【第四章 捜査と推理】 4

「先生、真理花の容態はどうですか」

 

 牛尼先生が談話室に入ってくると、ぼくはソファから立ち、彼女の元へ駆け寄った。

 

 真理花は柳沢オーナーと岳飛さんの手で三号室に運ばれた。ぼくは真理花についていたかったのだが「服を着替えさせる」と牛尼先生と卯月さんから許可されず、こうして談話室で待つしかなかった。

 

「何とか今は安定して眠ってるわ。ところで魁くんあなた、真理花ちゃんの体質をご存知かしら?彼女、低くない頻度でああして発作を起こしては気を失ってるのよ」

 

「えっ?」

 

 初耳だった。真理花も真介も、全然そのような話をぼくにしてくれなかった。……二人の事だからきっと、ぼくに気を遣ってくれたのだろう。

 

「生まれつき身体が弱いの。最近のものだと十月の下旬頃ね。ただ、ほとんどの場合は救急搬送して処置しなければならないような大事には至らず、一時的な発熱だけで済むけどね」

 

 牛尼先生はそう言うが、真理花は朝からたびたび汗を流していた。微かではあるが予兆はあった。そんな体調の優れない彼女をぼくは捜査に付き合わせ、凄惨な遺体を見せるなどして負担を掛け続けたのだ。

 

「そうだったんですね。ぼくがもう少し、彼女に気を配っていれば……」

 

 ぼくは深い後悔に沈んだ。

 

 そんなぼくの脇を牛尼先生は通り抜けていき、先ほどまでぼくが座っていたソファに腰を降ろすと、静かにぼくを見据えた。

 

「それで? パートナーの真理花ちゃんは倒れちゃったけどどうするの、捜査の方は」

 

「それは……」

 

 言葉に詰まる。もはや真理花が倒れた事で捜査の事など、どうでも良くなっていた。この時のぼくはただ、真理花の一刻も早い回復を願っていた。

 

 それでも、ふの抜けた弱い所を人に見られたくないという、馬鹿げた下らないプライドが邪魔をして、正直にそう言えなかった。そんなぼくに対し、牛尼先生は鼻を鳴らす。

 

「いくら有名大学に通ってるエリートとはいえ、殺人事件の捜査は一人じゃ出来ない……か。確かに殺人事件といえば警察でも、何十人という単位で経験豊富な捜査官が捜査に当たるというのに。やっぱり小説に出てくる探偵みたいに一人で真実を暴くなんて不可能な話だったわね。きっと真理花ちゃんは今、失意の中にいるでしょうね。せっかく現場に赴いて、人から話を聞いて、色々と推理もしたのに発作を起こしてダウン。おまけにパートナーのやる気もないときた。悔しいでしょうね、ここまでやってきたというのに」

 

 牛尼先生はわざとぼくの精神を逆撫でしようとしているのが分かった。あえて挑発的な事を言って、ぼくを奮起させようという狙いなのだろう。だが先生の言っている事は一理ある。

 

 ぼくは真理花を想い、牛尼先生のこの挑発に乗った。

 

「……そうですね。ぼくまでここで立ち止まってしまったら、今までの捜査が、真理花の努力が無駄になってしまいますよね」

 

 牛尼先生は満足げに微笑を浮かべた。

 

「そうだ、犯人が開けたと思しきペンションの裏口を見ていませんでしたから、今から見てきます。何か犯人に繋がる痕跡が残されているかもしれません。捜査再開です」

 

 そう言って、ぼくは談話室を後にした。

 

 裏口の正確な場所が分からなかったぼくは、しばらくペンションの一階を探索した後、最後に『STAFF ONLY』と書かれたプレートが貼り付けてある扉の前に立った。探索の結果、裏口の扉と思しき物はどこにもなかったので、裏口がありそうな残りの場所といえば、この従業員の居住区の中しかないと思ったのだ。

 

 扉には鍵は掛かっていない様子だったが、仮に発覚しなかったとしても、『STAFF ONLY』の場所に断りもなく侵入するのは抵抗があった。

 

 ……また、岳飛さんに頼んで入れてもらおうか。

 

 そう考えていた時、扉の向こうから声が漏れてきた。好奇心に突き動かされたぼくは、入るのはともかく開けるのは構わないだろうと、少しだけ扉を開けて聞き耳を立てた。

 

