第2話 草加 初仕事と羞恥の代償

 センジュ(千住)の吟遊詩人ギルドを後にした志波詠人(しば・よみと)、重音(カサネ)、そして曽良(ソラ)の三人は、東へと伸びる街道を歩き始めた。


 センジュ(千住)の喧騒から離れると、街道の両脇には青々とした草が茂り、遠くにはなだらかな田園風景が広がっていた。道は次第に湿地帯へと差し掛かり、小さな草庵や、水田を渡るための木製の橋が点在し始める。この長閑な風景こそ、松尾芭蕉が歩いた草加特有の風情であり、詠人の旅の情緒を深める。


 詠人は心で、芭蕉の句を味わう。


――あやめ草 足に結ばん 草鞋(わらじ)の緒


 旅の初期の句で、草木が茂る道を行く情景を詠んだものだ。


「詠人さん、ぼんやりしないの」


 先頭を歩く重音が、短く声をかけてきた。重音は護衛として周囲を警戒し、曽良は詠人の少し後ろで、眼鏡を押し上げながら地図と周囲の景色を比較している。


「詠人殿。私が工面した旅の資金ですが、当面の間は持つ計算です。しかし、この旅を長く継続するためには、機会があれば仕事をこなし、資金を増強することを勧めます」


 曽良は淡々と告げた。その言葉に、詠人はシステム部長の顔で頷いた。


「承知した。確かに我々にはギルドという後ろ盾がない。実力で稼ぐしかないね」


「うん!  あたしの体術と詠人さんの『超速詠唱』があれば、仕事なんてすぐ見つかるよ!」


 重音は自信たっぷりに胸を張った。三人の役割と、旅の仲間としての和やかな雰囲気は、一日の旅で既に確立されていた。



 ◇



宿での一幕と依頼の発生


 日が落ちる前に、曽良が地図で見つけた街道沿いの小さな宿場町の宿へとたどり着いた。


「曽良くん、言われた通りこの宿、安いというのに清潔だね」


「私の経理のスキルは伊達ではありません。宿泊費と食費、安全性を全て加味し、この宿が最適解でした」


 曽良の合理的で完璧な管理に、詠人と重音は感心するばかりだった。宿の部屋に入り、重音が大きな溜息をついて座り込んだ。


「あー、汗かいた。詠人さん、あたし疲れた……」


 詠人は、元システム部長としての「部下の健康管理」の意識から、ふと思いついた。


「よし、重音さん。『俳句』の応用を試してみよう。服を脱がなくていいよ。この石鹸と句で、さっと汗を流そう」


 詠人は、重音の体術と詠唱の連携を考えた時とは違う、「清浄さ」に焦点を当てた詩情を込めて、石鹸を手に口を開いた。


――湯浴みせん 垢落ちてゆく 清流に


 詠唱が終わる瞬間、重音の身体を淡い光が包んだ。そして、その光が弾けた次の瞬間――。


「――っ!?  あ、あたしの服が透けた!?」


 重音は驚き、即座に両腕で体を隠した。詠唱の光は、重音の身体から汗や汚れだけを完全に消し去ったが、その清浄さへの強い詩情が、なんと衣服の染料までをも清め、布地が一瞬で透明な状態にしてしまったのだ。重音の、修行によって鍛え上げられたセクシーな体躯が、ほぼ丸見えになってしまった。


「ああああ! ごめんなさい、重音さん! まさか、そこまで効果があるとは!」


 詠人は慌てて目を背ける。一方、曽良は冷静だった。


 詠人は慌てて目を背ける。一方、曽良は眼鏡の位置を直し、淡々とペンを走らせた。


「詠人殿の詩は、衣服の概念を超越した清浄さまで効果が及びました。さて、この驚異的な詩の効果を正確に記録するためには、詩の影響下にある対象の身体的特徴を数値化する必要がございます。記録官として重要な身体的特徴についてですが……」


 曽良はそのまま、詠人が顔を背けている間にも、冷静な分析を続けた。


「重音殿の身体は、体術家として筋肉と脂肪のバランスが極めて優れています。目視による計測結果を申し上げると、バストは八三・六センチ、ウエストは五七・一センチ、ヒップは八五・四センチ。驚くべきことに、これは黄金比に近い理想的な数値です。なぜ当たるのか、と聞かれても困ります。見ればわかります」


