」

 意味は、わかるようでわからない。わからないままでいい。

 頷くかわりに、呼吸の拍を一つ重ねた。

 灯りがさらに一段落ちる。夜が、夜になりきる。


 ***


 朝。五時二十七分。

 アラームの三分前に目が覚めた。

 こういうときだけ身体は律儀だ。

 台所で静かにポットを回し、マグを温める。ミントを一片、指で裂く。

 「……おはよう」

 寝室から、低い声。

 「おはよう。三分前の奇跡」

 「俺も起きてた」

 「えらい」


 パンを焼く音を最小限にして、バターを薄く。弁当箱に昨夜のスープの具を少し詰め、保温ボトルに出汁を注ぐ。

 春斗は歯を磨き、顔を洗い、髪を軽く濡らしてタオルで押さえた。

 朝の彼は、驚くほど無防備に人間だ。

 “星影”の影の字が一画くらい抜け落ちて、ただの二十歳の顔になる。

 それを見るのが、密かな特権みたいで、胸が温かくなる。


「行ってきます」

 玄関で靴紐を結ぶ。

 その手元に、弁当と保温ボトルをそっと差し出す。

 「たぶん昼、詰め込まれるから、これで生きて」

 「生きる」

 短いやりとりに、笑いが混じる。

 ドアノブに手を掛けてから、春斗は少しだけ振り返った。

 「帰ってきたら、ミントの白湯、ある?」

 「ある」

 「よかった」


 鍵の音が鳴り、冷たい朝の空気が隙間から入り込む。

 ドアが閉まる瞬間、彼はほんの少しだけ声を落とした。

 「……好き」

 返事は、息の形だけで返す。声は出さない。

 それでも伝わる距離。

 それが、今の“恋の呼吸”。


 静けさが戻る。

 窓の外で朝日がビルの角を塗り替えていく。

 テーブルの上の星柄のマグが光を受けて、縁の欠けを柔らかく見せた。

 欠けは増えていく。でも、減るものだけじゃない。

 増えるもの──名前、理由、拍、帰る場所。

 増えたものを数えるのが、たぶんこれからの俺の仕事だ。


 ポットのお湯がちょうどいい温度になり、白い湯気が上がる。

 マグにミントを落とすと、香りが広がった。

 深く吸って、五拍で吐く。

 昨夜の練習みたいに。

 吸って、吐いて。

 俺たちの“輪郭”が、今日も揃いますように。

 その祈りだけを、胸の奥で一度だけ強く抱きしめた。


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