第9話 痛みの面積
(視点:雫間 円理)
貸し会議室の重い扉が、乱暴に閉められた。
あの「護送船団(古参)」の男が、錦垣 えまの「腐敗」という言葉に顔を歪め、「素人が」と吐き捨てて出ていったのだ。
あとに残されたのは、五人の「地銀若手頭取」と、えまと、そして「秘書(影)」として存在する円理だけだった。
部屋の空気は、変わっていた。
「権威(古参)」が去り、代わりに「焦燥(しょうそう)」が満ちていた。
安いインスタントコーヒーの澱(おり)んだ匂いと、古いビルの金庫から漂うような、乾いた金属と埃の匂い。
そして、薄暗い蛍光灯が、若手頭取たちの青ざめた顔を照らしていた。
「……錦垣さん」
北陸の若手頭取が、絞り出すように言った。
「あなたの『比喩(メタファ)』は、我々の心臓に突き刺さる。……そうだ、我々が抱えているのは『傷(キズ)』じゃない。『腐敗(ロット)』だ」
だが、彼は続けた。
「だが、腐敗をどうする? えぐり出せば、我々自身が死ぬ。だから、古参(あいつら)は『時間(とき)が解決する』という『麻薬』に逃げるんだ」
他の頭取たちも頷く。
えまの「比喩」は、彼らを「覚醒」させたが、「解決策(ソリューション)」は示していない。
彼らは、数字の人間だ。
「比喩」だけでは動けない。
「……博士」
えまが、静かに円理に合図した。
円理は、震える指で、ノートPCのキーを押した。
今こそ、円理の「言語」の時間だった。
円理は、第07回の「未来同期」でアップデートされた、二〇四一年基準のHANKモデル――それを、この一九九三年の貧弱なハードとデータで強引に回した、シミュレーション結果――を表示させた。
グラフは、二本の「線(パス)」で構成されていた。
横軸は、「時間(一九九三年~二〇〇五年)」。
縦軸は、「損失(コスト)の累積総額」。
「……これは」
頭取の一人が、息を飲んだ。
円理は、声が出せない。
だが、えまが、円理の「翻訳」を始めた。
「博士の計算(シミュレーション)です。あなた方が『腐敗(ロット)』を処理した場合の、二つの『未来(パス)』の、コスト比較ですわ」
えまは、一本目の「線(ライン)」を指差した。
それは、一九九四年に急激な「山(スパイク)」を描き、その後、急速に「ゼロ(平坦)」へと収束していくグラフだった。
えまは、その急峻な「山」の下の「面積(エリア)」を、ノートPCの画面上でなぞった。
「プランA。『即時手術(そくじしゅじゅつ)案』」
えまは、円理が使った「青色」の面積(エリア)を指した。
「これが、あなた方が『今すぐ』、全ての『腐敗』をえぐり出した場合の、『痛みの総コスト』です。……この『青い面積(ブルー・エリア)』ぶんだけ、一時的に、日本経済は『出血』する」
頭取たちの顔が、さらに険しくなった。
「青い面積」……それは、彼らの銀行(バンク)が、即座に「債務超過(デッド)」に陥ることを意味していた。
「そして」
えまは、二本目の「線(ライン)」を指差した。
それは、円理のシミュレーションが生み出した、おぞましい「怪物」だった。
一九九四年時点では、損失(コスト)は低い。
だが、その「線」は、時間と共に「デフレ」と「将来不安」をパラメータとして取り込み、指数関数的(エクスポネンシャル)に上昇していく。
それは、二〇〇〇年を過ぎたあたりで、「青い面積(プランA)」の、数十倍の高さにまで達していた。
しかもその「線」が描く、巨大な、終わりのない「面積(エリア)」。
円理は、それを「赤色」で塗りつぶしていた。
「プランB。『先送り(古参)案』」
えまの声が、静かな会議室に響いた。
「これが、あなた方が『時間(とき)が解決する』という『麻薬(古参の論理)』を選び続けた場合の、『痛みの総コスト』」
えまは、その絶望的なまでに巨大な「赤い面積(レッド・エリア)」を、指で叩いた。
「……馬鹿な」
北陸の頭取が、呻いた。
「……コストが、数十倍……? あり得ない。損失(ロス)は、時間と共に『希釈化』されるはずだ……!」
(感情:疑念 → 算段)
円理は、この瞬間、えまに「喋れ」と合図される前に、口を開いていた。
彼女の「IQ二〇〇」が、その「非論理性」を許容できなかった。
「……(違う)」
円理のかすれた声に、頭取たちが顔を上げた。
「……『時間』は、希釈化しない」
円理は、震える指で、「赤い面積」を指した。
