第5話 『戦略官、正式任命』
魔王国ヴェルデアでの生活が始まって、一週間が過ぎた。
朝起きて、資料を整理し、地図を睨み、夜には疲れ果てて寝落ちする。
そんな日々を、カイルは淡々と繰り返していた。
魔族たちは、依然として彼を「奇妙な人間」としか見ていない。
けれど、その目つきは少しずつ変わりつつあった。
「おい、あの人間、なんかずっと紙と格闘してるぞ」
「でも最近、補給遅延がなくなった。あいつのせいじゃねえのか?」
「……あんな地味な仕事で何が変わるってんだよ」
嘲りと興味が入り混じった視線を背に受けながら、カイルは羽根ペンを動かし続けた。
机の上には古びた戦線図と、雑多な報告書の山。
勇者との戦争が長引く中、物資や人員の管理は穴だらけだった。
「……ここ。前線への輸送経路が三重になってるな。これ、統合すれば馬車十台分は浮く」
独り言のように呟きながら、地図に印をつける。
彼のスキル《分析》は、敵を読むためだけの力ではない。
構造の“歪み”を見抜く目でもあった。
戦術だけではなく、物流・連携・時間の流れ――それらを数字として視覚化できる。
その特異な感覚で、カイルは魔王軍の動きを整理していった。
いつの間にか、彼の周囲には魔族の兵士たちが集まっていた。
誰もが興味津々にカイルの作業を覗き込み、ざわつく。
「ここを統合して、こう動かすと――」
カイルが駒を動かすたび、地図上の流れが変わる。
戦線の動きがまるで“生き物”のように見えてくる。
「……なるほどな、これが“分析”ってやつか」
「うちの指揮官どもより、ずっと理屈が通ってるぞ」
気づけば、敵意を向ける者は少なくなっていた。
冷たい城の空気が、ほんの少しだけ柔らかく感じられる。
その日の夜、リリアが資料室に姿を見せた。
「お前、寝てるか?」
「見ての通り、働いてます」
「……本当に、変わった人間だな。魔族でも、こんな勤勉な奴は少ない」
「生きるためですよ。何もしなければ、俺はここで“ただの捕虜”のままですから」
リリアは肩をすくめて、わずかに笑った。
「その割に、随分と楽しそうに見えるけどな」
「まあ……こういうの、嫌いじゃないんです」
小さな静寂が流れた。
そのとき、城中に重い鐘の音が響く。
――召集の合図だった。
⸻
玉座の間は、異様なほど静まり返っていた。
黒曜石の玉座に座る魔王ゼルファードが、ゆっくりと口を開く。
「人間、カイル・レンフォード」
呼ばれた名に、ざわめきが走る。
大広間に集められた魔族の参謀たちは、誰もが訝しげな目を向けていた。
「お前の《分析》によって、北部戦線の損害率が三割減少した」
「……いえ、それは――」
「謙遜は不要だ」
魔王の声は低く、重く、しかし不思議と温度を帯びていた。
「数字は嘘をつかぬ。お前の働きは確かだ」
玉座の間の中央で、魔王は立ち上がる。
「よって、カイル・レンフォードを**戦略官(参謀補佐)**として任命する」
瞬間、空気が震えた。
人間を、魔王軍の正式な官職に据える――そんな前例は存在しない。
「馬鹿な! 人間を、我らの中に――」
「……反対するなら、貴様が代わりに三割減らしてみせろ」
魔王の一言で、反論は一瞬にして掻き消えた。
沈黙が支配する中、リリアが一歩前へ出る。
「魔王様。彼の有能さは私が保証します」
「そうか。では、お前が監督せよ。……人間、任務を果たせ」
「はっ」
こうして、カイルは正式に魔王軍の一員となった。
誰も予想しなかった“出世”だった。
⸻
その夜。
カイルは塔の最上階で、ヴェルデアの夜空を見上げていた。
黒い雲の隙間から覗く月は、まるで銀の刃のように鋭い。
「……人間がここまで適応するとは思わなかった」
背後からリリアの声。
月光が彼女の白い髪を照らし、淡く輝かせる。
「俺も、こんなに居心地のいい地獄があるとは思いませんでした」
「ふっ、皮肉な言い方だな」
「本音ですよ。ここの連中は、俺を見下しもしない。結果だけを見てくれる」
「そうだな。魔族は“力”で判断する。お前の力は、頭だ」
リリアはふっと笑い、風に髪を揺らした。
「……悪くない場所だろ?」
「ええ、少なくとも、昔の仲間たちよりはずっと居心地がいい」
そう言って、カイルは夜空に浮かぶ月を見上げた。
この異世界の片隅で、ようやく――
彼は自分の“居場所”を見つけたのかもしれない。
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