第13話 絶対的な事実と、支配への進化
十二月の空気は澄み切ったガラスのように、街の光を鋭く反射していた。ショーウィンドウにはクリスマスツリーの電飾がまばゆく輝き、行き交う恋人たちの白い息と弾むような笑い声が溢れている。世界中が幸福という名の薄いベールに包まれる、そんな浮かれた季節。そして、何を隠そう私、坂本美穂もまたその幸福のただ中にいるはずだった。
左手の薬指に嵌められたプラチナのリングが、カフェの温かい照明を浴びて静かに、しかし確かな存在感を主張している。私はこの一ヶ月、日に何度となくこの指輪をうっとりと眺めては甘い充足感に浸っていた。二十年近い歳月をかけて追い求めてきたものが、ようやくこの手の中に収まったのだと。
直人はあの日以来どこか吹っ切れたかのように、以前にも増して私に甘えるようになった。言葉こそ相変わらず足りないが、その瞳の奥には私への絶対的な信頼と諦めにも似た安堵の色が浮かんでいる。あの夜から始まった私たちの新しい関係も、この指輪も、全ては次の段階へ進むための儀式だったのだ。私はそう信じて疑わなかった。
「なあ美穂、ロンドンのガイドブックこんなに買ってどうすんだよ」
向かいの席で直人が呆れたように言いながら、テーブルの上の旅行雑誌の山を気怠そうにめくっている。その口調は呆れているようでいて、その実まんざらでもない響きを帯びていた。彼はこの婚前旅行を学生最後の楽しい思い出として、心から楽しみにしているようだった。その無邪気さが今はたまらなく愛おしい。
「いいじゃない別に。一生に一度のことだから完璧な計画を立てないと。あんたは黙って私についてくればいいのよ、このヘタレが」
いつもの憎まれ口を叩きながら、私は熱いカフェラテのカップを口元へと運んだ。その時だった。ふわりと鼻腔をくすぐったミルクとエスプレッソの匂いが、突如として胃の奥からせり上がってくる不快な塊へと姿を変えた。
「うっ……」
思わず小さな呻きと共にカップをソーサーに戻す。胃がむかむかする。まるで乗り物酔いでもしたかのような、じわりとした不快感が身体の中心から波紋のように広がっていった。
「どうした美穂?顔色悪いぞ」
直人が心配そうに私の顔を覗き込む。その優しい視線が今はなぜか私の苛立ちを微かに煽った。
「なんでもないわよ。ちょっと疲れが溜まってるだけ」
私はそう言って無理やり笑顔を作り、何事もなかったかのように再びガイドブックへ視線を落とした。卒業論文のストレスかしら。あるいは旅行への期待で、少し興奮しすぎているのかもしれない。私は身体が発し始めた小さな、しかし決定的な警告のサインをそうやって安易に片付けてしまったのだ。
だがその日から私の身体は少しずつ、しかし確実に私の意思を裏切り始めた。朝キッチンで直人のためにベーコンを焼く香ばしい匂いが耐えがたい吐き気を催させたり、日中講義を受けている最中に突然強い眠気に襲われたり。そして何よりも決定的だったのは、あれほど正確だったはずの月のものが予定日を過ぎても一向に訪れる気配を見せなかったことだ。
最初は気のせいだと思っていた。ストレスによるよくある遅れだろうと。だが一週間が過ぎ十日が過ぎる頃には、私の心の中に無視できない冷たい疑念の染みがじわりと広がり始めていた。まさか。そんなはずはない。
ある日の午後、私は一人自室のベッドの上でカレンダーの日付を指で何度もなぞっていた。指先が氷のように冷たい。記憶の糸を必死で手繰り寄せる。最後に月のものが来たのはいつだったか。そして、直人と身体を重ねるようになったあの日付は。計算するまでもない。全てのピースがパズルの最後の欠片がはまるように、恐ろしいほどの正確さで一つの、そして唯一の可能性を指し示していた。
