第37話 壁越しのサビ、はじめての揺れ

 朝、目が覚めた瞬間に、少しだけ胸が痛かった。


 歌いすぎたわけじゃない。

 風邪でもない。

 きのうの配信のコメント欄とスパチャ欄を、寝る前にスクロールしすぎたせいだ。


(……夢じゃなかったんだよね、あれ)


 枕元のスマホを手探りで引き寄せる。

 スリープを解除したロック画面には、

 Xの通知、配信アプリのDM、Discord、事務所メール――アイコンの赤い丸が、いくつも重なっていた。


 時計は、午前十時ちょっと前。

 カーテンの隙間から漏れる光は、六畳のときよりも柔らかい。


 二LDKの新居。

 昨日、ここからはじめて「Nem’s Night」を歌った。


(再生数、どうなってるんだろ……)


 胸の奥がざわついたまま、

 ねむは一番上に出ている配信アプリの通知をタップした。


【白露ねむ/新居初配信アーカイブ】

 ・再生回数:312,418 回

 ・高評価:48,921

 ・コメント:9,203


 数字が目に飛び込んできた瞬間、

 ねむは思わずスマホを布団の上に落とした。


「さんじゅう……? 三十万……?」


 声が裏返る。

 六畳の部屋で、深夜に数百人と話していた頃の感覚が、遠く霞んでいく。


(こないだ「十万いった!」って喜んでたのに……)


 目がまだ覚めきっていない頭のどこかで、

 「現実バグってない?」というツッコミがぼんやり浮かんだ。


 指先で慎重にスマホを拾い上げる。

 Xのトレンド欄には、まだ残っていた。


 #Nem’sNight

 #ねむちゃん新居

 #ただいま配信

 #はじめてのサビ


(“はじめてのサビ”って、誰がつけたんだろう)


 タグを押してみると、

 眠そうなアイコンの人が、昨夜こんなことを書いていた。


昨日のNem’s Night、サビが完全に“別物”になってて震えたから

勝手に #はじめてのサビ って名前つけてもいいですか


 そのポストに、リプライと引用RTがずらりと並ぶ。


いい。天才。

わかる。あれは“六畳じゃないサビ”だった

あの一拍だけ伸ばしたところで泣いた

「怖いまま前に出た歌」って本人の言葉が刺さりすぎる


 英語のタイムラインにも、似たような言葉が飛び交っている。


Her chorus changed. Like… she decided to live once more.


 翻訳アプリにかけなくても、何となく意味はわかった。


(……そんな大げさな)


 苦笑いしながらも、

 胸の奥がじわっと熱くなる。


 そのとき――


 壁の向こうから、かすかな音がした。


 昨日も聴いた、あの音だ。

 “声”と“音の線”の中間みたいな、柔らかいハミング。


 耳が、勝手にそちらを向く。


 今日は、昨日より少し低めのキーで、

 Nem’s Nightのサビ前のフレーズをなぞっていた。


 ♪ まぶたの裏 明日がこわくて――


 歌詞は乗っていない。

 メロディだけ、丁寧に。


(……やっぱり、Nem’s Night……)


 偶然じゃない。

 たまたま似たメロディ、というレベルではなかった。


 音程の揺れがない。

 ブレスのタイミングが自然すぎる。

 息の抜き方が、プロっぽい。


(音楽の人、なんだ)


 そんな言葉が、ぼんやりと浮かんだ瞬間――

 ねむの心臓が、どくん、と一回大きく跳ねた。


(……聴かれてた、んだ)


 昨日、ここから歌ったNem’s Nightを。

 配信のアーカイブじゃなくて、

 “壁越しの生歌”を。


 ハミングは、二小節ほど続いて、ふっと消えた。

 代わりに、トントン、と指の関節で壁をなでるような小さな音がする。


(え、これ……)


 “ノック”と呼ぶにはあまりにも弱い。

 でも、“たまたま当たった”にしては、リズムがありすぎる。


 コン、コン。


 一拍、空白。


 ねむは、布団の中で固まったまま、

 しばらく考えた。


(今、返したほうがいい……?

