第32話 私は、あなたを支える人になりたいのに

 「上田さん、少し距離を取りなさいって言ったでしょう?」


 上司の声が、会議室に冷たく響いた。

 保健指導の担当になった母親が、夜中にセンターへ電話をかけてきたらしい。

 「上田さんだけが頼りなんです」と泣いていたと聞かされた。


 それを“寄り添いすぎ”と責められた。


 仕事だから割り切れ、そう言われるたびに、

 “支えるって何だろう”と、自分の中の軸が揺らぐ。


 誰かを助けたいと思うのは、悪いことじゃない。

 でも、「情が深すぎる」と言われると、心のどこかに痛みが走る。


 ――あなたに似ているの、先生。


 いつも誰かを気づかい、自分のことは後回し。

 生徒のことを真剣に考えすぎて、体を壊すんじゃないかと心配になる。

 そんな先生の姿を見ていると、

 「私が支えたい」と思ってしまう。


 でも、それを言葉にする勇気が出ない。

 恋じゃなくて、仕事の延長に思われるのが怖いから。


 夜、帰り道のコンビニの駐車場。

 ハンドルを握ったまま、スマホを開いた。


 ――先生、最近眠れていますか?

 打っては消し、打っては消す。

 まるで、言葉の海で溺れているみたい。


 何度もそうしてきた。

 この数年で、送れなかったメッセージはいくつあるんだろう。


 ふと、通知の履歴が光った。

 「和昌先生から:久しぶりに会えませんか?」

 その瞬間、心臓が跳ねた。


 画面を見つめながら、呼吸が浅くなる。

 会いたい。

 けれど、いま会ったら、きっと平静でいられない。


 ――私は、あなたを支える人になりたいのに。

 その言葉を口にしたら、恋が壊れてしまいそうで。


 助手席に置いた書類の上に、海辺で拾った小石がひとつ転がっている。

 去年の春、子どもたちの健康教室で浜辺に行ったとき、無意識に拾っていた。

 なんで拾ったんだろう。

 たぶん、何かを握りしめていたかったんだと思う。


 窓の外は、冬の雨。

 坂の上にある学校の灯りが、ぼんやり滲んで見える。

 先生、まだ職員室にいるのかな。


 思わず、ワイパーを止めた。

 静寂の中で雨の粒がガラスを叩く音だけが響く。


 ――もし、いま行ったら。

 どんな顔をするんだろう。


 それでも、アクセルは踏めなかった。

 心の奥にあるブレーキが、いつもより重く感じた。


 私はプロの保健師。

 そして、ただの一人の女。

 その境界を越える勇気を、まだ持てないでいる。


 ハザードを点けたまま、しばらく空を見上げた。

 雲の切れ間から、わずかに月の光が覗いた。

 まるで「もうすぐだよ」と、誰かが囁いたように感じた。


 その夜、私は眠れなかった。

 久しぶりに“会いたい”が、“会えない”を超えようとしていたから。

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