第8話 怒りの炎

 夕暮れが町を赤く染めていた。

 アシェルは市場近くの広場に立ち尽くし、行き交う人々をぼんやりと眺めていた。

 少女の笑顔が胸から離れず、思わず自分の胸を押さえる。


「……俺は……どうすればいい……」


 ギルバートの最期の言葉が脳裏に蘇る。

 守護者になれ、と言われているようで、しかし心の奥底で恐怖と迷いが渦巻いていた。


 そのとき――。


 ギィィィ……

 耳障りな音と共に、空気が変わった。


 路地裏から黒い瘴気が溢れ出し、広場全体が冷たい闇に包まれていく。

 人々がざわめき、振り返った瞬間、瘴気の中心から醜悪な影が現れた。


 それは、ねじれた人型に獣の牙を持つ災魔。

 血に飢えた咆哮を上げ、近くの人々に飛びかかる。


「きゃああああああっ!!」


 悲鳴が広場を覆い、人々が四散して逃げ惑う。


「災魔……!」


 アシェルの心臓が跳ね上がる。

 あの日、村を滅ぼした憎き存在が、再び目の前に現れた。


 母とアリアの悲鳴が耳に蘇る。

 全身が震え、呼吸が荒くなる。


 ――逃げろ、と心が叫ぶ。

 ――戦え、ともう一つの心が叫ぶ。


「……もう……二度と……!」


 アシェルはその場を駆け出した。

 災魔に向かって、ただがむしゃらに。


 逃げ遅れた少女が災魔の目の前で転んだ。

 恐怖で声も出せず、ただ震えている。


「アリアッ!!」


 アシェルは叫び、身体が勝手に少女を庇うように飛び込む。

 災魔の爪が頬をかすめ、血が散った。


 素手で必死に抵抗するが、災魔の膂力は圧倒的。

 アシェルは容易く地面に叩きつけられ、肺の空気が一気に抜けた。


「ぐっ……はぁ……っ!」


 全身が痛みで悲鳴を上げ、立ち上がれない。

 それでも必死に少女を守ろうと腕を伸ばす。


「……俺は……また……何も……!」


 視界が赤く染まる。

 妹を失ったあの日と同じ光景が、目の前で繰り返されようとしていた。


「災魔ぁああああああああっ!!」


 怒りと憎悪が爆発し、アシェルは無謀にも再び立ち上がり、災魔に体当たりする。

 だが力は及ばず、逆に災魔の一撃をまともに受け、石畳に叩きつけられる。


 血が口から溢れ、視界が滲む。


 その時――。


「封印術式・陸鎖結界!」


 低く響く声と共に、広場の地面一帯に複雑な紋様が浮かび上がる。

 災魔の足元から無数の光の鎖が伸び、瞬時にその身体を絡め取った。


「ギィィィィィッ!?!?」


 災魔が断末魔の叫びを上げ、身をよじる。

 鎖がさらに強く締まり、動きを封じる。


 広場の端から一人の男が現れた。

 黒衣に身を包み、背には数本の符と短剣を携えている。

 長い黒髪を一つに結び、その瞳には強い意志が宿っていた。


「災魔……守護者がいない間は、俺たちが封じるしかない……!」


 男は手を翳し、最終術式を唱える。


「封印完了――終熄の器へ!」


 災魔は黒い霧となって圧縮され、小さな封印器へと吸い込まれていった。


「……助かった……?」


 アシェルは荒い息を吐きながら、少女を抱き寄せる。

 少女は泣きじゃくりながらも、必死に彼にしがみついていた。


 黒衣の男が近づき、鋭い視線を向ける。


「お前……あの化け物に素手で挑んだのか。命知らずな……」


 アシェルは答えられず、ただ睨み返す。


「俺はゼイン。法術師団に属する者だ。

 俺たちは守護者がいない町で、災魔を封印するのが役目だ。」


 ゼインは広場を見回し、安堵の息を吐く。


「だが……あれは一時しのぎに過ぎない。

 封印しただけで、完全には滅ぼせていない。

 この町は……近いうちにまた狙われるだろう。」


 その言葉が、アシェルの胸をえぐる。


「封印……? つまり、災魔は生きているまま……?」


 母と妹を奪った怪物が、この世から消えていない。

 それどころか、いつかまた現れる――。


「そんな……ふざけるな……!」


 アシェルは血まみれのまま立ち上がり、ゼインに叫んだ。


「滅ぼさなきゃ意味がないだろ!!

 全部……全部消し去らなきゃ……!!」


 ゼインは目を細め、静かに告げた。


「それができるのは……守護者だけだ。」


 その一言が、アシェルの胸に深く突き刺さる。


 怒りと憎悪が渦巻き、アシェルの視界が赤く染まった。

 拳を握りしめ、歯を食いしばる。


「……俺が……滅ぼす……」


 夜空を裂くように鐘の音が響き、町中に避難を促す声が広がる。


 アシェルは少女を母親に返すと、ふらつく足取りで立ち上がった。

 その目には、炎のような憎しみが宿っていた。


「災魔は……一匹残らず……俺が消してやる……」


 その言葉と目に宿していたの復讐の誓いだった。

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