 いや、でも、向こうは私が起きてるって知らないかもしれないし……

 そもそも、これ、ただの物音かもしれないし……)


 頭の中でぐるぐる言い訳を並べているうちに、

 ノック音は二度と鳴らなかった。


 かわりに――スマホの画面が、もう一度震えた。


【Lumière/水城レン】

《おはよう、ねむちゃん。

 新居初配信、おつかれさまでした。


 ・アーカイブ30万再生突破

 ・Nem’s NightのEDフルについて、

  制作会社から正式に打診が来ています


 今日の夕方、簡単に打ち合わせできる?》


「……あー……」


 変な声が出た。


(隣の人のこととか考えてる場合じゃなかった)


 慌てて返事を打つ。


《おはようございます。

 夕方、大丈夫です。


 Nem’s Nightのフル……!

 くわしいお話、きかせてください》


 送信ボタンを押すのに、

 少しだけ勇気がいった。


 壁の向こうのハミングも、

 アニメEDのフルも、

 どっちも“自分の声”に関わる話だ。


(……ちゃんと向き合わないと)


 ねむは布団から這い出した。


 二LDKの廊下は、やっぱり六畳の部屋より少し長い。

 足音が、昔よりも少しだけ響くような気がした。


 



 昼過ぎ。

 PCの電源を入れると同時に、Discordがぱんっと開いた。


【Lumière/Staff & Talents】


天音ルナ:

《ねむーーーー!!! 昨日の歌!!! やば!!!!!》


星野コウ:

《Nem’s Night、メインメロの裏でコーラス入れたくなりすぎて死んでた

 (勝手にハモり考えてた)》


黒瀬ミオ:

《アーカイブ、今見たら35万超えてる。

 サビ前のブレス変えたの誰の提案?》


ねむ:

《えっと……自分で……

 なんか、“もう半拍伸ばしたい”って思って……》


黒瀬ミオ:

《正解》


 短く返ってきた「正解」が、妙に重くて、うれしい。


凪野レオ:

《エゴサしてたら #はじめてのサビ タグで泣いた

 なんだあのタグ。天才か》


笠原サチ:

《サビでボロ泣きしました……(ご報告)》


春名ミナト:

《俺、Nem’s Night聴くと大体寝ちゃうんだけど、

 昨日は最後まで起きてた。なんでだろ》


天ヶ瀬カイ:

《恋では?》


 コメント欄のノリと変わらないテンションで、

 カイがすぐ茶々を入れてくる。


 ねむは慌ててタイピングした。


ねむ:

《恋じゃないです!!》


 送った瞬間、後悔する。

 “恋”という単語を自分の手で打ったこと自体が、

 少し恥ずかしい。


天音ルナ:

《本人が一番に否定すると逆に怪しいってしってた?》


星野コウ:

《ねむ、恋の自覚偏差値37くらいありそう》


ねむ:

《え、低っ》


黒瀬ミオ:

《箱内定期:ねむは“恋バナされても自分の話だと理解しない系”》


 わいわいしているうちに、

 画面の上部にレンからの個別通話の通知が出た。


水城レン:

《ねむちゃん、今、話せる?》


ねむ:

《はい!》


 



 ビデオ通話の画面にレンの顔が映ると、

 ねむは自然と姿勢を正してしまう。


「改めて、おつかれさま。

 新居初配信、すごくよかったよ」


「ありがとうございます……!」


 レンの声は、相変わらず穏やかで、

 でも仕事の時はすぐに“スイッチが入る”。


「まず、数字の共有ね」


 画面にスライドが映る。


■ 昨日〜今日午前までの動き

 ・アーカイブ再生:312,418 → 358,904(現在進行形)

 ・チャンネル登録者:504,382 → 512,,***(増加中)

 ・EN視聴者比率:22%

 ・アニメ公式の引用RT:いいね数 28,000、RT 14,000


「登録者、五十万をちゃんと超えたね」


「あ、ふ、ふつうに言いましたけど……

 それ、めちゃくちゃすごいことですよね?」


「うん。めちゃくちゃすごい」


 レンは軽く笑って、それから真面目な顔に戻る。


「で、本題。

 Nem’s Nightのフルの件なんだけど――」


 資料が切り替わる。


■ Nem’s Night フル尺について(制作会社からの希望)

