第33章 罪の温度<佐伯 比未子>

夜の雨が、街の灯を滲ませていた。







歩道に反射するネオンが揺れて、

踏み出すたびに足元の水たまりが

小さな音を立てる。









(…どうして、来ちゃったんだろ)








傘を持つ手が震える。






心の中では何度も“帰ろう”と思ったのに、

彼のメッセージの内容が

気になって仕方なかった。







《今日空いてませんか?お話がしたいんです》






目の前には、「Clover」の裏手にあるアパート。

そこが、アツシさんの住んでいる部屋だった。






メッセージを送ると、すぐに既読がついた。







《近くにいるんですか?

 …寒いでしょう、上がってください》









***









玄関を開けた瞬間、

ふわりと漂うコーヒーの香りが迎えてくれた。






部屋の中は整頓されていて、

まるで彼の几帳面な性格が

そのまま形になったようだった。







「すみません、突然……」


「いや。むしろ嬉しいです、

 こんな夜に来てくれるなんて」







アツシさんは穏やかに笑って、

タオルを差し出してくれた。






「濡れてますよ。風邪ひきます」


「…ありがとうございます」







マグカップを二つ並べ、

彼はいつものように丁寧にお湯を注ぐ。





その手つきが、やけに優しく見えた。






「吹雪さんと練習だったんですよね?」


「ええ。彼女に言われました。

 “いったん手放そう”って」


「…手放す…って…」


「でもね、比未子さん。

 あの人の言葉、正しいんです」






彼はカップを見つめたまま、

小さく笑った。





「僕、最近ずっと怖いんですよ。

 自分が自分に嘘をつくようになって。

 それに――」


「それに?」


「比未子さんのことまで壊しそうで」






その言葉の重さに、胸の奥がざわついた。






「…そんなこと、ないです」


「ほんとに?」


「だって…わたしはアツシさんに救われてます」






言葉が出た瞬間、自分でも驚いた。









(何を言ってるの、わたし…)










アツシさんが小さく息を吐き、

ゆっくりとこちらを見る。








「緋山はあなたにとってだけじゃない。

 僕やそれ以外の人間にとっても光なんです。

 でも…僕が欲しい光は…」


「…アツシさん」


「ねえ、比未子さん。

 あなたにとって“僕”ってなんですか?」










返せなかった。

その問いは、痛みと優しさを同時に孕んでいた。







彼を守るべきなのは…わたしだ。

わたしが彼を照らしてあげなきゃいけないんだ。







「…アツシさん。もう悩まないで。

 あなたの苦しみ、わたしも半分

 持ってあげたいんです」


「…比未子…さん…」







わたしは、

彼の差し出した手に、指先で触れた。






冷たかった。







でも、確かに“生きてる”と感じた。











いつきとは真逆でわたしが与えてあげなきゃ

消えてしまう…そんな脆さを彼は持っていた。








次の瞬間、距離が消えた。









彼の腕が唐突にわたしを抱きしめた。

わたしはほんの一瞬だけ世界を見失った。







「…ごめんなさい」








その言葉が、

どちらのものだったのかも

もうわからなかった。







ただ、二人の間に残ったのは、

熱でも、涙でもない――

“罪の温度”だけだった。






ゆうみの言葉がまた反響する。








「あたしのこと頭おかしいって思った?

 でも人ってね、理屈じゃない時ってあるの。

 いい子のあなたにはわからないだろうけど」








「でも比未子ひみこにだって












そうだね…わたしも分かってしまった。

あの時の親友の最後の言葉の意味が。

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