雨夜の逃避行

 倉庫の重い鉄のドアが、背後でぎしりと不吉な音を立てて閉まった。

冷え切った夜気が一気に肺に入ってきて、さっきまで鼻の奥にずっと残っていた火薬と油、それに血が混ざった嫌な匂いを、やっと薄めてくれた。


 肩の傷が焼けるように熱くて、心臓の音に合わせてドクドクと痛む。

雨を吸ったコートは鉛みたいに重くて、助手席のシートに体を預けるだけで、震える吐息が勝手に漏れ出した。

漏れ出した吐息が白く濁り、戦いの余韻がゆっくりと静まっていく。


 まぶたを閉じると、あのボスの嫌な笑い顔が浮かんでくる。

舞がいなかったという冷たい現実に、胸が締め付けられた。

完璧に動きを読まれ、逆に罠にハメられた。

あそこまで鮮やかに出し抜かれるとは、我ながら甘すぎたとしか言いようがない。

助けてくれた笹原さんには、後でちゃんとお礼を言わなきゃ……。


 口の中には、鉄っぽい血の味が広がっている。

どうしても慣れない生臭い匂いがしつこく舌に残って、嫌な敗北感と一緒に、いつまでも消えてくれなかった。


バトルの熱が冷め、夜の静寂が車内に満ちていく感覚を大切にしながら描写をアップグレードしました。凛の隠しきれない優しさと、綾のストイックな内面をより深く掘り下げています。


 凛が運転席の鍵を回した。

エンジンの低い振動が車体の底から這うように伝わり、重い腰を上げたワイパーが一度だけフロントガラスを拭う。窓を叩く雨粒は長く尾を引き、街灯の光を呑み込んで、ゆがんだ色彩の帯へと姿を変えて過ぎ去っていく。


「綾、血が止まってないよ。……私の事務所で手当てしよう。千景のドローンが今、画像を解析してる。わかり次第連絡が来るはずだ。あいつも、画面越しに君のことをすごく心配してたよ」


 凛の声は努めていつも通りを装っていた。

けれど、ハンドルを握る彼女の横顔、その目尻に刻まれたわずかな陰影だけが、痛切に私を案じていることを物語っている。


 今回、なぜこれほど正確に私の動きが読まれていたのか?  

千景なら、ネットワークや通信のハッキングを真っ先に疑うだろう。

実際、私たちは何度も端末で情報をやり取りしていたし、そこから漏れる可能性は十分にある。

だとしたら、向こうには千景さえも上回る「本物のプロ」がいることになる。

……けれど、たぶん問題はそこじゃない。


 もしネットワークの問題だけなら、千景と凛を全面的に信頼して、私は彼女たちの指示通りに動けばいいだけだ。だが、この胸のざわつきはもっと別の、根深い場所から来ている。


 まるで、精緻な積み将棋をされているかのように、私の二手、三手先が完全に封じられていた。

自分の意志で動いているはずなのに、気づけば敵の指し手の通りに誘導されている。

逃げ道だと思って飛び込んだ先さえ、あらかじめ用意された檻だったような感覚。

得体の知れない「嫌な感じ」が、冷たい指先でなぞるように私の首筋を撫でた。

見えない盤上で、私はまだ踊らされているのだろうか。

偶然じゃない。あいつらは、私の癖さえも計算に入れているのか……?

 