 ・アニメEDとして60秒版+90秒版を使用中

 ・今後、フルサイズを各種配信サイトでリリースしたい

 ・可能であれば、白露ねむの“生歌収録”で正式録音したい

 ・歌い方は、昨日の配信版をベースにしたい


「昨日の歌い方をベースに、って……」


 ねむは思わず画面に顔を近づけた。


「わ、わたし、そんなに……」


「ミックス担当の人からコメントが来てる」


 レンがチャットのログをスクロールして見せてくれる。


“前回の仮歌テイクより、

昨夜の配信のほうが『歌詞と本人の経験がつながっている』感じが強い。

あの“怖いまま前に出た揺れ”をフル尺にも残したい”


 読みながら、

 ねむの頬がじわじわ熱くなる。


(あれ、配信用だからって……

 少し、感情乗せすぎたかな、って思ってたのに……)


「だから、声のコンディションが整ったタイミングで、

 スタジオで一日押さえようか、って話になってる。

 ねむちゃんの予定次第で、最短一ヶ月後くらい」


「スタジオ……」


 一度も本物のレコーディングスタジオで歌ったことがないわけじゃない。

 でも、それは誰かのコーラスに混ざる仕事だったり、

 ゲームの挿入歌で名前がクレジットされない立場だったりした。


 自分の名前で、

 自分の曲を、

 フル尺で録る。


 その重さは、

 想像するだけで胃が縮こまる。


「……や、やりたいです」


 それでも、

 口から出たのはその一言だった。


「怖いですけど。めちゃくちゃ。

 でも、やりたい、です」


 レンがふっと笑う。


「“怖いまま前に出る”のが、ねむちゃんらしいね」


 会議の空気が少しだけ緩んだ。


「じゃあ、この話は前向きに進めるとして……

 もう一個、大事な話がある」


「えっ、まだあるんですか」


「あるよ」


 レンが、いつもの真面目な顔に戻った。


「Nem’s Nightのフルが動き出すと、

 『ねむの声』というもの自体が、

 箱の中でも外でも“強いカード”になる。」


 “カード”という言い方に、

 ねむの胸が少しだけざわつく。


「もちろん、人をモノみたいに扱うつもりはないよ。

 ねむちゃんはねむちゃんで、

 所属タレントとして、ちゃんと守る」


 レンは先にそう言ってから、続けた。


「ただ、事実として――Nem’s Nightがここまで伸びて、

 各社から“コラボしませんか”“CMに起用したい”

 みたいな話が、すでに来てる」


「CM……」


「健康食品とか、夜用のホットミルクとか。

 “眠り”に関する商品が多いね。

 中には、ちょっと線引きしたい案件もある」


「線引き……?」


「具体的な商品名はここでは伏せるけど、

 “ねむちゃんのイメージに合わない/過剰に消費させる系”は、

 全部断るつもりでいる」


 ねむは、そこでやっと息を吐いた。


(……良かった)


 自分の声が、変な使われ方をしないか。

 知らないところで、誰かの不安やコンプレックスを煽る広告の

 “顔”にされてしまわないか。


 そういうことを、ほんの少し怖がっていた。


「Nem’s Nightに関しては、

 “夜に寄り添う”系のものだけに絞る。

 布団とか、リラックスグッズとか、

 あとは……睡眠導入アプリからも話が来てる」


「アプリ……」


 ねむの頭の中に、

 自分の声で「おやすみ」を言うアプリ画面が浮かんで、

 思わず顔が熱くなる。


「全部を今決める必要はないよ。

 この辺は、東雲社長も含めて話し合う。

 今日は、“そういう波が来てる”ってことだけ、

 知っておいてほしかった」


「……はい」


 ねむは、ゆっくりと頷いた。


(お金の話も、大事なんだろうけど……)


 それ以上に、

 誰に何を届けるのか、という話のほうが

 ねむにはずっと重く感じられた。


 Nem’s Nightは、

 六畳の小さな部屋でひっそり歌っていた頃から、

 「誰か一人の夜に寄り添えたらいいな」と思って書いた曲だ。


 それが今、

 アニメのエンディングになって、

 CM候補になって、

 睡眠アプリからも声がかかっている。


(ちゃんと、選ばなきゃ)


