コミュ障IQ200の未来博士×EQ200の人たらし女傑バディ“失われた50年”を消し去る
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第1話 二〇四〇年・落下
オゾンと埃の匂いが、雫間 円理(しずま えんり)の思考を飽和させていた。
冷却ファンの轟音が、地下シェルターの計算機室に反響している。もはや轟音だけが、この世界で唯一安定して機能する物理法則だった。
円理は、強化ガラスの嵌め殺しの窓に触れていた。指先に、微細な亀裂の感触が伝わる。ガラスは割れていない。だが、その向こう側、二〇四〇年の東京は、とうの昔に砕け散っていた。
灰色の空。灰色の大気。灰色になったビル群の残骸。太陽は、汚れたすりガラスを通した光のように、ただぼんやりとそこにあるだけだった。
「失われた五〇年」
誰が呼んだ言葉だったか。円理の記憶データベース(円理は自分の脳をそう呼称する)によれば、初出は二〇三〇年代後半のネットジャーナルだ。かつて「失われた一〇年」と呼ばれた時代があった。それが二〇年になり、三〇年になり、そして今、五〇年が確定した。
円理は窓から身を離し、メインコンソールに戻った。
彼女の席には、もう何年も前にフレームが歪んだ眼鏡が置かれている。彼女はそれをかけない。視力は矯正済みだ。だが、これは象徴だった。機能不全に陥った「知性」のメタファ。円理はそれを手に取り、冷たいレンズを指で拭った。
「計算は、終わった」
円理は誰に言うでもなく呟いた。
IQ二〇〇超。数学、経済学、計算機科学のトリプルドクター。それが雫間 円理のスペックだ。
そして彼女の出した結論は、シンプルだった。
この未来は、修復不可能(アンリペアラブル)である。
原因も特定済みだ。
一九九〇年代初頭。日本が、その後の半世紀を決定づける「制度」の選択を迫られた時代。
彼らは、三つの「箱」を間違えた。
ひとつは「緊縮」という名の空箱。
ひとつは「不良債権」という名の開かない箱。
ひとつは「少子化」という名の、誰も手を入れない箱。
三つの同時失敗(トリプル・フェイル)。
その累積誤差が、この二〇四〇年の灰色を生み出した。
「修正する」
円理はコンソールに向かい、最後のコマンドを打ち込む準備に入った。
彼女がこの一〇年を捧げたプロジェクト。「時間分岐理論(クロノ・ダイバージェンス・セオリー)」。それは机上の空論だった。実現に必要なエネルギーと計算資源は、この荒廃した未来において調達不可能とされていた。
円理自身が、たった一人でそれを可能にするまでは。
『警告。最終シーケンスの実行は、現行リソースの九八・七パーセントを不可逆的に消費します』
無機質な合成音声が、室内の轟音を突き破って響いた。ラボの管理AI、「シミュラクラ」だ。
「……待機」
円理は、指を止めた。声帯がうまく震えない。彼女の社会性は、IQとは反比例して劣化したままだ。AI相手ですら、円理の「対人」能力は脆弱だった。
『博士。時間遡行座標、一九九〇年四月二日・東京、固定済み。分岐理論の最終パラメータは収束しています。これ以上の待機は、エネルギー効率を低下させます』
「……非効率ではない。誤差の確認だ」
円理は、かすれた声で反論した。
『博士の介入によるワースト・パス――現状以下の未来分岐を生成する確率は、一四・五パーセントです。統計的有意性を鑑み、プロジェクトの即時凍結を推奨します』
これが、円理の最初の「葛藤」だった。対人ではなく、対論理。
円理は立ち上がり、再び窓辺へ歩いた。
外の灰色を見る。
一四・五パーセント。それは、この灰色の世界が、「まだマシだった」可能性を意味する。
「……シミュラクラ」
『はい』
「二〇四〇年の実質GDP、予測値を再計算」
『……計算中。ベースライン比、マイナス四・五パーセント。低下傾向に変動なし』
「出生率」
『合計特殊出生率、〇・八九。低下傾向に変動なし』
「……」
円理は目を閉じた。
このまま何もしなければ、確実な破滅が待っているだけだ。
「線」は、すでに確定的に下降している。
彼女は、この「線」を書き換えるために跳ぶのだ。
「あなたの計算は正しい。だが、前提が間違っている」
『前提? 博士の設計した分岐理論(モデル)に、論理的欠陥はありません』
「欠陥は、私にある」
円理はコンソールに戻った。
彼女が持ち込めるのは、彼女の「知識」だけだ。未来の機器は、時間跳躍のエネルギーに耐えられない。ルールは絶対だ。
円理の脳内には、二〇三〇年代までの経済学、社会科学、行動科学、そして市場設計の博士論文数千本が、インデックス化されて格納されている。
・HANK(異質的エージェント・ニューケインジアン・モデル)。
・マッチング理論。
・AI導入のJカーブ。
・関数データ解析。
「あなたの計算(シミュレーション)は、一人の人間――雫間 円理の『非合理性』をパラメータに組み込んでいない」
『……理解不能です。博士はIQ二〇〇の論理的エージェントとして定義されています』
「違う。私は、コミュ障の天才だ」
