【悲報】俺の正体、神話最強の怪物ヤマタノオロチ。ひとりで平穏に暮らしたいだけのサラリーマンなのに、お節介な後輩女子の「信頼」が最強の神の力になるらしい

久喜崎

一章

第1話 八木雄介

 午前六時三十分。スマートフォンのアラームが無機質な電子音で部屋の静寂を切り裂いた。八木雄介は布団の中で身じろぎもせず、ただ天井の染みを眺めていた。あと五分。その無意味な抵抗が、一日に許された唯一の贅沢であるかのように彼はじっと動かずにいた。やがてけたたましい音が止むと、部屋には再びしんとした空気が戻ってくる。まるで何も起こらなかったかのように。


「……起きるか」


 誰に言うでもない独り言を呟き、八木はゆっくりと身体を起こした。軋むベッド。フローリングの冷たさ。窓から差し込む灰色の光。昨日と何一つ変わらない朝だ。それでいい。それがいいのだ。


 八木雄介、二十八歳。中堅食品メーカー「武蔵野フーズ」の営業職。身長は百八十を超え、体格だけは良いが常に猫背気味でその威圧感を巧みに殺している。ボサボサの黒髪に無精髭。クローゼットから取り出したヨレたスーツに袖を通して鏡の前に立つと、そこには案の定、眠たげで目つきの悪い男が映っていた。初対面の人間には十中八九、少しだけ警戒される顔つきだ。


 キッチンでトーストを一枚焼き、マーガリンを雑に塗って口に放り込む。味などしない。ただ胃袋という臓器の要求を満たすための作業だ。テレビはつけない。朝の情報番組が垂れ流すどこかの誰かの幸福や不幸など、自分の人生には一ミリも関係ないからだ。


 家を出る前にサイドテーブルに置いていた古びたアナログ腕時計を左手首に装着する。大学に入学するとき親から贈られたものだ。文字盤には八つのインデックスが配置されている。何度も壊れかけたがその度に修理に出して使い続けてきた。これといって思い入れがあるわけではない。ただ他に持っていないから、それだけの理由だ。


 ドアを開けると生ぬるい外気が肌を撫でた。今日もまた同じ一日が始まる。波風の立たない、誰の記憶にも残らない平穏な一日が。


 *


 午前七時四十五分、中央線快速、高円寺駅。ホームはすでに黒っぽいスーツの群れで埋め尽くされていた。息が詰まるような光景だ。電車が滑り込みドアが開くと、人々は意思のない塊のように車内へとなだれ込む。八木もその濁流に身を任せ、ドアすぐそばの一番端の位置を確保した。ここが彼の定位置だ。他人と極力身体が触れ合わないためのささやかな生存戦略だった。


 発車のベルが鳴り、電車はゆっくりと動き出す。満員電車の空気は人の汗とため息、そして誰かの香水の匂いが混じり合った不快な匂いがした。八木は目を閉じ、意識を自分以外のすべてから遮断しようと試みる。


 ガタン、と電車が大きく揺れた。隣の男の肘がぐりぐりと脇腹に食い込んでくる。舌打ちが喉まで出かかったが八木はそれを飲み込んだ。面倒ごとは嫌いだ。ここで何か言えば相手が逆上するかもしれない。そうなればこの密室で醜い言い争いを演じることになる。想像するだけでうんざりした。


 無意識に左手首へ指が伸びる。腕時計の冷たい金属の感触が指先にわずかな安心を与えた。意味などない。ただの癖だ。苛立ちやストレスを感じた時、気づけばいつもこの時計に触れている。自分でも理由は分からなかった。


 新宿、四ツ谷、御茶ノ水。駅に着くたびに人の波が入れ替わり、その度に押し合いへし合いの小さな攻防が繰り返される。誰かが誰かの足を踏み、小さな謝罪の声が聞こえる。誰も彼もがこの窮屈な鉄の箱の中で見えない何かと戦っているようだった。


「……くだらない」


 吐き捨てた言葉は電車の騒音に掻き消された。


 *


 午前九時、武蔵野フーズ営業二課。八木のデスクはフロアの一番奥の隅にあった。パソコンの電源を入れてメールをチェックする。大半はどうでもいい社内通達と取引先からの定型的な挨拶メールだ。


「おはよーっす! 八木さん、今日も早いっすね!」


 背後からやけに溌剌とした声が飛んできた。振り返らずとも分かる。入社二年目の田中だ。体育会系で誰にでも屈託なく話しかける。八木が最も苦手とする人種だった。


「……ああ」


 八木はモニターから視線を外さずに短く応えた。それ以上の会話を拒絶する明確な意思表示だ。田中もそれを察したのか「うっす」とだけ言って自分の席に戻っていった。


 フロアには徐々に社員たちが出社してきて賑やかになっていく。昨日のドラマの話、週末の予定、新しい取引先の愚痴。そういった会話の輪に八木が加わることは決してない。誰も彼を誘わないし、彼もまた誘われることを望んでいなかった。


 何を考えているか分からない、付き合いの悪い人。社内での彼の評価はおそらくそんなところだろう。それで結構だった。他人に理解されたいなどと思ったことは一度もない。理解されるということはその分だけ相手に干渉されるということだ。それは彼の望む「平穏」とは最もかけ離れた状態だった。


