第17話 結果の灯り、声の行き先
午前十時。
ポットの沸騰音が、キッチンの角で小さく跳ねていた。
カップにお湯を落とすとんという手触りが、昨夜の録音後の静けさをもう一度呼び戻す。
提出は済んだ。眠った。目覚めた。
あとは、返事を待つだけ。
スマホは机の真ん中ではなく、部屋の角に置いた。
そこに置いておくと、変な緊張が少しだけ小さくなる。
通知が来ないことも、音のない音として聞こえるから。
湯気の向こうで、配信サムネの下書きを直す。
——“待機室”。
ただ待つのではなく、呼吸を揃える場所。
そういう意味の十五分、を作る。
⸻
◆ 待機室配信(限定公開→一般)
タイトル:〔待機室〕結果を待ちながら、呼吸を整えるだけの配信
同接:12,000 → 26,000
「こんにちは、白露ねむです。
今日は何もしません。お茶を飲んで、息を合わせるだけの日です。
来てくれて、ありがとう」
『やることしない配信、すき』『呼吸合わせるの新しい』『#待機室』
『BGMなくていい感じ』『灯台の海っぽいね』
「結果は、まだ。もうすぐ、だと思う。
でも、どっちに転んでも、ここに“また明日”を置いていくのは同じ。
だから、十五分だけ、お茶」
湯気の音、マグが机に触れる音。
コメントの速度が、わざと落とされていく。
“遅くする”という、観客側の配慮。
この箱は、空気の共有のしかたが上手い。
「昨日、録音ブースで、“い”を部屋の角に置くのを覚えたよ。
“置いて”の“い”。
“また明日”の“た”を、叩かないで触れて離すのも」
『語尾の残し方講座助かる』『tを殴らないメモ』『灯台の国語』
『翻訳班、頼む』『not goodbye…』
「……うん。呼吸、そろったね。ありがとう。
じゃあ、“Good night, not goodbye”。——昼だけど、合言葉」
配信を切って、椅子の背にもたれる。
スマホはまだ黙っている。
大丈夫。灯りは消えていない。
⸻
◆ 着信
バイブレーションは一度だけ。
名前は黒瀬ミオ。
胸が一拍跳ねて、落ち着かせてから取る。
「ねむ。一次、通った。」
外の車の音が遠ざかって、部屋の空気だけが濃くなる。
「……ほんとうに?」
「ほんとうに。最終歌唱審査と、併せてアニメ側から番宣出演のオファー。
『灯台の手紙』の特番、二十分。ナレーションの仮当ても込みだって」
言葉が喉の前で止まって、やっとほどけた。
「受けたいです。受けます」
「知ってた」
ミオが少し笑う。「最終は二日後・午後。会場はスタジオ9。
課題は同じ。でも、ホール鳴りに負けない置き方をもう一段。
コーチの東雲も来る。レンとリアも。全員、君の味方」
「はい」
「もう一つ。今日の夜、アニメ会社のオンライン打合せ。
番宣のディレクターが、君の“語尾”の話を聞きたいらしい」
「語尾……」
「君の武器。胸張って話せばいい」
通話が切れる。
ねむは椅子から立って、部屋の角に置いていたスマホを、胸元に抱き直した。
灯りが、ひと段明るくなった気がした。
⸻
◆ リハ室(午後二時)——“ホール鳴り”の練習
東雲は、スタジオの中央で手を叩いた。
吸音材の部屋でも、残響の癖はある。
ホールでは、さらに遅い反射が返ってくる。
「リピートディレイを頭の中に作る。
あなたが“置いた”音が、0.4秒後に柔らかく戻るように。
戻ってくる音を怖がらない。友達」
「0.4……友達……」
「語尾の“母音”に、少しだけ息を残しておく。
そうすれば、戻ってきた音と仲良くできる。
“た”はやさしく触れて離す。
“い”は角に——でも角は丸い」
東雲はいつも、比喩がうまい。
ねむは丸い角のイメージを喉に覚えさせる。
レンがメモに**“角=丸”“戻り音=友達”**と書いて、◯を二つ重ねた。
