【第三章 吹雪の山荘】 2

 朝食の始まる八時までまだ時間はあったけれど、ぼくと牛尼先生、篠原先生の三人はだいぶゆとりを持って食堂に入った。テーブルの上に食器類を並べていた卯月さんが顔を上げ、笑顔をぼく達に向ける。

 

「おはようございます牛尼様、篠原様、弓嶋様。何かお飲み物をお入れ致しましょうか」

 

 声こそ張ってはいたが、先ほどの岳飛さんと同様、どこかしら疲れているような印象を受けた。やはりペンションの従業員というのは激務なのだろう。色々な雑務もあるだろうし、何より常に赤の他人の宿泊客と接さなければならない。人見知りで、気が短くて細い人が続けるのは、非常に困難だろう。

 

「それじゃあ、コーヒーを頂こうかしら」

 

「ぼくもコーヒーをお願いします」

 

「わたしは紅茶で」

 

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

 

 卯月さんが厨房に引っ込むと、ぼく達は昨日と同じ席に座った。

 

「しかし、酷い天気になりましたね」

 

 窓から覗く吹雪を眺めながらぼくは先生達に言った。

 

「一応、こうなる事は昨日の内から覚悟していましたが、やはりこうして現実のものとなると残念です」

 

「滑る事を楽しみにきてる人達にとってはそうでしょうね」

 

 牛尼先生の顔は、どこか安堵しているような印象を受けた。

 

「先生は楽しみじゃなかったのですか、スキーは」

 

「正直に言うと、屋外で身体を動かす事よりも屋内で本を読んでる方が好きなの。あなただって本当はそうなんじゃない? 佳子にしても、料理目当てでここにきたみたいなものだし」

 

 牛尼先生の発言に、篠原先生は鼻を膨らませる。

 

「失礼ね。わたし、スキーも好きよ」

 

「それでも食べる事には劣るでしょ。……でも確かに、外の空気を吸えないのは気持ちが萎えてくるわね。早く止んでくれないものかしら」

 

「お待たせ致しました」

 

 卯月さんが各々が頼んだ飲み物、砂糖やミルクの入った容器を盆に載せて持ってきた。恰好をつけてブラックコーヒーに挑戦してみたぼくだったが、結局一口飲んだ所で大量の砂糖とミルクをカップに投入した。ぼくの舌が大人になるのは、まだまだ先の事なのだと痛感する。

 

 飽和状態一歩手前のコーヒーを半分ほど飲んだ時、猿渡さんが食堂に入ってきた。

 

「おはようございます、猿渡さん」

 

 猿渡さんはぼくの挨拶を無視すると、昨日とは異なるぼくから離れた席に座った。……ぼくはこの人の気に障るような言動をしただろうか? いずれにせよもう、この人と仲良くなるのは諦めた方が良さそうだ。

 

 朝食の始まる八時が近づいてきた。厨房から上品でおいしそうな香りが漂ってくる。

 

「真理花ちゃんと中田さんがまだね。一体どうしたのかしら」

 

 牛尼先生が心配そうに言った。昨日から推理小説の話ばかりしているせいか、ぼくの胸中に不安が込み上げてきた。

 

「少し、様子を見てきましょうか」

 

 腰を上げようとしたその時、騒々しい足音が近づいてきて、勢い良く食堂の扉が開かれた。

 

「申し訳ありません! 寝過ごしました!」

 

 真理花だった。胸中の不安が消える。

 

 彼女は小走りでぼく達と同様、昨日と同じ席に向かい、腰を降ろした。

 

「おはよう真理花ちゃん。心配しなくてもいいわよ、まだ時間になってないから。それより大丈夫? 完全に息が上がってるけど」

 

「日頃の、運動不足が、こんな所で、祟るとは、思い、ませんでした……」

 

 真理花の額には玉のような汗がいくつも浮かんでいた。今度は何だか申し訳ない気持ちになる。

 

「ごめんね真理花。アラームが鳴った時点で起こせば良かった。水でも貰ってこようか」

 

