第43話 外の世界が、ドアを叩いた
白い会議室の空気は、配信部屋とはまるで違う匂いがした。
壁にはスケジュール表と、見慣れないロゴ。
「灯台の向こう側」——ねむがEDを歌うことになったアニメの、公式タイトルロゴが大きく貼られている。
丸テーブルの端っこで、白露ねむはこっそり膝を揃えた。
(し、心拍数やば……)
膝の上で指を組んで、こねて、戻して、また組む。
マスクの奥で息を整えながら、目の前に並んだ名刺をちらっと見た。
アニメ
音響監督・佐伯。
宣伝プロデューサー・鷺沼。
その隣に、ルミエール代表の東雲隼。
少しだけ肩を後ろに引いて座るマネージャー、水城レン。
そして——ねむのひとつ右隣には、朝比奈湊。
淡いグレーのジャケットに黒のシャツ。
いつも通りの落ち着いた顔で、テーブルのペットボトルを指先で回している。
(なんで朝比奈さんはこんなに平気そうなんだろ……)
自分だけが場違いに思えて、ねむはひとりで縮こまる。
「じゃあ——時間になりましたし、はじめましょうか」
北条が軽く手を叩いた。
会議室の空気が、すっと一本の線で整う。
「改めまして、《灯台の向こう側》プロデューサーの北条です。今日は、ED『Nem’s Night』の本タイアップと、その先の展開についてご相談できればと」
「ルミエール代表の東雲です。本日はお声がけありがとうございます」
東雲の声は、配信で聞くときより少しだけ低い。
仕事モードの声だ。
「白露ねむです……。本日は、よろしくお願いします」
立ち上がって頭を下げると、首の後ろまで熱くなるのが分かった。
(うわ、声震えてた……)
椅子に戻ると、隣の湊が、ほんの一瞬だけこちらを見て、小さく頷いた。
それだけで、肺の中に酸素が戻ってくる。
◆
「まず、率直にお伝えすると——EDの仮音源、社内でめちゃくちゃ評判いいです」
北条が、タブレットを軽く持ち上げて笑った。
「シンプルに“夜に聴きたくなる”。で、歌声の質が作品のテーマとものすごく合っている。灯台って、“誰かのために灯り続けるもの”じゃないですか。白露さんの声が、まさにそれで」
「えっ……あ、その……ありがとうございます……」
ねむの耳まで一気に赤くなる。
東雲が「光栄です」とフォローし、その横でレンが資料をスライドさせる。
「お話としては、現在いただいているEDタイアップに加えて——」
鷺沼が、ページを切り替えた。
「① 配信内でのアニメ告知コラボ」
「② 白露さんご本人のゲスト声優出演(1話分)」
「③ EDの英語圏向けプロモーション連動」
「この三つを、正式に乗せたいと思っています」
「ご、本人……?」
ねむの声がひっくり返りかけた。
(声優……? わたしが……?)
湊が横で、くすっと笑う気配がする。
横目で見たら、ちゃんと表情はまじめだったので、余計恥ずかしくなった。
「白露さん、演技の経験は?」
「えっと……配信で、ちょっとミニドラマ読んだことあるくらいで……」
「そのときのアーカイブ、拝見しましたよ。耳が気持ちいい芝居でした」
「ひっ」
ねむは変な声を出して、両手で顔を覆う。
「北条さん、あんまりいじめないでくださいよ」
レンが苦笑する。
「いじめてませんよ。純粋な褒め言葉です。……ただまあ、現場にはベテランのキャストさんもいますし、芝居をがっつりやってもらうというよりは、“作品世界に白露さんがほんの少しだけ顔を出す”くらいのイメージですね」
「例えば——」
音響監督の佐伯が、資料をめくった。
「深夜のラジオDJ。灯台の近くで流れている、“誰かの眠れない夜に語りかける声”として、白露さんの声を使いたい。EDとの連動性も出ますし」
「ラジオ……」
ねむの頭の中で、雨音と、自分の声と、深夜の画面が重なる。
(それ、ほぼ……いつもの配信じゃん……)
目の前の資料には、そのラジオのラフ台本が載っていた。
『——こんばんは。灯台の近くから、あなたに“おやすみ”を届けます』
それは、ねむがいつもマイクの前で言っている言葉とすごく似ていた。
「……や、やってみたいです」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「もし、みなさんが“合う”と感じてくださるなら……その、ぜひ……」