「『デフレ』が、実質金利(リアル・インタレスト)を上昇させ、債務(デット)の『実質価値(リアル・バリュー)』を増大させる」
「……『先送り』そのものが、『将来不安(フューチャー・アンクザイエティ)』を増幅させ、消費(コンサンプション)を冷え込ませ、デフレを『加速(アクセラレート)』させる」
円理は、二〇四一年のHANKモデルの結論(コア)を、たどたどしく「翻訳」した。
「……『赤い面積(プランB)』は、経済(システム)が死ぬまで、増え続ける。……これが、数学的(マス)な帰結だ」
会議室は、死んだように静まり返った。
乾いた紙束をめくる音だけが、響く。
頭取たちは、「数字の人間」だ。
彼らは、円理の「ロジック(数学)」の冷たい「正しさ」を理解してしまった。
「……分かった。理屈(ロジック)は、分かった。……だが、無理だ」
北陸の頭取が、顔を覆った。
「この『青い面積(プランA)』を、どう国民に説明する? 『我々は腐っていました、だから今すぐ、この国に出血(コスト)を強います』と? ……我々は、その場で吊る(リンチ)されるぞ」
「その通りだ」
「株主が、黙っていない」
他の頭取たちも、恐怖に顔を歪める。
円理は、また「正しさ(ロジック)」だけを提示してしまった、と唇を噛んだ。
IQ二〇〇は、彼らの「恐怖」を、計算できていなかったのだ。
しかし今、ここにはもう一人いた。
えまが、円理の肩に手を置く。
「博士、ありがとう。……ここからは、私の『翻訳』の仕事よ」
えまは、絶望する頭取たちの前に立った。
「あなた方の言う通り。『青い面積(コスト)』を、そのまま見せれば、あなた方は『吊るされる』。……では、どうするか」
えまは、花が咲いたように笑った。
「答えは、簡単よ」
えまは、円理のPC(モニタ)に映った、「赤い面積」と「青い面積」の、その「差分(ギャップ)」を指差した。
その差分(ギャップ)は、「赤い面積」の九割以上を占める、途方もない「空白」だった。
「あなた方は、『痛み(青い面積)』を説明するんじゃない」
えまは、その「巨大な空白」を、力強く叩いた。
「ここよ」
「……?」
「これこそが、あなた方が『今、手術(プランA)』を選んだ場合に、この国が『手に入れる』ことのできる、未来の『面積(エリア)』じゃない!?」
頭取たちが、息を飲んだ。
「コスト(痛み)」のグラフが、「ベネフィット(利益)」のグラフに「翻訳」された瞬間だった。
「あなた方は、国民に痛み(コスト)を差し出すんじゃない」
えまは、勝利を確信した笑みを浮かべた。
「未来(ベネフィット)を買うのよ。この『青い面積(痛み)』という、バーゲンセール(格安)の『値段』でね。……『赤い面積(先送り)』という、天文学的な『定価』を払わされる前に」
えまは、若手頭取たちの目を、一人ひとり、射抜いた。
「これこそが私たちが今日お持ちした『商品=現実』。さあ、頭取(ボス)たち。……あなた方は、この『未来(面積)』、買いますか? 買いませんか?」
***
会議室の沈黙は、数分間続いた。
最初に顔を上げたのは、北陸の頭取だった。
彼の目には、もう「恐怖(疑念)」はなかった。
「算段」と「決意」の色が浮かんでいた。
「……買いましょう、錦垣さん。その『未来(面積)』」
彼は、続けた。
「ただし、条件がある」
「何です?」
「我々が『吊るされる』ことなく、この『手術(プランA)』を実行するための、『道具(ツール)』が必要だ」
頭取は、円理のPC(モニタ)を指差した。
「第一に、この『腐敗(赤い面積)』を、全ての銀行(プレイヤー)が『同時に』、『公正に』、『可視化(オープン)』させるための、『新しい会計(ルール)』」
「第二に、えぐり出した『腐敗(ロット)』を、我々の『本体(バンク)』から、安全に『切り離す』ための、『隔離病棟(アイソレーション・ルーム)』」
「その二つの『設計図(ブループリント)』を、あなたの『博士(ブレーン)』が描けるというなら」
頭取は、えまに向かって、深く頭を下げた。
「我々は、あなた方の『同志』になる」
円理は、えまの顔を見た。
えまは、円理がこの世で見たことがないほど、美しく、そして「危険な」笑顔で、頷いた。
「……そのご依頼、確かに承りました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます