10:決して忘れてはならない

 ***

 

 黄色の夜空が見下ろしてくる。吐いた息が白く染まって掻き消えていく。身につまされるほど冷えた空気が生身の身体を刺してくる。

 空は黄色が深くなっている。これが夜が深くなった状態なのか、明けようとしている状態なのかは分からない。

 

 慟哭が聞こえた。私はそちらへと近づく。

 歩き始めてすぐに、人が倒れているのを見る。本来心臓がある付近に杭を打ち込んで抜いたような大穴がある。脈を確認しなくても、既に事切れているのが分かる。ああ、可哀想にな。私には何か出来ることもない。

 開けっ放しのその目をせめて閉じさせてやろうと思い、恐る恐るその軍人に触れた時、自分がその人に触れられないことに気づいた。

 

 ーー夢だ。夢でなければ、心象だ。

 とにかくそう思った。慟哭が聞こえる方向へ足を向ける。"彼"に会わなければならない。

 始めゆったりと歩いていた足が、焦燥に駆られるように回転を早くしていく。

 

 私が"彼"を見つける頃には、声も涙も、全て枯れ果てていた。しかし、"彼"だけじゃない。ここに生存している命全てが、激情の果てに命以外のその全てが枯れたように、ただそこに存在していた。

 

 "彼"の膝枕で眠る女性を見てぎょっとする。ノエルさんにそっくりだ。安らかに目を閉じている。しかし、腰から下はなく、彼女から一直線に血の道が出来ている。その道に落ちているものを直視しそうになって、すぐに目を逸らした。頭や心が理解する前に視線を外したのに、胃液が逆流してくる。

 

 吐き気を堪えながら、私は"彼"を見た。"彼"を戦争物語の兵士Aにしてはならない。同じように、忘却の果てで一人にしてもならない。

 

 反逆だなんだと言われたって、元々私だって死刑囚なのだから。

 だから、関係ない。

 私は。まだまだ何も知らない、君自身を知りたいんだ。

 

 彷徨う手はやがて確信を持って、彼の腕を掴んだ。

 

「ノルマン。……ノルマン・エドワード!」

『少尉』『少尉』『少尉』『助けて』『少尉』

『決して、この悲劇を』『忘れるな』

 

 私の声をかき消すように、どこからともなく彼を呼ぶ声がする。周りに生きている人間はほぼ居ない。死んだ人の声だ。

 それらに向かって「煩い!!」と一喝すると、初めてこちらに気づいたようにノルマンがこちらを見る。

 

「リーダー……」

「リーダーが来たよ。彼女が……セリカさん?」

 

 彼は頭が重力に負けたように頷いた。

 彼女を優しく、花の咲く場所に寝かせると、彼は手を合わせた。私も同様に手を合わせる。

 

「居住区も戦闘に巻き込まれてる。スパイニア・コロナで幸せに生きられるなんて、誰も思ってないけどさ。こんな終わり方……」

 

 息が詰まる音が聞こえた。

 

「死に目には……」

「間に合わなかった。もう、何が敵かも分からないけど、自分達以外は殺してここまで来たのに。俺は、……こういう生き方しか知らなかった。そういう育ち方をした。だから、これでいい。でも、……必死に幸せを掴もうとした彼女が、何で! どうして!!」

 

 ノルマンはゆっくり顔を上げ、空を見上げた。私たちの上には深い黄色が満遍なくぶち撒けられていて、こちらを嘲笑っていた。

 

「もし、この夜が明けたら、俺は全てを忘れていくのかな。もし、もしも、……時が経って、この戦いの記憶も無くなって、そうなったら……ここで死んだ人達皆、全員、戦死じゃなくて、悲劇じゃなくて、ただ死んだことになるのかな?」

「……ノルマン」

「『忘れてほしくないけど、幸せの足枷にはなりたくないから、その時は忘れて』なんて言われても、俺分かんねぇよ!!」

 

 何も言えない。私は研究畑の人間だ。生まれ育った場所も、この国の中でも治安のいい地域だ。綺麗な青色の海と観光名所の朱の空のある、"ここ"とは真逆の平和な地域。

 

 彼の苦しみに寄り添うことは出来ない。それをするなら、ノルマンの同郷であり悲惨さを垣間見ているエスか、蔑まれるような下層の生まれながらもがいて生きる術を知っているカインのどちらかが適任だ。

 

 私に出来ることは、一体なんだろう。

 私に出来るのは、多分、彼の言ったことを、この景色を、この悲劇によって生まれた感情を『記録』することだろう。

 

「忘れられるわけないよ。忘れられるわけないだろ! 忘れたくないんだから!! 俺は僕でいい。記憶の僕で、それでいいんだ……」

「私にはセリカさんの言ったことが分かる気がするな。君を本当に愛しているから、君の未来の幸せを祈ったんだ。でも、心に残ってもいたかった。呪いになることは分かっていても。君も、心のどこかでは分かっているんじゃない?」

 

 ノルマンはこちらを見ない。分かっているのだ。

 世間的な正解を。それから自分が大きく乖離していることも。

 

「……だから、だからいい加減にして、前に進めっていうの? 進めないよ……、進めるわけないだろ。数万人、死んだんだ。それを、些末なことだって。些末? 些末? 些末だって?」

 

 彼の声が震えている。今にも泣きそうな声なのに、彼には表情がない。心は悲しんでいるのに、身体にはもうそれを表に出す力すらも残されていないのだろう。

 

「些末なことだから、死んだ人たちは元々存在してなくて、受けた傷は別のところで受けたことになって? 何にも戻ってこないのに、何もかも失ったのに、記憶すらも奪うって? ふざけないでよ……」

 

 力無く握りこぶしが地面に振り下ろされる。乾いた砂が砂埃になって、少しだけ舞って、やがて消えた。その手が地面を抉るように土を掴んだ。

 

「奪わせるものか。だから記憶する。反逆だのなんだの知ったことかよ! 記録に残せないなら、僕は……記憶する。彼らを、……彼らをなかったことにしてやるもんか!!」

「……今ここで、君から話を聞けてよかった」

 

 彼は最後の気力を振り絞って顔を上げて私を見た。

 

「これのどこまでが本当か、夢か……分からないけどさ。少なくとも、セリカさんが死んだことと君が忘れないこと、この戦争が"存在しないことにされている"ことは事実だ。だから、私も覚えておく。気にしないで。私も死刑囚だし! 罪状が増えても大丈夫!」

「……リーダー」

 

 私は初めて、彼の仮面ではない笑みを見たかもしれなかった。少しは、彼の心を軽く出来ていたらいいと思う。

 

 そんな思いも束の間だった。肉を貫く音が冷酷に響いた。

 セリカさんの死体が、宙に浮く。よく見ると、至る所を先程まではなかった触手が貫いている。彼女は私たちから少し離れて、黄色の暗闇の中に浮いている。赤に染まった白いワンピースが、ゆらゆらと揺れている。

 音が遠くなる。それほどの、衝撃だった。

 

 彼女が笑っている。血まみれの顔で。

 目が開けられる。焦点のバラバラの瞳がある。

 口が開かれる。溜まっていた血が吐き出される。

 しばらく血を吐き出して、彼女は操られるように言った。

 

「ワたシたちノコト、決シテ忘レテナラナイ」と。

 

 ガラスが割れる音を聞いた。

 

 ***

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