2 えっちなオオカミ
ここのラーメンは謎が多い。炒めたせせりとラム肉。生姜の効いた醤油系スープ。何ラーメンと形容すべきかはさておき、中身についてはまだ分かる。それがオオカミラーメンと銘打たれており、廃貨物コンテナを改装した店舗内にアコースティックギター1本の弾き語りのオリジナルソングがエンドレスで流れ、ほかにもパッと見よくわからないメニューの貼り紙が並ぶ、その雰囲気全体が、謎な印象を深めている気がする。
で、Kが隣で麺をすすっている。ソース顔が醤油系スープをレンゲで掬っている。このシチュエーションも謎。件のゼミ発表の後で飯に誘われたので、流れで付き合った次第。別に交際中とかではないし、てかこいつの濃い顔はぜんぜん好みではない。あと無精ひげ剃れや。あ、でもこの店のラーメンは結構いけるかも。こんど家で袋ラーメン食うとき、せせり炒めてトッピングでもしてみるか。でもこれ、スープのカテゴリーがマジでわからんな。新手の旨味調味料いれてるのか?
「改正薬機法は学際研究のネタとしてはいいと思うけど、ちょい恨み節を託しすぎでは?」
とK。
「いや義憤やで」
答えてラーメンをすする守江。
創薬の研究開発スピードは、生成系AIの導入された2020年代から加速度的に向上した。新規化合物の組み合わせ、既存化合物の用途探索、薬効やリスクの評価ならびに、最終的な用法容量の確定、なんなら律速となる申請と審査のステップに至るまで、かなり自動化が進んだ。そうして薬種や用法の幅が急速に増えると、ユーザーもとい患者側の自己決定権という話がムクムクと持ち上がってきたのがここ10年くらいの流れ。
薬剤師の服薬指導オンライン化は、VR技術の進歩に呼応して医師の診断と処方の場面にもおよび、ついには医療履歴データベースと家庭検査キットの合わせ技で、ペライチの申請書フォームを埋めれば翌朝には宅配で所望の処方薬が大抵は届く。いまここ。
「歴史的な経緯は調べた?」
とK。
「終末期医療でしょ。在宅医療で、クエン酸フェンタニルとか、オピオイド系の鎮痛剤を宅配でゲットできるようになった。病状の進行で容量増やしたり、モルヒネとかほかの医療麻薬に切り替える場合も、申請書1枚でいけるようにした」
「いまでもそのニーズは変わらんよ。癌や悪性腫瘍が克服された今となっても」
「それは皮肉?」
「主要死因のリストに掲載されなくなったんだから、統計的にはその通りでしょうよ」
実際は、病名が変わっただけだ。創薬AIへの期待の高まりをうけて、政府が悪性疾患撲滅キャンペーンをぶち上げて多額の予算を投入したけれども、分子構造レベルで無数の組織型があり、個々人の遺伝的要因と複合した疾病メカニズムを解明して適切に介入するには至っていない。およそ100年前、ニクソン大統領のガン撲滅キャンペーン時代のアメリカと本質は変わっていない。その病への特効薬は未だにない。現代コンピューターの父、頭良すぎて宇宙人と言われたフォン・ノイマンも確か骨肉腫の転移で亡くなったのだ。
たちが悪いことに、創薬技術への熱狂は、多少悪くなっても後から薬で治せるからいいや、という誤りの時代感覚を醸成した。エビデンス軽視、大衆迎合的な政治潮流も相まって、予防原則的な法規制のありかた、ならびに公害防止行政をことごとく破壊してしまった。5年前のWHO&環境省のダブル解体は、象徴的出来事というか、総仕上げというべきか。
目下、材料化学はじめケミストリーの分野全般で化合物探索の容易化はパラレルに進行し、新規物質がザル審査でドバドバと市場に出回っている。それだけの探索アルゴリズムがあれば、厳密なリスクアセスだって出来そうなものだが、研究リソースの配分は市場原理に左右されるのが世の常。危険の警鐘は金を生まない。かくして、「新しい癌」の症例増加と新規化合物の種類には素人目には分かりやすい相関が見てとれたが、企業サイドとしては当然因果関係を否定するし、専門家筋は安易な断定を厳に慎んでいる。コンノオ、
「おっちゃん、これダシ何なん?」
Kがカウンター奥の初老のおじさんに問いかける。
「オオカミぜよ!」
「いやいや、ニホンオオカミ絶滅してんじゃね…」
赤ら顔でニコニコと答えるおじさんは、片足をひきずっている。数年前の脳梗塞の後遺症とのこと。
「ここだけの話、やばい白い粉ぜよ?」
「あーいや、うまみ調味料とかその類なんかな?」
とKは応じる。
守江は、マテリアルズ・インフォマティクスによる新規化合物の食品用途適用に際する予防原則的処置の提言、GM(遺伝子組み換え)農作物、後に撤回された食品着色料、みたいな科学史上のキーワードを想起しながら、
「でもこれ、なんかホッとする味ですね。でも、まったくの自然って感じでもないから…」
そこまで言って、守江はカウンターの奥に青キャップの小瓶を発見して、合点がいった。
「ああ。アジシオ…」
幼少期の記憶補正もあったのか、と守江は思う。南洋特別自治州(旧沖縄県)の離島にあるグランマの家では、
「この肉、原価まあまあ掛かってそうだよなー、おっちゃんお金もうけはちゃんとしてよ?」
「じゃあ酒のめのめ!」
「いや、おっちゃん。俺下戸なの知ってるじゃん…」
—今度、しょうゆ味の袋ラーメン買ってきて、しょうがとアジシオでせせり炒めて乗っけてみるか、そんなことを思いながら、守江はラーメンをもうひとすすり、
「
は?