「八木くん、ちょっといいかな」


 課長に呼ばれデスクへ向かう。


「例のスーパー『アサヒヤ』の件なんだが、先方から連絡があってね。今月の納品分、もう少しだけ数を調整してほしいそうだ」

「……承知しました。本日午後にでもご挨拶に伺います」

「うん、頼むよ。ああ、くれぐれも失礼のないようにな」


 課長の言葉は遠回しな釘差しだ。八木は営業成績こそ悪くないが、愛想というものを決定的に欠いていることを課長は知っている。八木は小さく頭を下げ、無言で自分の席に戻った。


 午後の訪問に備え資料を作成する。キーボードを叩く音だけが彼の世界に存在していた。周囲の笑い声は遠い国の祭り囃子のように聞こえた。


 *


 午後三時、スーパー『アサヒヤ』本部。応接室に通され待つこと十五分。ようやく現れた仕入れ担当の山田は開口一番ため息をついた。


「いやあ、八木さん。悪いんだけどさ、ウチも色々大変でねえ」


 山田はこちらの事情などお構いなしに自分の会社の苦境を語り始めた。不景気だ、競合が厳しい、上がうるさい。八木はただ黙って相槌を打ち続けた。彼の仕事は商品という名の「物」を売ることではない。取引先の機嫌という名の「感情」を波立てないように管理することだ。


 一通り愚痴を吐き出して満足したのか、山田は本題に入った。 「で、例の件なんだけど。今月分、もう一割、減らせないかな」 「……一割、ですか。それは少々厳しい数字かと」 「そこを何とかするのが君の仕事でしょ」


 にやにやと笑う山田の顔を見ながら、八木の腹の底で黒く冷たい何かが渦を巻いた。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐに理性という名の分厚い壁の向こうに押し込められた。


「……承知いたしました。社に戻り上長と相談の上、改めてご連絡差し上げます」 八木は椅子から立ち上がり、深く深く頭を下げた。角度は九十度。営業マンとして叩き込まれた完璧な謝罪のフォームだ。


 会社を出てアスファルトの照り返しが眩しい道を歩く。じっとりとした汗が背中を伝った。ストレスで胃がキリキリと痛む。まただ。無意識に左手が腕時計に触れていた。ひんやりとしたガラスの感触が燃えさかるような苛立ちをわずかに冷ましてくれる。


 これが日常だ。これが社会だ。頭を下げて理不尽を飲み込み、感情を殺して対価として金銭を得る。そうやって手に入れた金で一人きりの部屋の家賃を払い、一人分の食事を買う。その繰り返し。それこそが八木雄介の人生だった。


 *


 午後七時。定時を少し過ぎた頃、八木は誰に声をかけるでもなく静かに会社を出た。 「お、八木。この後一杯どうだ?」 同期の誰かが声をかけてきたが、八木は軽く会釈するだけでその誘いを断った。エレベーターに乗り込み一階に降りる。外はすっかり暗くなっていた。


 帰り道、煌々と明かりが灯るコンビニに立ち寄る。弁当コーナーを眺めるが特に食べたいものはない。いつもと同じ唐揚げ弁当を手に取った。選ぶという行為すら億劫だった。


 レジを済ませアパートへの道を歩く。すれ違う人々は皆、誰かと楽しそうに話していたりスマートフォンに夢中だったりする。誰も八木のことなど見ていない。世界から完全に隔絶されたような奇妙な安心感を覚えた。


 自室のドアを開け鍵をかける。この瞬間が一日の中で最も安らぐ時だった。誰にも邪魔されない自分だけの空間。買ってきた弁当を電子レンジで温め、プラスチックの蓋を開ける。立ち上る湯気はどこか虚しい匂いがした。


 BGM代わりにテレビのスイッチを入れる。アナウンサーが抑揚のない声でニュースを読み上げていた。


『――続いてのニュースです。本日午後、関東地方の広範囲で原因不明の局地的な突風による被害が報告されました。専門家は、これまでに観測されたことのない異常な気象現象の可能性を指摘しており、気象庁が詳しい原因を調査しています』


 画面には屋根瓦が吹き飛んだ民家やなぎ倒された街路樹の映像が映し出されている。 「……またか」 八木は特に興味も示さず箸を進めた。最近よく聞くニュースだ。世界のどこかで誰かが災難に見舞われている。それだけの話だ。自分の平穏な日常には何の関係もない。


 食べ終えた弁当の容器をゴミ袋に放り込みシャワーを浴びる。一日の汚れと心の澱を洗い流す。ベッドに潜り込み部屋の明かりを消した。


 今日も何も起こらなかった。誰かを傷つけることも誰かに深く干渉されることもなかった。退屈で、孤独で、変化のない一日。


「……これでいい」


 暗闇の中で八木は静かに呟いた。この色のない日常こそが、彼が唯一望む「平穏」という名の城壁なのだから。 彼はそっと左手首から腕時計を外し、それをサイドテーブルに置いた。明日もまた同じ朝が来るだろう。それで、よかった。

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