北条が、目を細めて頷いた。
「ありがとうございます。では、その方向で具体化していきましょう」
◆
「もうひとつ——英語圏向けの話なんですが」
鷺沼が、新しいスライドを出した。
そこには、海外配信プラットフォームのロゴがずらりと並んでいる。
「《灯台の向こう側》は、海外向けにもかなり力を入れる作品になります。で、白露さんの声と、この“夜”のテーマは、海外のファンにも絶対刺さると社内で話が出ていまして」
「は、はい……」
「そこで、EDの歌詞に少しだけ“多言語の要素”を入れられないかと考えています。日本語を軸にしつつ、英語か、あるいは別の言語をフレーズ単位で混ぜる形で」
その瞬間、隣の湊が、ほんのわずかに姿勢を変えた。
「……実は、それについては、こちらでも少し案を考えていまして」
レンが、用意していた別の資料を差し出す。
湊の名前が、そこに印刷されていた。
「“Nem’s Night”というタイトルに合わせて、日本語の歌詞をベースにしながら、例えばロシア語を一部に混ぜる案が出ています。夜・光・おやすみのニュアンスが、日本語と綺麗に響き合う言語なので」
「ロシア語……?」
ねむがぽかんとしていると、湊が少しだけこちらを見る。
「白露さんの声って、“息”の成分に特徴があるじゃないですか」
「い、息……」
「やわらかくて、少し曇ったガラスみたいな。あの質感に、ロシア語の母音がすごく合うんですよ。a と o が多いので、流れるように歌える」
佐伯が、興味深そうに頷いた。
「面白いですね。確かに、ロシア語の“低めの響き”と、白露さんの柔らかい声は相性が良さそうです」
「……実は、簡単な試作もあります」
湊が、タブレットを操作した。
スピーカーから、小さなデモ音源が流れる。
ピアノとギター。
その上に、仮歌の声が乗る。
「おやすみの声が
わたしの朝になる
——Доброй ночи, мой свет」
意味も、響きも、夜の空気に溶けていくような言葉。
ねむは、息をするのを忘れた。
(……きれい)
言葉は半分しか分からないのに、なぜか胸の奥がくすぐったくなった。
「こんな感じで、“おやすみ”という日本語に対して、“夜”とか“光”をロシア語で返していく形で……。日本語しか分からない人にも、音として気持ちよく聴けるように設計できます」
「……すごい」
北条が、素直にそう呟いた。
「正直、ここまでイメージ固まってるとは思っていませんでした。ロシア語、いいですね。映像側でも、夜の海や灯台の光と合わせやすい」
鷺沼も、手元のメモにさらさらと何かを書き込んでいる。
「海外向けのコピーも、“おやすみ”と“Good night”と“Доброй ночи”を絡めれば、かなり印象的なキャンペーンが組めそうです」
会議室の空気が、一気に色を持ちはじめるのが分かった。
(朝比奈さん……こんなに考えてくれてたんだ)
ねむは、隣の横顔をこっそり見る。
湊は特にドヤるでもなく、いつも通りの落ち着いた表情で画面を見つめている。
それが逆に、胸をぎゅっと締めつけた。
◆
しばらく、契約書やスケジュールの話が続いた。
放送開始日。EDの本納期。MV撮影の日程。海外展開用のクレジット表記。グッズ展開の可能性。
東雲が数字の確認をし、レンが細かいリスクを潰し、北条と鷺沼が“夢のある話”を広げていく。
ねむは、理解できるところとできないところとを行き来しながら、必死にメモを取った。
“わたしの歌が、どこまで届いてしまうんだろう”。
その実感が、ようやくゆっくりと、怖さと一緒に心に入り込んでくる。
「——では、詳細な契約書ドラフトは後日お送りします。EDの歌詞については、こちらの“日本語+ロシア語ミックス”案をベースに、改めて詰めていただけると」
北条が締めの言葉を言い、会議は一旦お開きになった。
「本日はありがとうございました」
頭を下げて、会議室を出る。
ドアが静かに閉まった瞬間——膝から力が抜けた。
「つ、疲れた……」
壁にもたれて、ねむはずるずるとしゃがみ込む。
「おつかれ」
視界の端に、ペットボトルが差し出された。
湊の持っていたミネラルウォーターだ。
