第42章 欠けた朝<緋山 いつき>
夜明け前の部屋は、
静かすぎて、時計の針の音すら響かない。
心当たりの場所を探したけれど
結局アツシは見つからなかった。
玄関のドアを開けた瞬間、
胸の奥で“何か”が崩れる音がした。
(……おかしい)
空気が違う。
部屋の匂いが、薄くなっている。
俺は靴を脱いで、
ゆっくりと部屋の奥へ進んだ。
テーブルの上には、
マグカップが二つ。
ひとつは、俺のラッキーカップ。
もうひとつは――比未子のもの。
どちらも、
もう冷たく乾いていた。
「……比未子?」
返事はない。
寝室を覗く。
ベッドはきちんと整えられ、
タオルケットは折り畳まれていた。
机の上には何もない。
化粧ポーチも、歯ブラシも
置いてあったピアスも消えていた。
その“整いすぎた静けさ”が、
逆に恐ろしかった。
「……嘘だろ」
俺はフラフラと無意識に、
クローゼットの扉を開けた。
中は、空っぽだった。
ハンガーが数本、
風の抜ける音だけを立てて揺れていた。
その時、
机の上に一枚の封筒があることに気づいた。
白い便箋に、
丁寧な文字で名前が書かれている。
――『いつきへ』
指先が震えた。
便箋を開くと、
そこにはたった数行の言葉が綴られていた。
ごめんなさい。
もうわたしはここにはいられません。
あなたの隣で笑う資格が、わたしにはないの。
どうか、音楽を続けてください。
それだけが、わたしの願いです。
比未子
文字の端が、
少しだけ涙で滲んでいた。
俺は手紙を握りしめ、
声にならない声を吐き出した。
「……なんでだよ…!!
くそ…なんでなんだよ…!!!!」
ギターの弦が指に食い込むような
痛みが胸を刺す。
比未子の残り香が、
まだ部屋の奥にわずかに漂っていた。
柔軟剤と、コーヒーと、彼女の温度。
でも、それも風に混じって
すぐに消えていく。
床に膝をついた。
手紙が手の中でくしゃりと音を立てた。
「……うあああああああああ!!!!!!」
その叫びは、
部屋の壁に吸い込まれて消えた。
目を閉じると、
ステージの光と、比未子の笑顔が脳裏に浮かぶ。
それが――最後だった。
***
数時間後。
スマホが震えた。
ヒカルからのメッセージ。
「ダメだ アツシの行方はやっぱりわからない」
俺は数時間ぶりにゆっくりと顔を上げた。
目の前には、
比未子のいない部屋。
胸の中には、
名前の消えた“喪失”だけが残っていた。
(…俺は…仲間と恋人を同時に失ったのか…)
握りつぶした手紙の皺が、
まだ温かかった。
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