第12話 坂道のカフェにて ― 再出発 ―


 夏がゆっくりと終わりに向かっていた。

 セミの声が遠くで細く鳴り、坂道の木々の葉が濃い緑から少しだけ色を落としはじめている。

 午後の光は柔らかく、どこか名残惜しそうに街を包んでいた。


 坂の上のカフェのテラスに、のりえはひとり座っていた。

 グラスの水滴がテーブルを濡らし、氷の溶ける音がゆっくりと時間を刻む。

 職場への休職届を提出してから、まだ二週間。

 それでも、この静けさがどこか落ち着かない。

 長く走り続けた身体が、急に止まると、心のどこかが揺れるものだ。


 カフェの入り口で、ドアベルが鳴った。

「ごめん、待った?」

「ううん。ちょうど今来たところ」

 藤川和昌は、白いシャツの袖を軽くまくっていた。

 夏の終わりの空気が、二人の間をすっと通り抜ける。


「久しぶりだね」

「うん。なんか、時間がゆっくりしてる」

「休むって、そういうことかもね」

「でも……ちょっと怖い」

「何が?」

「止まること。何もしない自分に、価値がない気がして」


 のりえの言葉に、和昌は少し考えるようにカップを持ち上げた。

「俺もね、教員一年目の夏、同じこと思ったよ」

「ほんと?」

「クラスの子どもがうまくなじめなくて、自分の無力さばっかり感じてた。

 “何もしない時間”が罪みたいに思えた」

「それ、わかる……」

「でもさ、子どもたちは休み時間のほうが成長してること、後で気づいた」

「どういうこと?」

「頑張ってる時よりも、笑ってる時のほうが、目が生きてるってこと」


 のりえは笑った。

「先生らしいね」

「かもな」

「じゃあ私も、今は“休み時間”をもらってるんだね」

「うん。長めの、夏休み」


 そのあと、ふたりは窓の外を眺めた。

 坂の下から、制服の女子高生が笑いながら歩いてくる。

 陽炎のような風景に、十代の頃の自分たちが重なる。

 あの頃には見えなかった“静かな幸福”が、いまここにある。


「ねえ、のりえ」

「なに?」

「このあと、ドライブしようか」

「いいね。どこまで?」

「九十九里の海、見に行こう」

「海?」

「潮風、変わってるかもしれない」

「……うん、行こう」


 車の中、ラジオから流れていたのは、

 昭和の終わりに流行った古いポップスだった。

 アナウンサーの柔らかい声が、

「今日の波は穏やかです。九十九里では海風が心地よく——」と告げる。


 窓を開けると、風が髪を揺らした。

 遠くの水平線の向こうで、雲が金色に染まっていく。


「ここまで来ると、時間の流れが違うね」

「わかる。世界が少しだけゆっくりになる」

「この風の匂い、好き」

「春よりも、深い」


 波打ち際を歩きながら、ふたりは靴を脱いだ。

 波が足元を洗い、砂が柔らかく沈む。

 和昌がポケットから小さな紙袋を取り出す。

「なにそれ?」

「これ」

 差し出されたのは、小さな貝殻のチャーム。

 前に渡したガラスのペンダントと同じ形をしていた。


「これで、対(つい)になった」

「……ありがとう」

「坂道で出会って、海で約束をした。

 どっちも、風の中の思い出だね」

「うん。私たちらしい」


 夕陽が沈む頃、のりえはぽつりとつぶやいた。

「ねえ、先生。

 もし、このままの人生が続くとしても、私はそれでいいと思う」

「それって、どういう意味?」

「結婚とか、家とか、肩書きとか。

 そういう“形”がなくても、

 こうして笑っていられる日があれば、それでいい」

「……わかるよ」

「でも、あなたがどこかに行くなら、

 たぶん、私もその風の方向を見てしまう」


 和昌は、何も言わずに頷いた。

 風が吹くたび、潮の匂いが濃くなる。

 空には、まだ沈みきらない太陽が漂っていた。


 帰り道。

 助手席でのりえは静かに目を閉じていた。

 海の余韻をまとった髪が、窓からの風に少し揺れる。

 和昌はハンドルを握りながら、心の中でひとつだけ願った。


 ——この穏やかな時間が、どうか長く続きますように。


「風の坂道で始まった恋は、

 いま、潮騒の音とともに“生き方”に変わろうとしていた。」


――第12話 了――


次回予告:第13話『夏の雨、はじまりの午後』

再出発の穏やかな日々の中で、思わぬ知らせが届く。

一通のメール、そして決断の季節。

“支えたい”と“手放す勇気”が試される、夏の終章。


次回(第13話)は、のりえの“休職後の現実”と、“選択の分かれ道”を描きます。

静かな情緒を残しつつ、ドラマ性をやや強めた章にします。

その方向で進めてよろしいですか?

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