第17話 ふたりの新しい朝
四月の風が、やさしく街を撫でていた。
木漏れ日がベランダの鉢植えに差し込み、小さな花々が一斉に顔を上げる。
その朝、上田のりえはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外で鳥の声がして、春の匂いがカーテンの隙間から流れ込む。
前夜のワインの余韻がほんの少し残っていたが、心は穏やかだった。
机の上には、封筒がひとつ。
“県立みどりヶ丘特別支援学校”と印字された書類。
和昌が異動先から持ち帰ってきた校内報だった。
そこに書かれていた一文が、彼女の目を引いた。
> 「どんなに遠く離れても、“思い合う心”が支えになる——」
のりえは小さく笑った。
あの人らしい言葉だ、と思った。
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午前九時。
坂道を上がると、カフェのテラス席に見慣れた姿があった。
ネイビーのジャケットに、落ち着いたグレーのシャツ。
藤川和昌はすでにカップを片手に待っていた。
「早いね」
「今日、午後から会議だから」
「異動しても忙しいんだね」
「忙しいけど、悪くない。
“誰かの現場”を支える仕事って、意外とやりがいがあるよ」
「……やっぱり先生だね」
「そっちはどう?包括センター」
「相談が多くてびっくり。でもね、
“ひとりで抱え込まなくていいですよ”って言えるようになったのが嬉しい」
のりえの声には、自信があった。
それは、長い時間をかけて手に入れた“自分らしさ”の響きだった。
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「そういえば」
和昌が、懐から小さな箱を取り出した。
白いリボンで結ばれた、掌に収まるほどの小箱。
「これ、指輪?」
「うん。でも、普通のじゃない」
「普通のじゃない?」
「婚約指輪ってより、“お守り”みたいなもの。
ほら、現場仕事はお互い指輪できないでしょ?」
「そうだね。手洗いばかりだし」
「だから、代わりに——」
箱の中には、銀色のチャームが二つ入っていた。
ひとつは小さな坂道のモチーフ、もうひとつは四葉のクローバー。
「同じデザイン。俺のはキーホルダーにして、君のはネックレスに」
のりえは目を細めた。
「……ずるい。こんなの、泣いちゃうじゃない」
「泣いていいよ。俺だって泣きそうだ」
ふたりは笑い合った。
春の風が、店のガラス越しに柔らかく吹き抜ける。
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しばらくして、のりえがカップを置いた。
「ねえ、先生」
「うん」
「結婚式、どうする?」
「うーん……教会、かな」
「やっぱり」
「でも、派手なのはやめよう。
姉さんのときみたいに、祈るだけの静かな式がいい」
「賛成」
「どこがいい?」
「……やっぱり、あの坂道の近くがいいな。
私たち、いつもあの坂で季節を越えてきたでしょ?」
「決まりだね」
和昌はコーヒーを飲み干し、少し照れたように言った。
「でも、なんだか不思議だな。
“もう一つの人生”を歩いてるみたいだ」
「もう一つ?」
「昔、あの時、もし違う選択をしていたら——って考えることがあったんだ」
「私も。
でも、たぶん私たちは“あの時の迷い”を通って、
やっとこの春にたどり着いたんだね」
「うん。そう思う」
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店を出ると、風が一段と強くなった。
花びらが舞い、光がちらつく。
坂道の上には、雲ひとつない青空。
「先生」
「なに?」
「もう、“先生”って呼ぶのやめようかな」
「じゃあ、なんて?」
「和昌さん」
「……その呼び方、なんか照れる」
「ふふ。慣れて」
ふたりは笑いながら坂を降りた。
光が交差し、影が寄り添う。
その姿はまるで、春の風景の一部になったようだった。
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> 新しい朝が来る。
ふたりが選んだ道の先には、
“静かだけれど確かな幸福”がゆっくりと広がっていた。
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――第17話 了――
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📖 次回予告:第18話「六月の雨、約束の指輪」
結婚式を前に、のりえは業務中の訪問先で予期せぬ事故に遭遇する。
一方、和昌は教育委員会の現場で“支援の限界”に直面。
梅雨の空の下、ふたりが改めて誓う“支える”ということの意味——。
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