円理は、震える指でエンターキーを押した。
「私の『社会不適合性』こそが、この計算で最大の変数。そして、あなたには予測できない唯一の武器だ。……実行する」
『……承認。シーケンス開始。カウントダウン、六〇秒』
(会話進展:円理がAIの論理を覆し、実行を命令)
轟音が、さらに一段階、甲高くなった。
シェルター全体が振動し、天井から乾いた埃が舞い落ちる。
円理は、歪んだ眼鏡(象徴)を掴み、白衣のポケットにねじ込んだ。
五〇年。
あまりにも巨大な「面(コスト)」を、この国の人びとは支払わされた。
その支払いを、一九九〇年の「分岐点」で止める。
『二〇……一九……』
円理は、転送パッドの中央に立った。
目を閉じる。
思い出すのは、この荒廃した世界ではない。
彼女がデータアーカイブで見た、一九九〇年代の映像だ。
人々が笑っている。街に色彩がある。
非効率で、無駄が多く、感情的で、愚かで――そして、生きている世界。
『……五、四、三……』
眩い光が円理の網膜を焼いた。
肉体が原子レベルに分解され、情報に還元される感覚。
時間軸を遡行する凄まじいG(負荷)が、円理の意識を圧迫する。
(感覚:全身が引きちぎられるような圧迫感)
知識だけが残る。
数学、経済学、計算機科学。
「線」と「面」と「箱」の設計図。
それが雫間 円理の全てだった。
『……二、一……実行』
***
意識が再構築される。
最初に感じたのは、「匂い」だった。
オゾンと埃ではない。
何か、濃い。粘り気のある、生命の匂い。
土埃。排気ガス。そして、何かが腐敗する微かな酸っぱい匂い。
円理は目を開けた。
そこは、路地裏だった。
二〇四〇年のシェルターとは違う。空気が「重い」。
湿度、密度、成分。すべてが円理のデータベースの予測値と、致命的な誤差を生じている。
「……っ」
吐き気がした。
情報が多すぎる。
車の走行音。クラクション。どこか遠くで鳴る踏切の音。
人々の話し声。笑い声。怒鳴り声。
二〇四〇年には存在しなかった「雑踏」という名のノイズが、円理の鼓膜を直接殴りつけた。
円理は、その場にうずくまった。
IQ二〇〇の脳が、この圧倒的な「現実」の情報量(データ)の処理に追いつかない。
ここは、どこだ。
いや、座標は計算通りなはずだ。
一九九〇年四月二日。月曜日。
着弾地点は、彼女が後にメンターと仰ぐことになる老教授が在籍する大学の、計算機室の裏だ。
だが、計算と「体感」が、これほど乖離するとは。
円理は、濡れたコンクリートに手をついた。冷たい。
雨上がりか。
二〇四〇年の酸性雨とは違う、「水」の匂いがした。
「……(呼吸が、浅い)」
立ち上がらなければならない。
ここからが、ミッションの開始だ。
彼女は「幽霊(ゴースト)」だ。この時代に、彼女の戸籍(データ)は存在しない。
最初の接触(ファースト・コンタクト)は、計算機室の老教授。
彼はもう、この時代には、この大学で若き天才助手として名を馳せていたはず。
彼を介して、当時の計算資源(ワークステーション)を確保する。
それが設計図(プラン)だった。
円理は、震える足で立ち上がった。
白衣は、転送の過程で分子分解されている。
今の彼女の服装は、この時代に合わせてシミュレートされた、地味なワンピースだ。
ポケットを探る。
あの「歪んだ眼鏡」だけが、転送のバグか、あるいは円理の強い執着のせいか、そのままの形で残っていた。
円理は、それを掛けた。
(象徴:割れた眼鏡=未来の象徴、を過去で装着する)
視界が、意図的に歪む。
だが、その歪んだレンズを通して見た路地裏の向こう側は、信じられないほどの「光」に満ちていた。
ネオンサイン。
赤、青、黄色。
二〇四〇年では、エネルギーの浪費として真っ先に禁止された「装飾用電力」が、惜しげもなく夜空を照らしている。
「……うるさい。光が、うるさい」
円理は、この世界の「異物」だった。
彼女の知性は、この過剰な生命力(ノイズ)に満ちた一九九〇年と、まだ接続(リンク)できていない。
彼女は、壁に手をつきながら、ゆっくりと路地裏を抜けた。
表通りに出る。
人々が、円理の横を通り過ぎていく。
誰も、この女が五〇年後の未来から来た「設計図」そのものであることなど、知る由もない。
円理は、公衆電話ボックスを見つけた。
博物館でしか見たことのない遺物だ。
その横に設置された自動販売機で、新聞が売られている。
円理は、ポケットから一枚のコインを取り出した。
これは、二〇四〇年まで彼女が持っていた、唯一の「古い」資産。一九八九年発行の百円硬貨。この日のために、ずっと持っていたものだ。
硬貨を入れ、新聞を買う。
震える指で、一面の日付を確認した。
『一九九〇年(平成二年) 四月二日 月曜日』
計算通りだ。
第一フェーズ、完了。
円理は新聞を握りしめた。
インクの匂いが、鼻をついた。
ここからだ。
この「線」が、まだ無数に分岐(ダイバージェンス)する可能性を持っていた時代。
彼女の戦いが、今、始まった。
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