第17話 モラルハザード

(視点:錦垣 えま)


一九九六年、秋。

永田町を見下ろすホテルのスイートルームは、硝煙(しょうえん)ならぬインクとコーヒーの匂いに満ちた、二つの戦線の司令部と化していた。空気は淀み、連日の徹夜作業でメンバーたちの疲労はピークに達していた。鳴り止まぬ電話のベルとファックスの受信音が、絶え間ない緊張感を部屋に響かせる。


将来パス連盟の結成という高揚感も束の間、えまたちは再び窮地に立たされていた。しかも今回は、二つの巨大な敵が同時に、そして矛盾する要求を突きつけてきたのだ。


「また、大蔵省からです!」

夜学クラブの若手官僚が、新たなファックス用紙を手に、えまに駆け寄った。その紙面には、緊縮派の意向を汲んだ事務次官通達の最終案が記されている。消費税率5%への引き上げを既定路線とするための、世論操作ともいえる露骨な内容だった。


「こっちは日銀と都銀の連名で……」

地銀若手の頭取は、別の分厚い資料の束を示した。それは、震災と円高を理由に、不良債権処理のための公的資金注入(=税金投入による資本増強)を求める、護送船団古参からの半ば脅迫的な「要望書」だった。


えまは、部屋のホワイトボードに殴り書きされた二つの要求を睨みつけた。


『敵①:緊縮派』→『要求:震災復興を名目に「消費増税(5%)」の断行』

『敵②:護送船団(古参)』→『要求:震災・円高を名目に「公的資金(税金)による資本注入」の実施』


部屋に集う連盟メンバーの顔には、焦りと絶望の色が濃く浮かんでいた。

「増税と、銀行救済……両方、だと……?」

若手議員の一人が、信じられないというように呟いた。

「国民に痛みを強いる増税で得た税金を、腐敗の元凶である銀行を救うために使う? こんな最悪の組み合わせが、通るわけがない!」


「通るのよ」

えまは冷ややかに断言した。連日の情報分析から、敵の戦略は明らかだった。

「緊縮派と護送船団は、本来なら水と油。でも今回だけは、『震災復興』という共通の人質を利用している」


えまの分析は冷徹だった。

「緊縮派は、銀行救済を黙認する代わりに、悲願の増税を勝ち取る。護送船団は、増税を黙認する代わりに、資本注入を勝ち取る。……裏での談合よ」


えまの頭の中に、巨大な天秤が浮かんだ。一方の皿には、国民が支払う「増税」という痛み。もう一方の皿には、銀行だけが利益を得る「資本注入」という不公平。それは、責任の所在を曖昧にし、リスクを取った者が罰せられず、むしろ公的資金で救済されるという、モラルハザード(倫理の崩壊)そのものだった。可視化されるべき責任が、復興という美名の下に隠蔽されようとしていた。


「どうする、錦垣さん!」地銀若手の頭取が悲鳴に近い声を上げた。「我々連盟が増税に反対すれば、緊縮派は資本注入を潰しにかかる。我々地銀は確実に死ぬ。だが、資本注入に反対すれば、護送船団は増税阻止への協力を拒否するだろう。どちらに転んでも……!」


「あちらを立てればこちらが立たず……」

えまは深く息を吐いた。まさに八方塞がり。完璧な「詰み(デッドロック)」に見えた。


「詰み、ではない」


その声は、部屋の隅から聞こえた。ラップトップに向かい、キーボードを叩いていた円理が顔を上げたのだ。彼女の周りだけ、部屋の焦燥とは無縁の、冷たい論理の空気が漂っている。


「前提が、間違っている」

「博士……?」えまはいぶかしげに聞き返した。「今、数学で解ける問題じゃないわよ」


「解ける」円理は立ち上がった。「詰みではない。前提が間違っている」


***


(視点:雫間 円理)


円理は、ホワイトボードの前に立った。彼女の脳は、この二つの脅威を敵としてではなく、連立方程式の変数として処理していた。緊縮派の要求をA、護送船団の要求をBとする。Aを通せばBが成立せず、Bを通せばAが成立しないように見える。だが、それは二つの要求を独立変数として捉えているからだ。


「えま」

円理は、ホワイトボードに書かれた「増税断行」と「資本注入」を、一本の線で結んだ。

「あちらとこちらを別々に解こうとするから詰む。『両方を、同じ論理で縛ればいい』」


「同じ、論理?」えまが円理の言葉の意図を探るように反芻した。


円理は、第16回で設計した「解毒剤」をホワイトボードに書き出した。


『対・緊縮派』

『施策①:『増税』を飲む』

『縛り(論理):『時限条項』。(=もし、名目経路が未達なら、自動で撤回)』


「これは、昨日までの作戦だ」

円理は、その隣に、新たな解毒剤を設計し、書き加えた。


『対・護送船団』

『施策②:『資本注入』を飲む』

『縛り(論理):『追徴条項』。(=もし、銀行経営が回復し利益が出たら、注入した公的資金は全額、自動で返済)』


「……!」

えまが息を飲んだ。会議室にいた他のメンバーたちも、円理が書いた二つの「縛り」に目を凝らしている。


「同じ論理……」えまは、円理が描いた二つの条項を、戦慄しながら見つめていた。「……そういうこと……美しい……」


連盟のメンバーたちは、まだ何が「美しい」のか、完全には理解できていない。だが、えまは理解した。円理の設計の、政治的な美しさを。


「追徴条項……!」えまがその言葉を噛みしめるように繰り返した。「『儲かったら、返せ』……これよ」


えまは、頭の中の天秤の両皿に、同じ重りが載せられたのを見た。増税の「痛み」と、資本注入の「不公平感」。二つの異なる問題が、一つの論理で結びつけられた。


「緊縮派は、『経済は(増税しても)回復する』と主張している」

「護送船団は、『(資本注入すれば)経営は(すぐに)回復する』と主張している」


えまは笑った。悪魔的な笑みだったかもしれない。

「博士の設計は、彼らのその『主張(うそぶき)』を、担保に取るのね」

「『回復しない』なら、『増税』は撤回」

「『回復する』なら、『税金』は返済」


「肯定だ」円理は小さく呟いた。「モラルハザードは、これで封じ込められる」


連盟メンバーたちの顔にも、ようやく血の気が戻った。

「すごい…!」

「これなら国民に説明がつく!」

「不公平な銀行救済ではない!」

「痛みだけの増税でもない!」

「この二つの条項をセットにすることで、我々は緊縮派と護送船団の両方を分断できる!」

両派の穏健派は、この公正なロジックを飲まざるを得ないだろう。一方の強硬派も、自らの主張が「もし実現しなかった場合」の責任を、この条項によって明確に問われることになる。


えまは、天秤が完璧に吊り合ったのを確信した。円理が設計した、この「二つの解毒剤」をセットにした最終パッケージ。これこそが、この絶望的な状況を打破する唯一の武器だった。


「皆、聞いて」

えまの声は、劣勢から絶対の自信へと変わっていた。

「これが、将来パス連盟の唯一の回答よ。これを、政治合意に格上げするわよ」


彼女はコートを掴んだ。これから始まるのは、霞が関と永田町の、最も暗く、最も深い場所での、最後のロビー活動だ。円理の「美しい」設計図を、現実の政治という泥沼の中で、一文字も変えさせずに通すための戦いが、今、始まろうとしていた。


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