第20話 悲劇の女優と、具現化する責任


 息が、できない。


 俺の肺は、この部屋を支配する、重く、冷たく、そして粘り気のある沈黙によって、完全にその機能を奪われていた。まるで、水深千メートルの海の底に、重りをつけられて沈められたかのように。鼓膜を圧迫する水圧にも似た静寂の中で、俺はただ、罪人として、畳の上に無様にひれ伏すことしかできなかった。


 目の前には、四人の親たちが、まるで地獄の裁判官のように、微動だにせず鎮座している。父の、失望に染まった諦観の眼差し。美穂の父の、燃えるような怒りを宿した、鋭い視線。そして、俺の母と美穂の母、二人の母親の、軽蔑と戸惑いが入り混じった、氷のように冷たい眼。その六つの瞳が織りなす見えざる檻の中で、俺の精神は、もはや原形を留めないほどに、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。右手首に食い込む手錠の冷たさだけが、この悪夢が紛れもない現実であることを、俺に執拗に教え続けている。


 どれくらいの時間が、その拷問のような沈黙の中で過ぎ去ったのだろうか。一分か、十分か、あるいは永遠か。やがて、その息の詰まる静寂を、最初に破ったのは、俺自身の父だった。


「……直人」


 その声は、俺が今まで聞いた父の声の中で、最も低く、そして最も感情を削ぎ落とした、無機質な響きを帯びていた。それは、息子に向ける声ではなかった。自らが作り出してしまった、出来損ないの不良品を、処分する前に、その性能を確認するような、冷え冷えとした事務的な声だった。


「何か、言うことはないのか。坂本さんご一家に対して。そして、我々に対して」


 言えと、言うのか。この状況で、俺に何を。謝罪か?言い訳か?それとも、潔く全ての罪を認めることか?だが、俺の喉は、まるで鉛で固められたかのように、ぴくりとも動かない。言葉が、出てこない。いや、そもそも、発すべき言葉を、俺は何一つ持ち合わせていなかった。俺の、空っぽになった頭蓋骨の内側で、ただ、意味のない、甲高い耳鳴りだけが、狂ったように鳴り響いていた。


 俺が、石像のように固まったまま、何の反応も示せないでいると、俺の隣に、すっと、誰かが静かに膝をつく気配がした。美穂だった。彼女は、俺と同じように畳の上に正座すると、その背筋を、凛と、しかし、か弱さを感じさせる絶妙な角度で伸ばした。そして、絞り出すような、震える声で、その完璧な芝居の、第一声を発した。


「……お父様、お母様。そして、おじさま、おばさま。この度は、私たちの、不始末により、皆様にご心労と、ご迷惑をおかけいたしましたこと、心の底より、お詫び申し上げます。……誠に、申し訳ございません」


 その声は、非の打ち所のない、完璧な謝罪の言葉だった。だが、その主語は、巧妙に、「私」ではなく、「私たち」にすり替えられていた。まるで、俺もまた、彼女と共に、この事態を深く反省している共犯者であるかのように。その、あまりにも狡猾な言葉の罠に、俺は気づくことすらできない。


 美穂は、その華奢な肩を、わざとらしく、微かに震わせ始めた。そして、まるでこらえきれないとでもいうように、その美しい顔を、両手で覆った。指の隙間から、嗚咽とも、すすり泣きともつかない、か細く、痛々しい声が漏れ始める。それは、聞く者の同情を、これ以上ないほどに掻き立てる、完璧に計算され尽くした、悲劇のヒロインの慟哭だった。


 やがて、彼女は、顔を覆っていた手を、ゆっくりと下ろした。その白い頬には、大粒の、しかし、決して化粧を崩すことのない、きらきらと輝く涙の筋が、二本、三本と、美しく描かれていた。涙に濡れたその切れ長の瞳は、潤んだ光をたたえ、見る者の心を締め付けるほどの、圧倒的な悲壮感を漂わせている。


 そして彼女は、この舞台のクライマックスを告げる、最後の、そして最強の切り札を、震える声で、しかし、そこにいる全ての者の鼓膜を、そして魂を、確実に貫く明瞭さで、告げた。