私の血の気がさっと引いていくのが分かった。心臓がまるで凍りついたかのようにその動きを止める。そして次の瞬間、まるで堰を切ったように激しく痛いほどに、どくどくと脈打ち始めた。
その日の夕方、私は誰にも気づかれぬよう大学の帰りに駅前のドラッグストアへ立ち寄った。化粧品やシャンプーが並ぶ棚の最も奥、その目立たない一角。そこには目的の商品が、あまりにも無機質で残酷な確実性をもって陳列されていた。妊娠検査薬。そのプラスチックの箱の冷たい感触が、震える私の指先にやけに生々しく伝わってきた。
直人の部屋のバスルームのドアに鍵をかける。冷たいタイルの床が足の裏から体温を奪っていくようだった。説明書を震える手で何度も読み返し、覚悟を決めてスティックの先端に自らの身体の証をかけた。待つ時間は永遠のようにも感じられた。判定窓に現れる結果という名の無慈悲な宣告。心臓の音が耳元でガンガンと鳴り響いている。やがて白い窓の中にゆっくりと、しかし決して覆すことのできない絶対的な事実として、二本の赤い線がはっきりと浮かび上がった。
陽性。
その二文字が脳天に巨大な鉄槌のように振り下ろされた。一瞬思考が停止し、目の前の光景がまるで他人事のように現実感を失っていく。だがすぐにその衝撃は全く別の、熱くそして恐ろしいほどの歓喜を伴った巨大な感情の波へと姿を変えた。これは、事実だ。誰にも、直人にさえも、決して覆すことのできない絶対的な「事実」。私のこの身体の中に新しい命が宿っている。直人の、そして私の、命が。
長年私を苛んできたあの漠然とした不安。直人の優柔不断さがいつか私から離れていくのではないかという底なしの恐怖。それら全てがこのたった二本の赤い線によって、跡形もなく消し飛んだ。これは、鎖だ。彼を私の元に永遠に縛り付けておくための、何よりも強く何よりも確実な神が与えてくれた聖なる鎖なのだ。
私の独占欲はこの瞬間、絶対的な支配欲へとその最終進化を遂げた。もはや直人の言葉など必要ない。ロンドンでの甘いプロポーズももはやどうでもいい。それどころかそんな悠長な計画が、彼の責任回避のための最後の悪あがきのように思えて腹の底から冷たい怒りが込み上げてきた。このヘタレ。私がどれほどの覚悟であなたとの未来を待っていたと思っているの。子供まで作ったというのにまだ学生気分の、甘い思い出作りでこの現実から目を逸らそうとするつもり?許さない。絶対に。
私の頭脳は驚くほどの速さで、そして驚くほどの冷徹さで回転を始めていた。この事実をいつ、どこで、どのようにして彼に突きつけるべきか。ただ伝えるだけでは駄目だ。あの男はきっとうろたえ悩み、そしてまた責任を先延ばしにしようとするだろう。必要なのは彼が決して逃げることのできない完璧な舞台設定。彼の優柔不断な精神構造を根底から破壊し、私の前に完全な形で屈服させるための絶対的な包囲網。
そして私の脳裏に完璧な計画が閃光のようにひらめいた。正月。両家の一族が本家に一堂に会する、あの厳かなそして何よりも「けじめ」を重んじるあの場所。あの場所で全ての事実を白日の下に晒すのだ。両家の親、親戚一同という彼が決して逆らうことのできない社会的権威の前で。
私はバスルームの鏡に映る自分の顔を見つめた。そこに映っていたのはもはや恋に恋するただの乙女ではない。その切れ長の瞳の奥に獲物を追い詰める狩人のような、冷たくそして揺るぎない決意の光を宿した冷徹な戦略家の顔だった。左手の薬指でプラチナのリングがきらりと光る。だがもはやこんなものでは不十分だ。私が手に入れたこの絶対的な事実の前では、その輝きすらあまりにも色褪せて見えた。
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