第12話 囁く霧

 夜が、白く濁っていた。


 霧が音を殺していた。

 葉を踏む音も、風のざわめきも、まるで絹の幕の向こうで遠くにあるようだ。

 ノクスはその異変を――森の鼓動の歪みとして感じ取った。


 (……これは、ただの自然現象じゃない。意図的に“音”を封じている。)


 《レナ、警戒しろ。この霧、何か仕掛けられている。》


 『了解。視界が最悪……。何も見えない。』


 レナは低く呟き、霧の中を滑るように進む。

 森の輪郭が溶け、木々の影がぼやけ、

 どこまでが地面で、どこからが空なのかすら曖昧になる。


 そんな中で、確かに**“何か”の気配**があった。

 人ではない、獣でもない。だが――

 その存在は、“声”ではなく“沈黙”で周囲を支配していた。


 ノクスは、霧の中に意識を広げる。

 音を散らし、反響を観測し、距離を測る。

 返ってきた“反響の歪み”が、敵の数を告げた。


 (五……いや、六。円を描くように包囲してる。)


 《レナ、左斜め後ろ――一体。今、木の根に足を掛けた。》


 レナの身体が音もなく動く。

 霧の中、鈍く光る刃が閃き、黒い影が血を散らして崩れた。

 霧が赤く染まり、しかしその血は地面に触れた瞬間、音もなく消えた。


 『……消えた?』


 《幻術だ。彼らは霧を媒介にして“存在”を偽装している。》


 レナは舌打ちした。

 その間にも、右から“声なき斬撃”が飛ぶ。

 ノクスが瞬時に“音の膜”を張り、警鐘を鳴らす。


 ――キィン、と鋭い音が響いた。


 敵の刃が霧を裂く。レナは紙一重でかわし、反撃。

 しかし、その刃はまた霧に溶けるように消えた。


 (……くそ、これでは手が出せない。)


 《音を奪われたなら、逆に“音を与えよう”。》


 ノクスは意識を拡散させ、森のすべての“音”を掴んだ。

 枝の軋み、虫の羽音、獣の遠吠え。

 それらを微妙にずらして反響させ、霧の中に偽りの空間を作る。


 ――音の錯覚。


 霧の中で、敵の耳が混乱した。

 あちこちで足音が響き、仲間の声が反響する。

 「そっちか?」「いや、違う――!」

 叫び声が重なり、幻の敵を追う魔族たちの影がぶつかり合う。


 《レナ、今だ。南の根の下、ひときわ濃い霧の中心に“主”がいる。》


 レナは短剣を握り、霧を裂くように駆けた。

 白い世界を突き抜け、闇を掴む。

 霧の核で、魔族の指揮官が驚愕の目を見開いた。


 「――喋る……のか、この森がッ!」


 次の瞬間、レナの剣がその首筋を斬り裂いた。

 血が噴き、霧が震えた。

 それを合図に、他の魔族たちが慌ただしく撤退を始める。


 (撤退……? いや、逃げたんじゃない。俺たちを“確認”したんだ。)


 ノクスは静かに森を聴いた。

 残された足跡、切り裂かれた木々、そして――

 霧の向こうに消える直前の、魔族の囁き。


 > 「この森……喋るのか。」


 風が止み、霧が薄れていく。

 レナは剣を拭いながら、息を整えた。


 「“喋る森”か……。妙なあだ名がつきそうね。」


 《……それで済めばいいがな。》


 ノクスの声は低かった。

 霧の残り香がまだ漂う。

 その中に、確かに――別の意志の音が潜んでいた。


 (……監視されている。次は、もっと大きい波が来る。)


 夜明け前の森が、薄青く染まりはじめる。

 霧の彼方、黒い影がひとり、こちらを見つめていた。


 角のある女――彼女の瞳が、ノクスの“音”を捉えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る