「……申し訳、ございません。私の、このお腹の中に……相沢家の血を引く、新しい命が、おりますの」


 その言葉は、まるで時を止める魔法のように、部屋の空気を、一瞬にして凍りつかせた。

 妊娠。

 その、あまりにも重く、そして絶対的な響きを持った四文字の単語が、俺の、完全に機能を停止していた脳天に、巨大な鉄槌のように、振り下ろされた。


 嘘だ。何かの、間違いだ。

 俺の思考が、最後の抵抗を試みる。だが、脳裏に、ここ最近の、彼女の不可解な行動が、パズルのピースがはまるように、次々と蘇ってきた。カフェラテの匂いに顔をしかめた、あの日のこと。やけに眠そうにしていた、講義中のこと。そして、何よりも、あれほど正確だったはずの、月のものが……。


 全てのピースが、一つの、そして唯一の、絶望的な答えを指し示していた。

 俺は、気づいていなかった。いや、気づこうとしていなかったのだ。目の前で起こっていた、あまりにも明白な現実の兆候から、ただひたすらに、目を逸らし続けていただけなのだ。


 その瞬間、俺の中で、何かが、完全に、そして修復不可能なほどに、砕け散った。


 指輪。そうだ、俺は指輪を渡した。あれで、全ては解決するはずだった。俺の罪は償われ、俺たちの未来は約束されるはずだった。だが、違った。全ては、無意味だったのだ。俺が、矮小な自己保身のために、必死で用意したあの物質的な代償など、彼女が手にした、この「生命」という、あまりにも絶対的な事実の前では、何の価値も持たない、ただのがらくたに過ぎなかった。

 ロンドン旅行。そうだ、俺は旅行に逃げ込もうとしていた。学生最後の自由という名の、甘美なモラトリアム。だが、それも、全ては幻想だった。俺が、無責任な夢に浮かれている間、現実は、俺の知らないところで、決して覆すことのできない、重い、重い形となって、具現化していたのだ。


 逃れようとしていた、「責任」。

 その、曖昧で、実体のなかったはずの概念が、今、目の前で、涙を流す美穂と、その下腹部に宿るという、まだ見ぬ命の姿となって、俺の喉元に、その冷たい刃を、寸分の隙間もなく、突きつけていた。


 絶望と、後悔。その二つの感情が、もはや区別のつかない、どす黒い巨大な塊となって、俺の身体を、内側から完全に喰い破った。俺は、もはや人間ではなかった。ただの、空っぽの、抜け殻だった。


「まあ……!美穂……!」

 沈黙を破ったのは、美穂の母の、悲鳴にも似た声だった。彼女は、娘の元へと駆け寄ると、その震える肩を、強く、強く抱きしめた。

「なんてこと……。なんて、可哀想に……」


 その光景が、引き金だった。

「……恥を知れッ!!」

 俺の父が、生まれて初めて聞くような、獣の咆哮にも似た、低く、しかし腹の底から絞り出したような怒号を発した。その声は、空気そのものを震わせ、俺の、空っぽになった身体を、激しく揺さぶった。


 そして、これまで静かに沈黙を守っていた、美穂の父が、ゆっくりと、しかし、地響きのような重みを伴って、口を開いた。その視線は、俺ではなく、俺の父へと、真っ直ぐに、そして鋭く突き刺さっていた。


「相沢さん。……これは、どう、落とし前をつけてくださる、おつもりかな」


 その言葉は、もはや個人的な怒りや悲しみを通り越した、家と家との間に発生した、あまりにも重大な不祥事を、いかにして処理するのかを問う、冷徹な、ビジネスの交渉にも似た響きを帯びていた。

 俺は、その、あまりにも重い言葉の応酬を、まるで遠い異国の出来事のように、ただ、呆然と聞いていることしかできなかった。俺という存在は、もはや、俺自身の意志とは何の関係もない場所で、ただ、処理されるべき「問題」として、俎上に載せられたのだ。

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