「もうひとつ。無音の一秒を怖がらない。
ホールの一秒は、家の一秒より長い。
でも、そこで観客は息を吸う。君に合わせて。
君が吸えば、客席も吸う。——灯台」
テスト。
ピアノは入れない。息と、足音と、喉の湿度だけ。
♪ 眠れない夜に 灯りを置いて
ここにいるよって 言えるように
——(一秒、吸う)
Good night, not goodbye
戻り音が、確かに友達になって返ってきた。
ねむはそこで初めて、広い場所に向けて歌うことが怖くないと思った。
「それ」
レンが頷く。リアは腕を組みながら、口元だけ笑った。
⸻
◆ オンライン打合せ(午後七時)——アニメ側
画面の向こう、番宣ディレクター・新海と音響監督・西条。
ふたりとも柔らかい声だった。
西条が最初に言ったのは、「“また明日”の“た”、どう処理してます?」だった。
「タンギングはしません。
舌先で触れて離すだけ。殴らない。
母音で残りを支えます」
「おお、語るねえ」新海が笑う。「番宣、その話、ぜひ」
西条がモニタ越しに譜面を示す。「仮ナレ、この一節読んでみて」
台本:
「灯りは消えない。
あなたが“また明日”と言ってくれる限り。
——Good night, not goodbye」
ねむは、画面の自分を見ずに、部屋の角を見る。
角は丸い。戻り音は友達。
そして、語尾を残す。
「……灯りは消えない。
あなたが“また明日”と言ってくれる限り。
——Good night, not goodbye」
新海が一拍遅れて、手を叩いた。「これ」
西条も短く頷く。「息の残し方がいい。収録で作れる。仮当て、お願いする」
「はい。……ありがとうございます」
通話が切れたあと、ミオがマイク越しに小さく言う。「ねむ、番宣決定。おめでとう」
喉の奥が、あたたかかった。
泣きそうになるほど、ではない。
でも、泣けるくらい、嬉しい。
⸻
◆ 夜の短配信(十五分)
タイトル:一次、通過しました。
同接:38,000 → 72,000
固定:#灯台の手紙/#語尾を残す
「こんばんは。白露ねむです。
一次審査、通過。最終、行ってきます。
それから、アニメ『灯台の手紙』の番宣に出ます。
——“語尾の話”をしに」
『語尾の女王きた』『語尾で飯食ってる女』『泣いた』
『not goodbye!!!!』『翻訳班:Queen of Endings』
「みんなの“また明日”でここまで来たと思う。
だから、今夜も置いていくね。
Good night, not goodbye。
おやすみ、ちゃんと言ってね?」
無音の一秒。
コメント欄が、わざと手を止める一秒。
そのあとで、月と灯りの絵文字が雪みたいに降った。
⸻
◆ 終了後——メッセージの波
配信を切ると、すぐにDiscord。
• ルナ:ねむちゃん!!!!!!(語彙喪失)
• カイ:お前の“た”が世界を救う説、証明へ
• ミナト:最終は喉より足。歩幅を整えろ
• ユリ:語尾に砂糖のせるの、天才です
• 東雲:言葉の角、丸くできてきた。明日は休む。明後日やる
• レン:提出テイク、修正不要。寝ろ
• リア:妬んでる。でも嬉しい。複雑。寝る
ねむは笑って、短く返した。
“また明日。”
それだけで伝わる関係が、ちゃんとここにある。
⸻
◆ ベッドサイド
ライトを落とす。
今日の出来事を、手帳に短くまとめる。
一次通過。最終審査あさって。
番宣決定。語尾の話をする。
部屋の角は丸い。戻り音は友達。
無音の一秒を、怖がらない。
Good night, not goodbye。
ペンを置く。
まぶたの裏で、ステージの残響が0.4秒遅れで返ってくる。
その“友達”に合わせて、息をそっと吸う。
寝息の手前の世界で、ねむは囁く。
