第6話 お節介

 天宮ひなたが配属されてから一週間が過ぎた。八木雄介が当初抱いた「危険」という予感は残念ながら的中しつつあった。彼女は八木が昨日固く誓った決意などお構いなしに、その陽光のようなお節介で彼の城壁を執拗に叩き続けた。


「八木先輩! おはようございます!」


 朝、出社すれば誰よりも早く眩しい笑顔で挨拶してくる。八木は軽く会釈だけを返し足早に自分の席へ向かう。


「あの、八木先輩。この間のA社向けの資料なんですけど、過去のデータってどこに保存されてますか?」


 仕事の質問。これは無視するわけにはいかない。八木は無言で共有フォルダの階層を指し示す。ひなたは「わ、分かりやすいです!ありがとうございます!」と満面の笑みだ。


 そして昼休み。八木がいつものようにデスクでコンビニのパンを齧っていると、ひなたが小さな弁当箱を手にそろそろと近づいてきた。


「八木先輩、いつもお一人なんですか? もしよかったら、あっちの休憩スペースで一緒に……」

「ここでいい」


 八木は彼女の言葉を遮るように短く言い放った。ひなたは一瞬きゅっと唇を結んだが、すぐに「そ、そうですよね!集中したいですもんね!失礼しました!」とまた笑顔を取り繕って去っていく。


 毎日毎日がその繰り返しだった。ひなたの悪意のない純粋なコミュニケーション欲求。八木の感情を削ぎ落とした徹底的な拒絶。


 彼女は八木の無愛想な態度に傷ついた素振りを見せながらも、次の日にはけろりとしてまた同じように話しかけてくる。その打たれ強さはある種の才能と言ってよかった。だが八木にとってそれは精神をすり減らす不快なノイズでしかなかった。


 面倒だ。鬱陶しい。関わるな。彼の内面では拒絶の言葉が渦巻いていた。彼女の存在そのものが彼の平穏を脅かすバグだった。早くこの日常に慣れて俺という存在を空気か何かのように認識してくれればいい。そう彼は切に願っていた。


 そんな日々が続いていたある日の午後。事件はフロアに響き渡る一つの怒声から始まった。


「天宮さん! ちょっと君、こっち来なさい!」


 声の主は営業二課の田中だった。三十代半ばの中堅社員で普段は温厚だが、仕事のこととなると途端に厳しくなる男だ。その田中の常になく尖った声にフロアの空気がぴんと張り詰めた。


 ひなたがおずおずと田中のデスクへ向かう。田中は手に持った一枚の報告書をデスクに叩きつけるように置いた。


「これ、何?」

「……先日、お伺いしたB社の、議事録です」

「そうだろうね。で、この数字は何?」


 田中が指差したのは報告書に記載された納品予定数だった。


「先方のご希望数が、100ということでしたので……」

「そう。君は100と聞いてきた。で、俺が先方に電話で確認したら、『150でお願いしたはずですが』って言われたんだが、これはどういうことかな?」


 ひなたの顔からさっと血の気が引いたのが遠目にも分かった。


「え……そ、そんな……わ、私の、聞き間違い、です……申し訳ありません!」


 彼女の声が情けなく震えている。田中の声のボリュームが一段階上がった。


「聞き間違い? あのなあ、これはただの雑談じゃないんだよ。契約に関わる大事な数字だぞ! 君のその『聞き間違い』一つで、会社がどれだけの損害を被るか、分かってるのか!」


 正論だった。正論だがその物言いはあまりに一方的で、新人を萎縮させるには十分すぎるほどの威圧感があった。フロアの他の社員たちはキーボードを打つ音をことさらに大きくしたり、受話器を耳に押し当てたりしてこの気まずい状況から意識を逸らそうとしている。誰も助け舟を出そうとはしない。見て見ぬふりというこの社会で最も一般的な処世術。


 八木もまたその一人だった。これは俺には関係ない。自業自得だ。あの屈託のなさが仕事の甘さに繋がっている。一度こうして痛い目を見れば少しは学習するだろう。彼は冷徹にそう判断しモニターの数字の羅列に意識を集中させようとした。


「……本当に、申し訳、ありませんでした……」


 ひなたの消え入りそうな声が耳に届く。八木は無意識に顔を上げていた。


 そこに立っていたのはいつもの太陽のような彼女ではなかった。顔を真っ赤にし唇を固く噛み締め、瞳に涙をいっぱいに溜めてそれでも決してこぼすまいと必死に堪えている。ただひたすらに自分の非を認め頭を下げ続けるか弱い一人の人間だった。


 その姿を見た瞬間、八木の脳裏に数週間前の光景がフラッシュバックした。


 ――路地裏でカラスに囲まれていた一匹の子猫。


 状況は違う。相手も違う。だが理不尽な力の前でただ小さく震えている存在。その構図は驚くほど似通っていた。


 面倒だ。心の中でかつてと同じ言葉が再生される。関わるな。面倒なことになるだけだ。俺が守るべきは俺自身の平穏だ。彼女がどうなろうと知ったことか。


 そう頭では分かっているのに身体の深い部分で何かが軋むような音を立てた。抑えつけていたはずの原始的な感情。理不尽なものに対する生理的な嫌悪感。そして弱きものを前にした時に無意識に湧き上がってしまう庇護欲のようなもの。