 自分の曲が、

 自分の名前が、

 誰かの“しんどさ”を増やす使われ方をしないように。


 



 会議が終わったあと、

 ねむは椅子の背凭れにぐったりもたれた。


「……ふぅ」


 頭の中が、情報でパンパンになっている。


 Nem’s Night。

 フル尺。

 CM。

 睡眠アプリ。

 音響監督の言葉。

 箱の仲間たちの反応。


 そして――

 壁越しのハミング。


(……あれも、なんとかしないと)


 “なんとか”って何を、という感じだが、

 このまま「気のせいでした」で済ませるのは、

 もったいないような、怖いような、不思議な感覚だった。


 立ち上がって、

 キッチンでインスタントコーヒーを淹れる。


 お湯の音と一緒に、

 遠くで救急車のサイレンが微かに響いた。


(二LDKになっても、

 外の世界はちゃんと動き続けてるんだな)


 当たり前のことを、あらためて思う。


 マグカップを両手で包みながら、

 ねむはリビングの真ん中に戻った。


 壁を一枚挟んだ向こう。

 誰かが住んでいて、

 歌っていて、

 もしかしたら今もNem’s Nightの続きを

 口の中でなぞっているかもしれない。


(……挨拶くらいしても、いいのかな)


 管理会社からは、

 「同じフロアに音楽関係の方が何名かいらっしゃいます」とだけ聞いている。


 Vtuberだとは言わなかった。

 Nem’s Nightのことも、もちろん。


(でも、壁越しに歌ってる時点で、

 向こうもなんとなく気づいてるよね……)


 あの上手さだ。

 音楽に興味がない人だとは思えない。


(むしろ、私だけが“知らないふり”してる立場なのかも)


 急に自分だけ子どもみたいに思えて、

 少しだけ情けない。


 マグカップをそっとテーブルに置き、

 ねむは意を決して、壁のほうへ近づいた。


「…………」


 どうするんだ、自分。

 壁に向かって話しかけるつもりか。

 だいぶ怪しい人なのでは。


 そう自分にツッコミを入れながらも、

 足は止まらなかった。


 壁の表面に、そっと手のひらを当ててみる。

 ひんやりした感触が、皮膚からじかに伝わってくる。


 何も聞こえない。

 今は、向こうの部屋は静かだ。


(今じゃない、のかも)


 そう思ったとき――

 タイミングを見計らったように、

 スマホが震えた。


【天ヶ瀬カイ】

《ねむ、夜、散歩枠やるなら、

 俺もちょっとだけ“ただいま”言いに凸っていい?》


 ねむは吹き出した。


《散歩枠ですよ? どこに凸るんですか》


《コメント欄》


《それは凸とは言わない》


《俺が「ただいま」って言ったら、

 全力で「おかえり」って言ってくれ》


《それはいつも言ってます》


《じゃあ今日もよろしくな Nem’s Night の人》


《その呼び方やめてください》


 ネタ半分のやり取りをしながら、

 ねむの胸の中の緊張が少しだけほぐれていく。


(そうだ。

 今はまだ、壁じゃなくて――

 配信のほうをちゃんとやらないと)


 隣人とのことは、“いつか”でいい。

 今は、画面の向こうにいる何万人かの“ただいま”に

 ちゃんと向き合うべきだ。


 



 夜。

 日付が変わる少し前の時間帯。


 ねむはマフラーを巻いて、

 マスクをして、

 スマホと小さなマイクだけをポケットに入れた。


「……行ってきます」


 誰に言うでもなく、小さく呟いて、玄関のドアを開ける。


 外気は、頬に刺さるほど冷たい。

 でも、嫌な寒さではない。


 歩きながら配信アプリを起動し、

 音声のみの枠を立ち上げる。


「こんばんは。白露ねむです。

 今日は音声だけで、お散歩しながら話したいと思います」


【コメント】


 きた

 散歩だ〜

 足音助かる

 新居周りどんな感じ?

 EN:Good evening Nem

 EN:Walking stream!