「なっ……!  八三点六って何!?  気持ち悪い!」


 重音は羞恥心と怒りで顔を真っ赤にする。詠人は思わず曽良を見た。曽良は、分析対象を前にした研究者のような、真剣な表情をしていた。


「詠人殿の詩情が、衣服の概念すら超越した清浄を求めてしまったと記録しておきます」


 曽良は淡々と分析を終えた。詠人は額に手を当て、反省する。


「もう一度、今度は衣服に影響がないように詠むよ!」


「い、いらない! もういい! 変態に裸を見られるくらいなら、普通の汚れでいい! あたしは普通の風呂に行く!」


 重音はきっぱりと断ると、浴衣姿のまま、客室から飛び出していった。詠人と曽良は顔を見合わせ、静かに溜息をつく。


 その直後、宿の主人が客室に顔を出し、彼らの旅費の件を聞いていた曽良に、意を決したように相談を持ちかけた。



 ◇



依頼の受注


「旅人さんたち、よければ私の願いを聞いてくださらぬか。実は、街道沿いの森でウルフ型の魔物の出没が激しくなり、旅人が減って困っております」


 主人は困り果てた表情で、街道の状況を説明した。


「ウルフ型の魔物ですか。それは旅の安全に関わる由々しき問題ですね」と曽良が冷静に聞き返す。


「はい。退治してくれたなら、相応の報酬を出します。どうでしょうか?」


 曽良はすぐに詠人へと視線を向けた。詠人は、宿の主人の切実な表情を見て、すでに頷いていた。


「資金は必要だ。依頼を受けよう。曽良くん、報酬の交渉を」


「承知いたしました」


 曽良は主人と向き直り、即座に交渉に入った。


「失礼ながら、相応の報酬とは具体的にいくらをお考えでしょうか?」


「え、あ、あの、金貨二枚ほどではどうでしょうか?」


 曽良は、主人の提示額を聞き、すぐに判断を下した。


「金貨二枚ですか。一般的なギルドの相場では、ウルフ討伐のような危険を伴う依頼は金貨三枚を下ることはありません。正直に申し上げると、二枚は破格の安さです」


 主人は顔色を曇らせ、申し訳なさそうに俯いた。詠人も、曽良が無理に値切らせなかったことに安堵した。


「ですが、承知いたしました。その金貨二枚で依頼をお受けします。それが貴殿にとって無理のない精一杯の額と拝察しますので」


 主人は驚きと安堵の表情を見せ、安堵のため息をついた。


「ありがとうございます……!」


「ただし、特例として一つだけお願いがあります」と曽良は続けた。


「な、なんでしょうか?」


「今夜の夕食を、貴宿で手に入る範囲で、旅の疲れが癒えるよう、質素な旅籠料理から少しだけグレードアップしてはいただけないでしょうか。例えば、汁物を一品増やす、新鮮な山菜を加えてくださるなど。金銭ではなく、労いの気持ちで応じていただきたいのです」


 曽良は、金銭的な負担を最小限に抑えつつ、仲間が喜ぶ「旅の質」の向上を要求した。


 主人は感極まったように、目元を拭った。


「わ、わかりました。そのお心遣いに感謝します。私の精一杯のもてなしをさせていただきます! 金貨二枚と、今夜の最高の料理をお約束します!」


「交渉成立です。では、重音殿に伝えてまいります」


 曽良は宿の主人との交渉を見事に成立させ、詠人と顔を見合わせた。


「なるほど。相場は三枚以上だが、あえて二枚に留め、食事で引き換えにしたか。さすが曽良くんだ」


「我々の初仕事です。貴殿の懐事情は厳しいと見て取りました。そして、何より食費はコストとして大きい。実質的なメリットはあります」


 と、その時、曽良はハッと目を見開いた。


「しまった。重音殿に、この依頼の詳細と豪華な夕食の件をまだ報告していません。すぐに伝えてまいります」


「え、ちょっと待て、曽良くん!」


 詠人の制止も聞かず、曽良は真面目な顔のまま、スタスタと重音が向かったであろう風呂場へと向かってしまった。


 その数分後、「痛いッ!」という曽良の悲鳴と、「あたしの裸は安くない! 変態っ!」という重音の激しい怒号が、宿の廊下に響き渡った。


 やがて、曽良が顔の左半分を大きく腫らし、眼鏡が傾いた状態で客室に戻ってきた。


「詠人殿……報告は完了しました。重音殿は大変乗り気です。ただし、交渉の合意内容に、私の顔面への体術の訓練費が含まれていないことを確認しました。これも今後の記録として残しておきます」


「そ、曽良くん……お疲れ様。俺たちの最初の仕事は、金貨二枚と豪華な夕食、そして君の顔面の負傷で決定したようだ」


 詠人は乾いた笑いを漏らした。重音は羞恥心を吹き飛ばすように、即座に乗り気になった。


「ちょうどいい!  あたしの腕試しだ!」


 こうして、三人の最初の仕事が少しの犠牲と共に決定した。


 ――その夜。魔物退治へ向かう三人の姿があった。

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