「ありがとう、大丈夫。心配いらないから」

 

 そう微笑むと真理花はセーターの袖で汗を拭う。上った彼女の息が整うまで少し時間が掛かった。

 

 岳飛さん、卯月さんが食事を運んできた。

 

「おおっ! 今度は和食ですか」

 

 卯月さんに尋ねると、彼女は誇らしげに答える。

 

「はい、当ペンションではお客様に飽きがこないよう、お食事は洋食と和食を交互に出すようにしているのです」

 

 麦ご飯に根菜の味噌汁、様々な野菜の揚げ物に茶碗蒸し。小鉢には茶色い豆が沢山盛られていた。いつもシリアルやオートミールを朝食にしているぼくにとって、これは新鮮だった。

 

「……申し訳ございません。これ、食べられる方はいらっしゃいますか?」

 

 真理花が小鉢を持ち、ぼく達の眼前に軽く掲げる。小鉢を持つ真理花の手は親指、人差し指、中指の三本で、その先端しか使っておらず、まるで汚物でも持っているかのよう。更に眉間に皺を寄せて歪ませたその表情は、心の奥底から不快を訴えていた。

 

「あら真理花ちゃん、あなた納豆が嫌いなの?」

 

「存在自体認めたくないですよ……」

 

 昨日のにんじんとは異なり、百年経ってもそれは克服出来そうになさそうだった。

 

 ――納豆。これがそうなのか。

 

 ぼくは改めて自分の手元にある、小鉢に盛られた茶色い豆を見た。大豆を用いた日本の発酵食品の代表であるが、その独特な見た目や味から、日本人ですら好き嫌いの別れる食べ物であるという。その存在は小説などから得た情報で知識として知ってはいたが、こうして実物を見るのは初めてだった。よく見ると、細かな糸を数多に引いているのが分かった。確かに好き嫌いの別れそうな食べ物であるというのは頷けたが、ここまで真理花が嫌悪するその様子に、かえって興味をそそられた。

 

「嫌いなものを無理に食べる必要はないわ。佳子、代わりに食べてあげなさい」

 

 牛尼先生は納豆の入った小鉢を真理花から受け取ると、それを篠原先生のランチョンマットの上へ置いた。

 

 八時になった。厨房から柳沢オーナーが出てくる。

 

「皆様、おはようございます。……中田様はまた、いらっしゃらないのですね……」

 

 オーナーは一瞬だけ、げんなりとした表情を見せた。昨日の篠原先生の一件が尾を引いているのだろう。その篠原先生を横目で窺ってみると、数多の青筋が額に走っていた。

 

「オーナーおれ、ちょっと様子見に行ってきましょうか」

 

 岳飛さんの申し出をオーナーは制す。

 

「ありがとう。だが私が行こう。……皆様、申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さい」

 

 オーナーが食堂から出ていくと同時に、大きな舌打ちがぼくの右隣の席から発せられ、食堂に響いた。視線が岳飛さんと合うと、彼は「だから言っただろ」と言わんばかりに肩をすくめる。……確かに、篠原先生とは距離を置いた方が良いかもしれない。

 

 そして一、二分ほどが経った頃、再び外から慌ただしい足音が聞こえてきたかと思えば、オーナーが食堂に飛び込んできた。

 

「大変だ!」

 

 オーナーは飛び込んでくるなり叫んだ。

 

「外から声を掛けても返事がない。だから鍵を開けて中を見たら……」

 

 先ほどの真理花と同様、オーナーも息が上っていた。しかし彼女と異なる点は、彼が完全なパニック状態に陥っていたという点だろう。ぼく達はそんなオーナーの様子から、何かただならぬ事態が起こった事を悟った。

 

「どうしたんですオーナー。何があったんです」

 

 岳飛さんと卯月さんがオーナーに駆け寄る。二人の若者に心配されて、多少落ち着きを取り戻したのか、オーナーは息を整えるとぼく達に告げた。

 

「部屋で、中田様が亡くなっております」

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