 ふと視線を落とすと、凛の革ジャンの肩が雨に濡れて鈍く光っていた。

普段はさっぱりとした関係を好む連中ばかりだというのに、どうして私の周囲の人たちはこうも私に甘いのだろうか。

その過保護なまでの温かさに、胸の奥がわずかに疼く。


 助手席に置かれたタブレットが不意に起動した。

青白い待機画面が、硝煙の匂いがわずかに残る狭い車内を、静かに、そして冷たく照らし出した。


「今日は、私の事務所に行くよ。あんたの事務所、何か仕掛けられてるかもしれないし。そっちは今、千景が調査してくれてるみたいだから」


 凛はそう言うと、滑らせていた車をゆっくりと道路の路肩に寄せた。

ハザードランプの規則正しいカチカチという音が、狭い車内に響き渡る。


 ふと肩の傷口が開いたのか、包帯がじわっと湿る感触がした。

……その生々しい感覚のせいで、また嫌な記憶が顔を出しそうになる。

十年前の、あの冷たくて暗い場所の空気が肌をなでた気がしたけれど、私は小さく息を吐いてそれを振り払った。


「……っ……はぁ、……っ」


 私は必死に、深く、何度も深呼吸を繰り返す。

凛の声を聞き、目の前にあるダッシュボードの質感を凝視た。


 凛はまだ、エンジンを切らないまま、コンソールの下から救急袋を引っ張り出した。

彼女は私の動揺に気づいているはずなのに、あえて深くは追求してこない。

ただ、消毒綿の袋を破る乾いた音だけが車内に響く。

ツンとした、鼻を突くアルコールの匂いが立ち込めた。


「しみるよ」


 短くそう告げて、凛が私の肩へ手を伸ばす。

子供扱いはやめてほしい。

喉まで出かかったその言葉は、彼女の真剣な眼差しに押されて、結局飲み込むことになった。


「わかってる」


 不満げに返した言葉が、途中で途切れた。

傷口を消毒綿がなぞった瞬間、――つぅっ、と喉の奥が引きつる。

一瞬、脳まで突き抜けるような鋭い熱を感じた。

指先までビリビリとしびれるような衝撃に、私は思わず膝の上の拳を強く握りしめる。

視界がチカチカと明滅するのを必死にこらえ、奥歯を強く噛み締めた。

ガーゼを当て、手際よく布を回して固定していく。

凛の手つきは少し乱暴にも思えたけれど、その実まったく無駄がない。


「よし。無理に肩を上げなければ、動きは最小限で済むはずだよ」


「ありがとう。……だいぶ楽になった。運がいいことに、傷だけで骨には異常なさそうだしね」


「骨なんか折ったら、向こうさんも手間がかかるからでしょ。痛めつけるにしても、あんたを『商品』として扱うつもりなら、そんな無粋な真似はしないだろうし」


 凛の言葉に、私は黙って頷いた。

確かにその通りだ。奴らは私を商品として、あるいは性のはけ口として欲しがっていた。

だから、商品価値を下げるような怪我はさせなかったのだろう。

……これが「運がよかった」と言えるのかどうか、少しだけ複雑な気分になったけれど。


 凛が再びエンジンを回し、ライトを低く点ける。フロントガラスを流れる雨の線を、ワイパーが規則正しくかき取っていく。

バックミラーに映る倉庫の影が、どんどん遠ざかり、やがて夜の闇に溶けて消えた。


「街中は奴らの目も多いからね。うろつけば嗅ぎ回られるし、かといって警戒しすぎても目立っちゃう。難しいところだよ。全く」


 凛がアクセルを踏む。タイヤが道路の水膜を切って、小さく跳ねる振動が伝わってきた。

車は狭い路地を抜け、大通りへと出る。雨に濡れた看板のネオンが、鮮やかな光の帯になって後ろへと流れていった。


 ふと、現場に警察が来ていたのに私の事情聴取がなかったことを思い出した。

……本当によかったのかな。多分マズいんだろうけど、今さら戻るわけにもいかない。

玲奈に全部任せておけば、なんとかしてくれるはず。


 信号が赤に変わる。

停車の反動で肩が少しずれたとき、凛が心配そうにこちらを覗き込んできた。


「はい、水」


 急に渡されたペットボトルのキャップを開け、一口含む。喉を通る冷たさで、やっと意識がはっきりと目を覚ました。


 ふとサイドミラーに目をやると、一台の黒い軽自動車が映り込んでいた。

ライトの上げ下げが雑なうえに、車間距離が異常に近い。


「後ろ、追手かな?」私の言葉に、車内の空気がピリリと引き締まる。


「まずは様子を見てみて。怪しい動きはせずに、少し距離を置いてみて」


 私が凛にそう伝えると、彼女は小さく頷いて、わざとゆっくり車を発進させた。

交差点の手前で他車を一台、二台と間に挟み込み、相手との距離を測る。

再び信号が赤に変わった。停止線の手前で止まると、ルームミラーの中で軽自動車が少し慌てたようにブレーキを踏むのが見えた。


 多分……黒だね。

私の指先は、無意識にジャケットの内ポケットを探っていた。

いつもの小さな蜂蜜の袋をつまみ出す。透明な金色が、袋の端でぷくりと動いた。  

切り口を歯で開けて、少しだけ舌の上に落とす。

ゆっくりと喉を滑り落ちる濃密な甘さ。

そのおかげで、さっきまで尖っていた世界の輪郭が、ほんの少しだけ緩んでいくのがわかった。


「ここを左。高架の下を抜けて一本先に行って」私は頭の中に描いた地図を、凛に示す。


「了解」


 ハンドルを切って入り込んだ高架下は、雨音が一段と深く響き、路面も暗い。 

コンクリートの柱が規則正しく後ろへ流れていく。

ミラーに目を戻すと、柱の影で相手のヘッドライトが滲み、距離感がぼやけて見えた。


かなくていいよ、今のところは」


 私は蜂蜜の残りを吸いながら、低く言った。

どうせ撒いたところで、奴らは街の至る所からうじゃうじゃと湧き出してくるのだ。