「なんて?」
「守江っち、その義憤に駆られる正義感を活かせる研究テーマがある」
「
「学術的探求だよ」
Kは、モバイルの映写端末を取り出す。ラーメンのドンブリの上に、おにぎりみたいな島影が載せられる格好。
「え、これグランマの島じゃん」
「だから守江っちに話したいのだ、同志よ」
「えっち言うな! あと、同志て!」
そんなこんなで、Kはひと演説ぶつのだった。
南洋特別自治州では、米軍基地および関連予算の引き上げに伴い、跡地の利活用と産業振興が喫緊の課題となったが、そこに目を付けたのが財閥系企業グループの一角をなす総合化学メーカN社にルーツをもつメガベンチャー、エピジェネン社だった。薬事関連の規制緩和の流れに乗って、AI創薬による多様な薬種を市場に送りだしていったが、その過程で、もともとN社の企業保養地のあったA村の軍事基地跡地に目を付け、巨大な研究開発・製造拠点を建設。事業は急成長を遂げており、近年では、その収益を原資に、遺伝子医療の大規模化・低コスト化に乗り出している。
Kいわく、不審な点は主に2つ。1つは、工場の操業開始後、村民、とくに児童に、
「
「『霊長類の学習曲線と報酬系刺激の相関について』? オランウータン? チンパンジー? 実験動物はかわいそうだけど…」
「あのな、データに違和感あんのよ。いや、なんちゅうか、自然であり得そうなデータなんやが、わざと装った自然さ。例えるなら、めっちゃ勉強できる小学生がいて、本気出したら宿題のドリルなんて秒殺でほぼ満点とれちゃうんだけど、アホ教師に答え写したと疑われるから、わざわざ間違えたふりしてる的な、芝居感?」
「どゆこと?」
「で、こちらをご覧ください。チャッピー、頼むわ」
>>映像コンテンツ:カルト教団『森羅万象クラブ』の黒い噂!汎用人工知能はいつまで経っても実現せず。フォン・ノイマンを崇拝する同教団は、現代コンピュータ頭打ちムードへのアンチテーゼか? 今こそ、次なる悪魔的知性の到来を! 諸学を究めるために、教団員は点滴につながれ、学習タスクのスコアに応じて
「OKチャッピー止めて。まあ、スマートドラッグの相当悪質な変化形な。件の記事はスキャンダラスなWebメディアの煽りにも見えるが、真実の一片も含んでると見ている」
「というと?」
「さっきのプレプリントは、人間を被験体とした結果をわざと下方修正したと考えたら、至極つじつまがあう。というか、ウチの研究室もテーマ的に嚙んでるから小耳には挟むが、業界関係者では、この規制ガバガバのご時世、マジで人体実験やってんのは公然の秘密だ。AIは行き詰まりだし(ここで、『申し訳ありません』とチャッピー)、オランウータンがレバー押した話だけだと誰も思ってねーよ。」
「えー、かーくん陰謀論の人になっちゃった」
「いやいやいや。とにかく、いっぺん現場みてみ? おばあさん亡くなって、
「うーん、そうだけど…」
「今2回生の夏だべ、油断してるとシューカツとソツロンからの懲役40年食らうだけよ? 守江っちは院進しそうだけど、学際畑つっても文学部だからな、戦略的にやらんと、どのみちアカポスで詰むぞー」
「うわー、さすが1浪1留の院生様はおっしゃることが違いますねえ、耳が痛い」
「と・に・か・く、この夏休みは帰省がてらフィールドワーク一択! きまり!」
「うぇー、少し考えさせていただきますう」
「おっちゃん、お会計お願い!」
「ごっちゃんです! あざす!」
「え? 割り勘ですが?」
「は? 誘っといて何それ?」
のれんをくぐる時、おっちゃんはニヤニヤして、
「おふたりさん、今夜オオカミ、する?」
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