 やめろ。動くな。俺は八木雄介だ。他人に関心のない孤独な男だ。


 内なる声が必死に警告を発する。だが彼の身体はその警告を無視した。


 ガタッと。静まり返ったオフィスに八木の椅子が床を擦る音がやけに大きく響いた。フロア中の視線が音の発生源である彼に突き刺さる。驚きと訝しさが入り混じった視線。その全てを無視して八木はゆっくりと立ち上がった。


 一歩また一歩と田中のデスクへ近づいていく。田中もひなたも、そして他の同僚たちも信じられないものを見るような目で彼の接近を見つめていた。


「……田中さん」


 八木は感情の乗らない平坦な声で呼びかけた。


「なんだ、八木。お前には関係ないだろう」


 田中が怪訝そうに眉をひそめる。八木は田中の手元にある報告書を一瞥し、そして静かに口を開いた。


「その件は、俺の指示ミスだ」


 時が止まったかと思った。フロアの誰もが息を呑んだ。


 ひなたが弾かれたように顔を上げる。その大きな瞳が驚愕に見開かれていた。田中も鳩が豆鉄砲を食ったような顔で八木を凝視している。八木は表情一つ変えずに続けた。


「B社との打ち合わせ前に、俺が彼女に参考資料として古いデータを渡した。そこに記載されていたのが、100という数字だった。おそらく、彼女はそれを正式な数だと誤認したんだろう。確認を怠った彼女にも非はあるが、元を辿れば、誤解を招く指示を出した俺の責任だ」


 淀みなく淡々と。まるでそれが疑いようのない事実であるかのように。


 オフィスは異様な沈黙に包まれていた。あの八木雄介が他人を庇った。それも自らの非を認めるという形で。その事実が社員たちの思考を完全に停止させていた。


「……そ、そうだったのか」


 一番早く我に返ったのは田中だった。まさか八木が嘘をついているとは夢にも思わず彼は気まずそうに頭を掻いた。


「いや……だとしても、ちゃんと確認しなかった天宮さんにも問題は……」


「ああ。だから、今後は俺の方から、報告の際には必ずダブルチェックするように徹底させる。それでいいか」


 有無を言わせぬ強い口調。田中はぐっと言葉に詰まった後、「……分かった。まあ、そういうことなら仕方ない。二人とも、次から気をつけるように」と矛を収めるしかなかった。彼はどこかバツの悪そうな顔で自分のデスクへと戻っていく。


 嵐は去った。


 八木は一言も発さずに立ち尽くしているひなたにちらりとも視線を送ることなく踵を返した。そして何事もなかったかのように自分の席に戻り再びパソコンのモニターに向かう。


 だが彼の内面は荒れ狂う嵐のようだった。心臓がドクドクと警鐘のように脈打っている。指先がわずかに震えていた。


 何故、あんなことをした?


 自問自答する。だが答えは出ない。ただあの涙を堪えた瞳を見た瞬間身体が勝手に動いていた。理屈ではない。計算でもない。本能的な衝動。


 それは彼が最も忌み嫌い自らの内側に封じ込めてきたはずのものだった。自分のルールを自ら破ってしまった。完璧だったはずの城壁に自らの手で修復不可能なほどの大きな穴を開けてしまった。


 自己嫌悪と得体の知れない戸惑いが彼の思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。


「……あの」


 背後からか細い声がした。振り返らなくても誰かは分かっている。八木はモニターを睨みつけたまま低い声で応えた。


「なんだ」

「……さっきは、ありがとうございました」


 ひなたの声はまだ少し震えていた。感謝とそして戸惑いの色が滲んでいる。


「……でも、あれは、先輩のミスじゃ、ないですよね?」

「俺が俺のミスだと言ったんだ。それで終わりだ」


 八木はキーボードを叩きながら吐き捨てるように言った。


「それより、同じミスを二度とするな。次はない」


 突き放すような冷たい言葉。これ以上関わってくるなという最後の警告。


 しばらくの沈幕の後、ひなたは「……はい。肝に銘じます」と小さな声で答えた。そして深々と頭を下げる気配がして彼女は自分の席へと戻っていった。


 八木は彼女が完全に立ち去ったのを確認してから、誰にも気づかれないように深く長い溜め息をついた。


 フロアのあちこちでひそひそと囁き声が交わされているのが空気の振動で伝わってくる。


『見たか?』 『あの八木さんが、人を庇うなんて……』 『あの二人、一体どういう関係なんだ?』


 新たな面倒の種がばら撒かれた。それも自分自身のせいで。


 八木はひなたが戻っていったデスクの方を無意識に目で追っていた。彼女は自分の席に座りじっとこちらを見つめていた。その瞳にはもう涙はなかった。そこにあったのは怯えでも単なる感謝でもない。


 もっと複雑で深くそして強い光を宿した未知の感情だった。


 その真っ直ぐな視線に射抜かれ、八木は初めて彼女から逃げるように目を逸らした。

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