「了解。……付き合うよ」


 凛は短く答え、アクセルを一定に保ったまま、夜の闇へと車を滑らせた。

スムーズに車を流していく。実際、後ろの車の挙動は怪しいけれど、あるいは単なる「名古屋走り」の荒い運転なだけかもしれない。

気を張りすぎるのも良くないな、と思いながら、私は口の中に残る蜂蜜の余韻を楽しみつつ、のんびりと雨に濡れた街を眺めていた。


 少し回り道を選んで走ったが、黒い軽自動車はまだしつこくついてきていた。

気づかれていないとでも思っているのなら、ずいぶんとおめでたい尾行者だ。

そろそろ、お引き取り願おう。


「この先、ひとつだけ明るい道を使うよ」


「角でミラーを使うの?」


 凛は即座に私の意図を察し、滑らかにギアを変えながら返してきた。


「うん。反射で抜く。凛ならできるでしょ」


「全く……人使いが荒いんだから」


 凛が不敵に口角を上げる。  

角にある大きなガラス張りの店舗が見えてくる。私はその窓を巨大な鏡に見立て、後方の光を拾った。

黒い軽自動車は、まだ一定の距離を保って背後に張り付いている。

複雑な路地に入っても、ただ私の後ろを必死に追いかけてくるだけの、芸のない走り方だ。


「直線で勝負してこないのは、助かるよ」余裕たっぷりに茶化す凛に、私は素っ気なく返した。


「勝負じゃないよ。ストーカーにはお引き取り願おうと思ってるだけ」


「了解。じゃあ、ちょっと揺れるよ!」


 凛の声と同時に、タイヤが激しく路面を鳴らした。

交差点に差し掛かる直前、凛は一気にサイドブレーキを引き、鮮やかなハンドル捌きで車体をスピンさせる。

雨に濡れたアスファルトの上で、私たちの車は円を描くように180度反転して、そのまま、追走していた軽自動車と正面から向き合う形になった。


「食らいなさい!」


 凛がパッとヘッドライトをハイビームに切り替える。

豪雨を切り裂く強烈な二条の光が、真正面から追手のフロントガラスを真っ白に焼き抜いた。

不意を突かれた軽自動車は、あまりの眩しさに耐えかねたのか、慌てて右へハンドルを切って派手に逸れていった。


 そのままアクセルを踏み込み、私たちは相手を置き去りにして加速する。

ここで派手にぶつかられでもしたら、また玲奈たちの仕事が増えてしまうところだった。

サイドミラーから完全に不審な光が消えたのを確かめて、私は背もたれに体を預け、やっと深く息を吐いた。


 信号が赤に変わる。雨に濡れた横断歩道の白線が、街灯を反射して鮮やかに光っている。

停車の間、凛が手元のスマホを一瞬だけ確認して、私の方へと差し出してきた。


「玲奈からだよ。綾に送ったけど気づかないから、こっちに来た。……倉庫の押収品はサイバー班が洗ってるけど、ボスは動きが速くて行方不明。それと、あんたの名刺が安田さんの財布に入ってた件、やっぱり上司が突いてきてうるさいみたいだよ」


 凛がスマホの画面をちらりと見て、内容をかいつまんで教えてくれる。


「玲奈、上もあんたが絡んでると見てるって。『私が来た時には、争っていた連中は退散していた』って報告しておいたけど、ばれたら減俸になっちゃうわ♡だってさ」


「玲奈は、全然懲りてないなぁ……」


「なんて? すぐ渡したから最後までは読んでないんだ」


「わき見運転は危険だからね。感心、感心」


 私は玲奈からのメッセージの続きを凛に伝えてあげた。

ビルの手前で車が一旦止まる。凛がライトを落とし、駐車場の入り口を確認した。

金属の柵が半分だけ開いており、その先に地下へと続くスロープが伸びている。


「到着したな」


「うん」


 ここは玲奈も暮らしているマンションで、なかなかの高級物件だ。

金山駅からすぐ近く、交通の便も良ければ飲食店にも困らない、いい街だと思う。

傾斜を降りると、タイヤが濡れたコンクリートを噛んで低い音を立てる。

壁に書かれた白い番号が、一定の間隔で後ろへ過ぎていった。


 ここに来て、ようやく心身の緊張が解けていくのを感じた。


 凛は慣れた手つきで、屋内駐車場の指定された場所に車を止めてくれた。

彼女がエンジンを切ると、不意に深い静寂が車内を包み込む。

地下なのに、どこか遠くで雨の音が響いているような気がした。騒がしい外の世界が、突然遠くなっていく感覚を感じた。

凛がシートに軽くもたれ、一度だけ隣の私を見た。


「まずは休もう。情報は明日だ」


「うん、そうだね」


 素直に返事をして助手席のドアを開ける。車を降りてゆっくりと腕を上げ、伸びをした。

少しだけ傷に痛みが走ったけれど、それがかえって「生きている」感覚を思い出させてくれて、今はそのイタ気持ちいい余韻が心地よかった。


「綾」


 不意に名前を呼ばれ、私は振り返った。


「なに?」


「生きて帰ってきた。……それで十分だよ」


 凛は、見たこともないほど心配そうな顔で私を見つめていた。


「……そうだね」


 みんなのおかげで無事に生還できた。そのことに、心の中で深く感謝する。

エレベーターホールへと続くドアに手をかける。

外の空気は冷たいはずなのに、頬に触れる風はどこか柔らかかった。

ネオンの色はもう、ここまでは届かない。


 私たちは並んで、エレベーターの前へと歩き出した。

上に灯る階数表示が、ゆっくりと数字を変えていく。

凛の部屋の前に辿り着いたとき、私は今度こそ、深く安堵の息を吐いた。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

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