 アスファルトを踏む音、

 遠くの車の音、

 信号機の電子音。


 マイクが拾う環境音を、

 ねむは耳の中で確認しながら歩く。


「新居のまわり、

 思ったより静かで……

 さっきまで、部屋のなかも静かで……」


 “壁の向こうのハミング”が頭をよぎり、

 慌てて言葉を変える。


「でも、静かだからこそ、

 自分の声が、ちょっとだけよく聞こえるようになった気がします」


【コメント】


 わかる

 部屋変わると声変わるよね

 六畳時代も好きだったけどな〜

 今のほうが“生きてる感”ある

 EN:Your voice feels closer now


「六畳時代……」


 コメントでふと懐かしい単語を見つけて、

 ねむはふっと笑った。


「そうですね。

 あの部屋、すごく狭かったので……

 “ここから抜け出したい”って気持ちでNem’s Nightを書いたところ、

 ちょっとあります」


 そんな話をすると、

 コメント欄が少しだけ静かになる。


 真面目に聞いてくれているのがわかる。


「でも、

 “抜け出すために書いた曲”が、

 こうやって新しい部屋に連れてきてくれて……

 昨日はじめて、新居で歌ってみたら、

 なんか、歌詞の意味がぜんぜん違って聞こえて」


【コメント】


 あー

 場所変わると歌の意味変わるのめっちゃわかる

 歌詞全部現実になってる感じした

 Nem’s Night=引っ越しソング説

 EN:Your lyrics hit harder now


「“引っ越しソング”はちょっと笑いますけど……」


 ねむは街灯の下で足を止めた。

 息が白く広がって、すぐに消える。


「昨日、“お母さんにもいつか聴いてほしい”って

 ちらっと言ったんですけど……」


 自分で言ったくせに、

 なぜか今、その話題を出すのは少し怖かった。


【コメント】


 覚えてる

 あそこ、泣いた

 ねむママ……

 EN:Tell her when you’re ready


「まだ、準備はできてないんですけど。

 でも、昨日の配信のアーカイブを見返して……

 “これだったら、いつか見られても大丈夫かな”って、

 すこしだけ思えました」


 本当は、まだこわい。

 でも、それを全部言ってしまうと、

 今夜は泣いて終わってしまう。


「だから、

 もうちょっとだけ強くなりたいです。

 自分で“これ、届けたい”って思える歌を、

 ちゃんと歌えるようになりたい」


【コメント】


 もう十分強いよ

 怖いまま前に出てるのが強い

 無理に強くならなくていいんだよ

 EN:You’re already strong by being honest


「ありがとう」


 歩道橋に差しかかる。

 階段を上る足音が、いつもより大きく響いた。


 見下ろすと、

 街の光が小さな点になって揺れている。


(六畳の窓から見えてた世界より、

 少しだけ遠くまで見えるな)


 そんなことを考えた。


 



 散歩配信を終えて、

 ねむが「おやすみ、ちゃんと言ってね?」で締めると、

 コメント欄には、いつものように

 “おやすみ”の文字が溢れた。


 アーカイブは残さないつもりだったので、

 配信終了ボタンを押してから、

 すぐにアプリを閉じる。


「ただいま」


 玄関で靴を脱ぎながら、小さく呟く。


 リビングの灯りをつけると、

 もうすっかり“ねむの部屋”という感じがした。


 マイク、モニター、

 カメラとリングライト、

 棚に並んだファンレターの入った箱。


 六畳の頃から持ってきたものもあれば、

 この家に来てから増えたものもある。


 その全部が、

 ねむの「今」を支えている。


 ふと、さっきまで散歩配信で話していたことを思い出す。


(届いた、って思える瞬間が、

 たぶん私にとっての“生きてたい理由”なんだろうな)


 Nem’s Nightを書いたとき、

 そんな大事なことを言語化できるほど

 自分のことをわかってはいなかった。


 今は少しだけ、

 それが見えてきた気がする。


 そして――

 部屋の真ん中に立ったときだった。


 また、壁の向こうから音がした。


 今度は、

 はっきりとした歌声。


 昨日よりもクリアに、

 Nem’s Nightのサビの最初の一行をなぞっている。


「♪ 配信は まだ切れてないから――」


 低くて、あたたかい男の声。

 呼吸がきれいに整っていて、

 音程に無駄な癖がない。


 ねむの喉の奥が、一瞬ひゅっと狭くなった。


(うそ、歌詞まで……)


 もう誤魔化しようがない。

 完全にNem’s Nightだ。


 歌声は、壁に直接響いて、

 ねむの耳の中に滑り込んでくる。


 サビの一行だけを歌って、

 すぐに途切れた。


 続きは歌われない。


(……からかわれてる?)