誰にも聞こえないくらいの小ささで。
「……灯りは、消えない」
返事は、明日。
灯台は、そこにある。
——眠れない夜は、やさしい。
目を閉じても音が消えないのは、怖さじゃなくて、生きてる合図だから。
ねむは、枕元に置いたスマホの画面を一度だけ点けた。
通知は増えていたけれど、全部は追わない。
追ってしまうと、言葉が頭に住み着いてしまうから。
大切なのは、言葉の外側にあるもの。
息を吸って、胸の真ん中がゆっくりと膨らむ。
そのまま吐いて、音をつけずに喉を通す。
呼吸は、歌の最初の音より前にある。
東雲が繰り返し言っていたこと。
喉の奥で、今日の残り香みたいに**“Good night, not goodbye”**が微かに回る。
それをすぐ声にしない。ただ、抱く。
声になる前の言葉のほうが、ずっとやさしい。
まぶたの裏で、観客席が広がる。
照明、椅子の並び、空気の重さ。
声を置く場所が、たくさんある。
怖いより、楽しみに近い。
その感覚に気づいたとき、ねむはひとつ笑う。
⸻
◆ 翌朝
午前六時半。
カーテンの隙間の光は、まだ薄い。
それでも部屋の輪郭を柔らかく浮かび上がらせるには十分だった。
机の上には、昨日の手帳。
開くと、夜中に書いた文字が少し揺れて見えた。
無音の一秒を、怖がらない。
ペンを置き直して、ねむは小さく呟いた。
「……息は、味方」
台所で、ケトルが湯の合図を送る。
湯気の立ちのぼりは、線ではなく、ゆっくりと溶ける曲線。
部屋の角の丸さと同じ。
——そう思うだけで、喉も丸くなる。
カップにお湯を落とす音が、静かに聴こえる。
⸻
◆ SNSの海(ゆっくり、触れる)
通知の波は止まらない。
でも、ねむは“全部を拾わない”。
拾うのは——呼吸の速度が合う声だけ。
• **「灯りは消えない」**というタグが、一晩のうちに小さく育っていた。
• ねむの声で眠った人たちが、「おはよう」を互いに渡していた。
• 「今日もしんどいけど、また明日でいい?」という呟きに、「うん、また明日」と返る連鎖があった。
ねむは、それを見てそっと、息を吸う。
自分の声が誰かを変えたわけじゃない。
ただ、その人が**“また明日”を言える場所を見つけられた**だけ。
それで、じゅうぶんだった。
⸻
◆ レンからのメッセージ
レン:今日の発声、午前は休み。午後に一回だけ。
無音の一秒、もっと見せろ。
“見せる”は“聞かせる”よりむずい。
でもお前はできる。
ねむ:うん
角は丸い
戻り音は友達
息は味方
レン:そう。
歌は戦わない。置いて、受け取らせる。
ねむはスマホを胸に当てた。
心臓の鼓動と少しずれることが、悪くなかった。
⸻
◆ リアからのメッセージ
リア:妬んでるのは本当だから言っとく。
でも、あなたが舞台に立つの見たい。
だから負けないでよ。
短文なのに、温度は高かった。
ねむは笑って、返信を一行だけ置いた。
ねむ:ステージ、いっしょに見ようね
⸻
◆ 鏡の前
洗面台の前で、髪を結う。
指先の動きが少しだけゆっくり。
急がない。急ぐと息が浅くなる。
鏡の中の自分は、前より少しだけ強い目をしていた。
でも、強がってはいなかった。
やさしさは、弱さと強さが同じ場所にあるときに生まれる。
それを、声が知っている。
⸻
◆ そして、ページは次へ
手帳に今日の日付を書き足す。
最終まで、あと一日。
声はある。
灯りもある。
Good night, not goodbye は、まだ続く。
ペン先が止まる。
息を吸う。
喉に置く。
言葉になる前の声が、胸でひらく。
「……また明日」
部屋の空気が、静かに寄り添った。
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