 途切れ途切れではあったものの、聞こえてきたのは怒号だった。どうやら二人の人物が言い争いをしているらしい。

 

「この期に及んでまだ――使わせてくれないのか」

 

 言い争いをしている一人は柳沢オーナーだ。彼はいつもの平身低頭で穏やかな口調をしていたが、今の彼の声には明かな〝恐れ〟が伺えた。

 

 そんなオーナーに対して、もう一人の人物が言い返す……言い返していたのだと思う。声の太さからして、相手も男性であるらしかったが、何を言っているのか、その内容を聞き取る事は出来なかった。もはやあれは、理性や知性のある人間の言語を用いた反論ではなく、どちらかといえば、パニック映画にでも出てくる得体の知れない怪物の咆哮だった。

 

 ぼくは瞬時に消去法を用いてオーナーと言い争っている相手を考察した。このペンションにいる男性はぼく自身と一方のオーナー、亡くなった中田さんを除けば、岳飛さんと猿渡さんの二人だけ。猿渡さんはずっと部屋に引き籠っているため、残る口論の相手は岳飛さんとなる。しかし、あの人は口は悪いが、どんなに激昂した状態になろうとも、あのような怪物めいた咆哮は出さないだろう。

 

 岳飛さんでもないとしたら、オーナーが言い争っている相手は一体誰なのだろうか?

 

「……弓嶋様」

 

「うわっ!」

 

 考えを巡らせていると突然、誰かがぼくに覆いかぶさり、床へ押し倒してきた。背中を強打したのと、一緒にもつれるようにして倒れてたその人物の身体がそのままぼくの胸部を圧迫したせいで息が詰まり、ろくに声も上げられなかった。

 

 誰だ? 中田さんを殺した犯人か? まさかぼくを殺そうと?

 

 ぼくはパニックに陥り、瞼を固く閉じて手足をばたつかせたが、ぼくの軟弱な力ではその人物を押しのける事は出来なかった。しかし、特に何もされず、間もなくその人物は自らぼくの上から退いた。胸部の圧迫がなくなり、まともに息が出来るようになって、多少パニックから立ち直ったぼくは、瞼を開けてその人物の顔を見る事が出来た。

 

「……卯月さん?」

 

 ぼくを床に押し倒したのは、隅野卯月さんだった。

 

「いきなり何をなさるんですか」

 

 ぼくは立ち上がったが、卯月さんの方は弱々しく床にへたり込んだままだった。その顔は蒼白だった。

 

 その時なぜか、ぼくの脳裏に真理花の顔が浮かんだ。

 

「どうしたんですか。何があったんです」

 

 床に膝をつけ、卯月さんと目線を同じにする。

 

「……どうしてこんな事に……」

 

 卯月さんの顔が歪み、その眼から次から次へと涙が溢れ出す。埒が明かない。ぼくは卯月さんの肩を掴んで激しく揺する。

 

「何があったんです。……答えろ」

 

 やがて彼女は、か細い声を喉から絞りだした。

 

「……小森様が」

 

 それだけ聞ければ充分だった。

 

 ぼくは卯月さんの肩から手を離すと廊下を走り、階段を駆け上がり、三号室へ飛び込む。視線をあらゆる方向へ向けて真理花の姿を探すと、ばら撒かれた造花と黄色い花瓶が床に転がっているのが入り、それからすぐ真理花の姿を捉えた。真理花は布団を被ってベッドに横たわっていた。遠目で見れば眠っているようにも見える。

 

「真理花」

 

 しかし、そうでない事は近くに寄れば分かった。彼女の額からは一筋の血が流れていた。反射的に彼女の頬へ手を伸ばし、その白い肌に触れる。まだ微かに温かみはあったものの、数年前の母方の祖母が亡くなり、埋葬直前にその手に触れた時のあの、名状しがたい死の冷たさが呼び起された。

 

 真理花が死んだ。

 

 彼女はもう、学校へ行って勉強に精を出したり、友人達と笑い合う事は出来ない。父親にほしい物をねだったり、母親に今日の夕飯が何かを尋ねたり、兄やぼくと遊びに行く事も出来ない。

 

 それらを理解するのとほぼ同時に、ぼくは意識を失った。

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