第3話 相合傘と桃の匂い

 五月の中間考査が終わってから一週間が経った日の放課後。特に用事もなかったのでそのまま帰宅しようと教室を出て下駄箱まで向かうと呆然とした様子の松宮さんがいた。ついさっき教室でまたねって言ったばっかりだったところだ。

 松宮さんとは隣の席ということもあって話す機会も多く、昼食も一緒にすることもあって、これまでの高校生活を鑑みればかなり仲の良い人となっていた。それこそ私から話しかけることができるくらいには。


「松宮さんどうしたの?」

「恵那ちゃーん。さっきまでは降ってなかったのになぁ」


 松宮さんはため息をつきながら昇降口のほうを遠い目で見ているので私も同じように視線を移す。

 空は鈍色の雲に覆われて雨が降り始めていた。


「雨降ってるんだ。お昼ぐらいは晴れてた……よね?」

「うん。天気予報だと今日は一日晴れって言ってたのになぁ」


 浦ヶ丘高校の帰りのショートホームルームまでが滞りなく終わってすぐに駅まで歩いて帰ると下りの急行列車にちょうど間に合う。おそらく松宮さんはそれに乗って帰るつもりだったのだろう。

 松宮さんは唸りながら携帯をいじっている。携帯からちらっと見えたのは私も使っている天気のアプリ。


「雨やまなさそうだよねー」

「松宮さん」

「ん?」

「実はこれを持ってたり」


 私は鞄の中から折り畳み傘を出した。松宮さんは宝箱の中身を覗くような視線をそれに浴びせている。


「恵那ちゃん。それはまさか……」

「たぶんそのまさかだと思うんだけど、傘持ってます」

「女神か……」

「女神って、あははっ大袈裟すぎない?」

「笑顔が最高に可愛い恵那ちゃんっ。一緒に傘入らせてもらってもいいですか!」

「ひどいお世辞だぁ。だめって言ったら?」


 私はつい面白くて松宮さんをからかってみた。私よりも松宮さんのほうが全然可愛いし、そんな松宮さんへのちょっとした仕返しみたいなものだった。

 すると松宮さんは表情をすっと引き締めるように変えて口を開く。


「お世辞?いやいや、恵那ちゃんはホントに可愛いよ。いや可愛いってより美人のほうが表現としては適切かな。嘘じゃないことを教えてあげる。まずそのスラっとしたスタイル。初めて見たときモデルさんかと思ったよ。そのスタイルにバッチリ合ってる黒髪ロング。こんなじめじめした日なのに、なんでそんなにサラサラなの!?それにパッチリとした二重に綺麗な鼻筋、あとーー」

「もういい!もういいから!傘ね!傘!一緒に帰ろう?ね?」


 仕返しのつもりがなにこれは。予兆もなくそれは突然やってきて私を褒める言葉の圧で殺そうとしてきた。これが褒め殺しってやつなのだろうか。

 あまりにも早口で捲し立てるものだから聞いているこっちが目をぐるぐると回してしまう。とにかく整理すると松宮さんが言いたいことは私は美人ってことだけだった。

 相手に自分の気持ちを伝えたいというだけであんなに熱量をもって喋れるもの?というかあのまま止めなかったらどこまでいったの?そこまで私の容姿って良かったっけ?

 いろんな疑問が私の頭に浮かんできて頭は冷静になろうとしてるのに、顔は徐々に熱を帯びていく。


「やったっ。じゃあ早速ちょっと失礼してもいいかな」

「ん?うん」


 松宮さんは私の手から折り畳み傘を拝借してから靴に履き替える。そして傘を開いて軽く左手を差し出してくる。ひょっとして手を繋いだまま行くのだろうか。だとしたら顔の熱は引きそうになさそうだった。


「恵那ちゃんを駅までエスコートさせていただきます」

「エスコート。……じゃあ駅までお願いしようかな」


 私は靴に履き替えると差し出された手をそっと取った。松宮さんの手は私よりも少し小さくて暖かい。

 誰かと手を繋ぐなんていつぶりだろう。当然手を繋いでるわけだから自然と松宮さんとの距離が近くなる。松宮さんの匂いがする。すっきりとした桃のような匂いだ。移動教室なんかで一緒にいるとよく香ってくる良い匂いだった。


「じゃあもうちょっと」

「えっえっ」


 繋がれた手を松宮さんがゆっくりと引くことで、もう十分に近かった私たちの距離がさらに接近する。肩が密着して松宮さんの匂いはさらに強まって桃の花が間近にあるみたい。ぱっちりとした二重に少し垂れた丸い目。ぷっくりとした頬に潤いのあるピンク色の唇。

 一気に手を引かれていれば驚きとかで脳が処理不能に陥っていたかもしれない。だけど松宮さんは優しく誘惑するように手を引いてくれたから胸の鼓動も徐々に高鳴っていって、元々熱を帯びていた顔からは蒸気が出てしまっていそうだ。


「流石に折り畳みの相合傘だからさ、くっつかないと濡れちゃうでしょ?恵那ちゃんが風邪でも引いたら大変」

「いや、えっとあの」

「どうかした?」

「すごく……良い匂い…………あっ」


 待って。今なんて言った私。ねえ。


「匂い?」

「そのすごいあのなんていうの。あの甘い匂い、フルーツみたいな?それがいいなって」

「いいよね。この匂い。じゃあ早速行こう?」

「うん……」


 松宮さんは私の手を優しく握って歩き出す。私もそれに連れられるように足を踏み出した。

 思ったことをそのまま口にしたなんて生まれて初めてのことだった。だって仕方ない。こんな気分になったことなんてない。それなら動揺して自分でも分からない行動をしてしまっても仕方ない……はず。

 ……待って。こんな気分って、何。

 浮ついて、心臓がうるさくて、頭がうまく回らないのに五感は別人みたいに過敏になってる。

 正直言って心当たりがないわけじゃない。絵本でしか見たことがない禁断の果実をその目で見つけたけれど、それが本物なのかは食べてみるまでは分からない。ただ分かるのは、食べてしまったらもう元に戻ることはできないということだけだった。

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