「のど、渇いただろ」
「あ……ありがとうございます」
受け取って、一口飲む。
冷たい水が、さっきまで熱かった喉をひんやりと撫でていく。
「……朝比奈さん、すごいです」
「なにが」
「ロシア語とか……その、声のこととか……あんなに、ちゃんと考えてくれてたんだって」
湊は、少しだけ視線を伏せた。
「仕事だからな」
「でも」
ねむは、ペットボトルを両手で挟んだまま、うつむく。
「さっきのデモ、すごくきれいでした。ことばの意味、全部は分からなかったけど……胸がぎゅってなって。わたしの声って、ああいうふうに聞こえてるのかなって思ったら、なんか……」
「なんか?」
「……ちょっとだけ、好きになれそうって思いました。自分の声」
湊の目が、ほんの一瞬だけ丸くなる。
「それ、良かった」
短く言って、彼は少しだけ笑った。
「白露さんが自分の声を嫌いなままだと、曲の芯がぶれるから」
「芯……」
「“誰かの眠れない夜に届く声”って、さっき北条さん言ってたろ。あれ、もともと俺が最初に考えてたテーマなんだ」
「えっ」
「ルミエールから最初に話が来たときにさ。“白露ねむってどういう配信者ですか?”ってレンさんに聞いたんだよ。そのときに返ってきたのが——」
湊は、少しだけ目を細める。
「“眠れない子たちを寝かしつける…みたいな、変な子です”って」
「変な子って……レンさん……」
「でも、それ聞いたときに、“ああ、この子には灯台の作品が合うな”って思った。暗い海の上で、遠くから“おやすみ”って言ってる灯り」
ねむの胸の奥で、何かが音を立ててほどけていく。
「だから、“Nem’s Night”は、最初から白露さんのための曲だよ。タイアップ用っていうより」
「……そんな、贅沢なこと言っていいんですか」
「言っていい」
湊は、当たり前のように言った。
「それくらいの気持ちで作らないと、夜に勝てないだろ」
「夜に……」
「眠れないやつら、強いからな」
その言い方が妙にリアルで、ねむは思わず笑ってしまった。
「朝比奈さんも、眠れない人ですか?」
「まあ、仕事柄」
「じゃあ——」
言いかけて、口を閉じる。
言葉の形がまだ定まらない。
(“わたしもです”って言うの、なんか、恥ずかしい)
「じゃあ?」
「……Nem’s Night、がんばって歌います」
代わりに出てきたのは、そんな言葉だった。
湊は「それは前提だ」とでも言いたげに、少しだけ肩をすくめる。
「歌詞、ロシア語混ざっても、大丈夫か?」
「むしろ歌ってみたいです。さっきの……なんて言ってたんですか?」
「どれだ」
「えっと、“Доброй ночи、もい……なんとか”って」
「“мой свет(モイ・スヴェート)”。“私の光”って意味」
「——」
頬が一気に熱くなる。
「そ、そんな、ロマンチックな……」
「歌だしな」
湊は、あまり深い意味はない、と言いたげに視線を逸らした。
「“おやすみ”って言う相手は、白露さんの配信を聴いてる人たち全部だ。その中に、誰を思ってもいい」
「だ、誰をって……」
「そこは、作詞の領域」
そう言って、彼は少しだけ意地悪そうに笑った。
「誰の顔を思い浮かべて書くかで、曲の匂いは変わる」
ねむは視線を落とす。
ペットボトルの透明なラベル越しに、自分の指先が少し震えているのが見えた。
(誰の顔……)
浮かんでしまいそうな人の顔を、慌てて追い払う。
「——まだ、内緒です」
「別に聞いてない」
「聞かれた気がしました」
「気のせいだ」
そんなやり取りをしていると、少し離れたところからレンの声が飛んできた。
「ねむちゃん、次、箱の方の打ち合わせもあるからねー。湊くんも、ちょっと来て」
「はーい」
ねむは慌てて立ち上がる。
ペットボトルを湊に返そうとして、視線がぶつかった。
ほんの一瞬。
真っ直ぐな黒い瞳が、自分を映す。
(——)
胸の奥で、ドクン、と音がした。
「……ありがと、ございました」
「どういたしまして」
短い会話。
それだけなのに、息が浅くなる。
◆
【ルミエール社内チャット/#nem_project】
レン:本日、《灯台の向こう側》とのED+声優+海外展開の件、一次合意しました
カイ:おお〜、やったなねむ!