 ふと思ったが、

 声のニュアンスには悪意がまったくなかった。


 むしろ、

 “ここまでなら大丈夫?”と様子をうかがうみたいな、

 そんな慎重さすら感じる。


 ねむは、喉を鳴らしてから、

 小さく息を吸った。


 そして――

 自分も、壁に向かって歌った。


 さっき隣から聴こえたフレーズの

 “次の一行”だけ。


「♪ きみに届くように 声を伸ばすの――」


 音量は、配信のときよりずっと小さく。

 誰に聞かせるでもなく、

 誰かに届いてほしいような、

 矛盾した声の出し方で。


 歌い終えた瞬間、

 てのひらが汗でじっとり濡れているのに気づく。


(なにやってんの、私)


 自分で自分にツッコミを入れかけたとき――

 壁の向こうから、

 コン、と一度だけ、はっきりしたノック音がした。


 今度は、まぎれもなく“返事”だった。


 ねむの心臓が、誰かに上から掴まれたみたいに跳ねる。


(え、ちょっと待って……これ、本当に何してるの私)


 声を出す勇気は、さすがになかった。

 代わりに、

 指先でそっと壁を二回、叩いた。


 コン、コン。


 返事は来ない。

 それでいい気がした。


 このくらいの距離感で、

 当分はちょうどいい。


(“配信はまだ切れてない”って歌った本人が、

 壁越しに誰かとデュエットしてるの、

 相当やばい状況では……?)


 頭の片隅の冷静な自分が、

 ぼそっとそんなことを呟く。


 でも、胸の真ん中のほうは、

 やけに静かで、あたたかかった。


(……なんか、“大丈夫”って感じがする)


 理由はわからない。

 隣人が誰なのかも知らない。


 でも、Nem’s Nightをサビだけ歌って、

 それ以上踏み込まず、

 壁越しのノックで返事をくれる程度の人なら――

 きっと、そんなに悪い人ではない。


 そう勝手に納得して、

 ねむはソファにどさっと倒れ込んだ。


 



 寝る前。

 ベッドに潜り込みながら、

 ねむはスマホのメモ帳を開いた。


《今度、ちょっとだけいい話ができそうです》


 昨日書いた“母へのメッセージ未送信案”の下に、

 指で新しい行を作る。


《“怖いまま前に出た歌”が、

 誰かの夜に届いたみたいです》


 それだけ書いて、

 保存マークをタップする。


 まだ送信はしない。

 でも、言葉にしておきたかった。


 目を閉じる前に、

 ふと、さっきの壁の歌声を思い出した。


(あの人、Nem’s Night、全部歌えるのかな)


 サビだけじゃなくて、

 Aメロも、Bメロも、二番も。


(……もし、全部歌えたら、どうしよう)


 そのとき、自分は何を言えばいいんだろう。

 「ありがとうございます」なのか、

 「や、やめてください恥ずかしいです」なのか。


(たぶん両方だな)


 自分で自分の答えを出して、

 少し笑う。


 六畳の頃は、

 こうやって笑える余裕さえなかった。


 それだけでも、

 “生き方が変わった”って言っていいのかもしれない。


「配信、まだ……切れてませんよ?」


 暗い天井に向かって、

 あのフレーズをもう一度だけ呟く。


 今度は、

 自分に向けて。


 ただ、それだけを確かめるように。


 その夜――

 白露ねむは、新居で迎える二日目の夜を、

 少しだけ甘い疲れと、

 壁越しのサビの余韻と一緒に、眠りに預けた。


 明日もきっと、

 Nem’s Nightは続いていく。


 まだ、配信は切れていない。

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