ルナ:声優デビュー!?!?!?!?!!???
ねむ:や、やめてください通知が怖いです
コウ:ロシア語ED、マジでカッコよかったぞ
ナオ:Nem’s Night、箱の誇り案件
サチ:ロシア語ってどうやって勉強するんですか……
ユリ:発音監修さん付ける前提で大丈夫だよ、ねむちゃん
レオ:海外ニキがまた増えてしまうな……(うれしい悲鳴)
ミオ:夜の歌で世界を征服しておいで
社長・東雲:みんな、白露さんのサポートを最優先で頼む。箱の顔になる曲だからね
カイ:社長がかっこいいこと言ってるぞー
レン:カイはとりあえず変なロシア語だけ覚えないように
カイ:Ура!(ウラー)
ユウマ:……(スタンプ:ギター)
ねむ:(小声で)……Ураって何……?
湊:「万歳、みたいな意味。あいつに意味を教えるとろくなことにならないから、今は流していい」
ねむ「は、はい……」
◆
打ち合わせが終わるころには、外はすっかり夕方になっていた。
ビルの窓から見える空は、アニメの背景みたいな色をしている。
オレンジと薄い青が混ざって、じわっと滲んでいく。
エントランスに向かう途中、ねむは立ち止まった。
(……わたし、本当に)
さっきまでの会議室の光景が、頭の中で何度も再生される。
アニメのロゴ。
海外プラットフォームの一覧。
ロシア語の歌詞。
湊の「君の声は灯りになる」という言葉。
(こんな世界に、足を踏み入れていいのかな)
不安は、なくなったわけじゃない。
むしろ、さっきより大きくなっている。
でも、それ以上に——胸の奥でふつふつと、何かが沸き立っていた。
(Nem’s Night、絶対、いい歌にしたい)
誰かの眠れない夜に、本当に届く歌。
灯台の下でひとりで泣いてる誰かが、少しだけ呼吸を整えられる歌。
そして。
(——朝比奈さんが、作って良かったって思ってくれる歌にしたい)
そこまで考えてしまって、ねむは慌てて頭を振る。
「ち、違う違う違う……」
ひとりでブンブン首を振っていると、自動ドアの前でカイに見つかった。
「お、なに、謎の首ストレッチ?」
「み、見ないでください……!」
「いや見るわ。——で、どうだった? 外の世界とやらは」
カイが、コンビニ袋を片手に、へらっと笑う。
「……すごかったです」
ねむは、胸に手を当てる。
「怖いけど、でも、嬉しくて。なんか、世界って、本当に広いんだなって」
「おー、主人公ムーブ」
「からかわないでください……」
「からかってねーよ。——なあ、ねむ」
カイは真顔になって、コンビニ袋を軽く持ち上げた。
「お前の“おやすみ”がさ、また一歩遠くまで届くことになったんだよ。誇れ」
「……はい」
「腹減ってる?」
「すごく……」
「ほら、唐揚げ。レンさんに怒られる前に食え」
差し出された揚げ物の匂いに、ねむのお腹がぐうと鳴る。
「いただきます……」
外の世界は、怖い。
怖いけれど、美味しい匂いも、優しい言葉も、一緒にある。
(Nem’s Night——)
心の中で、そっとタイトルを反芻する。
(ロシア語……“おやすみ、わたしの光”……)
耳の奥で、さっきのデモが再生される。
湊の仮歌と、自分の声が、まだ混ざりきっていない空白。
「——歌詞、がんばって書かなきゃ」
小さく呟く。
会議室で決まった“外の世界”の広さが、ようやくじんわりと実感に変わる。
Nem’s Night。
世界にひらいた、ひとつの夜。
その真ん中で、自分の声がちゃんと灯りになれるように——。
ねむは、胸の奥でそっと拳を握った。
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