(10)講義室の静けさ-雪透サイド
大学の正門を
ポケットの中の携帯が小さく震えたので、すぐに取り出し、画面を確かめる。
【大学に着きましたか?】
義妹からのLINEに「着いた」と返すと、既読はいつも通りすぐに付いた。
俺は携帯をしまい、そのまま校舎へ向けて歩き出す。
校舎に入ると、講義室に向かう通路で、視線が顔に刺さる。
同時に、女子学生が数人、何かを囁く様子が目端に映った。
「見て、氷川君だ」「ああ、特別選抜の」「身長たか……」「彼女いるのかな?」「静かでクールだよね~」
――俺は視線を前に置いたまま、歩幅を変えずに歩き続ける。
囁き声はすぐに遠のいていった。
講義室の中は相変わらず空いていた。
大学は高校とは違い、席もまばらで誰にも干渉されない。
木曜の講義は一コマだけだ。
近現代文学の講義室で後方に座る。ノートを開いて、必要なことだけを書く。
今回の講義内容は、要約すれば「視点の置き方次第で、同じ出来事も変わって見える」という話だった。当然のようにも思える話だが、俺にとっては関心深いテーマだ。要点だけを拾い、ノートに二行残す。
教授の声は一定で、板書のスピードも安定している。
視点によって見え方が変わる――それは、物書きであればよく知っていることだ。
しかし、知っているからといって、それを現実で活用できているかどうかは別の話である。
そう、
黒羽のことを見ている時、俺はきっと狭い角度からしか見られていない。
黒羽のことを知りたければ、彼女との時間を増やす事だけではなく、俺の視野を広げる必要もあるのだろう。
……そこまで考えて、ペンを止めた。
(…………)
黒羽は今、何をしているだろう。受けている授業は数学か、英語か。黒板を見たまま、そんなことを考える。
最近黒羽の表情が少し柔らかくなったのは、おそらく気のせいではない。
今朝の黒羽の反応を思い出すと自然に口元が緩みかけたので、誰が見ているわけでもないのにペン先を見てごまかす。
講義の終わりを告げるように、教授が時計を見てノートを閉じた。
前の列が先に立ち上がり、椅子の脚が床をこする音がいくつも重なる。
ペンを仕舞おうとしたところで、前方の一人が席の前まで来て、こちらに向かって片手を上げた。
「よっ」
「……お前か」
「お前かってなんだよ! 友達に向かってひでえヤツだな」
……こいつは谷口。
たまたま同じ高校出身で、たまに同じ講義を取るだけの……まあ、一応は友人だ。
「氷川、どうせ今日も一限だけだろ。ちょっと早いけど飯行かね?」
「まだ十時半だぞ」
「いいじゃん、俺も二限サボるしちょうどいいだろ」
「俺はサボりじゃない。……けど、この後は教授のところに行くだけだしな。まあいいか」
俺は椅子を引いて立ち上がると、ノートとペンをまとめ、鞄に仕舞った。
「じゃあ学食行こうぜ」
「いいけど、俺は弁当あるからな。席だけ取っておくから一人で注文してこい」
「またかよ。どうせ例の妹だろ」
「ああ」
「不公平だーー。女の子の手作り弁当を相手に、こっちは学食の麺じゃ分が悪すぎるって……」
「知るか」
俺の短い返事に笑いながら肩をすくめる谷口と一緒に講義室を出る。
食堂は時間を外しているおかげかまだ混み始める前で、窓際の四人掛けに荷物を置いて席を確保した。
俺は弁当箱の留め具を外し、箸を手に取る。いつも通りの美味そうな匂いが立った。
箸を取った指先に、かすかな柑橘の香りが残っている。
弁当を眺めていると、谷口が麺を持って戻ってきた。
「はぁ……できた妹がいて羨ましいわ」
俺の弁当を見た後、自分の丼を見てため息を吐く谷口。
「……まあな」
谷口とはそれなりに長い付き合いだが、妹がいると話しているだけで義理の妹だとは言っていない。
それは、俺が親しさに関係なく、他人に家庭のことを話さない性格だからだ。
(……しかし、黒羽を褒められて悪い気はしないな)
こいつのいいところは、まず人の長所を見るところだ。
あまり深く考えずに、相手のいいところを探して言葉にする。
そうでもなければ、俺のような無口な男とここまで友人関係が続いていないだろう。
俺はそれなりに男友達がいるが、基本的に深くは関わらない。
それこそ、ぼかしているとはいえ、妹の話をするのはこいつくらいだ。
取るに足らない雑談を交わしつつ箸を進めていると、ポケットの中で携帯が小さく震えたので、画面を開く。
【お昼を食べました】
黒羽からのLINEを確認して、同様の内容を返す。
相変わらず、既読はすぐについた。
画面を伏せると、向かいの谷口がこちらを覗き込むようにして言った。
「彼女か?」
「なわけあるか。妹だ」
「はいはい、またですか……愛されてますなぁ」
「……」
箸を持ったまま少し考える。
傍から見たら、そう見えるのだろうか。
否定するのも違う気がして、結局何も言わずに口を閉じた。
……まあ、不思議と悪い気はしなかった。
「そうだ、今週の週末、合コンあるんだわ。どう?」
「行くと思うか?」
「……へーへー、そうですよね、愛する妹ちゃんが待ってますもんね」
「…………」
余計な装飾が付いているのを置けば、理由自体は間違っていないので何も言えない。
また何も返さずに、俺は空になった弁当箱を閉じて鞄に仕舞った。
席を立つと、谷口が麺の器を片付けながら手を振る。
「じゃ、俺は二限サボって図書館で寝るわ。天才は風邪ひかないって言うし」
「その前にお前は単位を落とすな」
「……うるせえ。じゃあな、また連絡するわ」
軽く手を上げて応え、俺は学食を出た。
そのまま研究棟へ向かう。
冬の風が廊下を抜け、ガラス越しの光が白く床に伸びている。
研究室の前でノックをすると、すぐに返事があった。
扉を開けると、教授が顔を上げてこちらを見る。
「ああ氷川君。先日のレポート面白かったよ。
『文学的感情表現の心理的影響』の考察、実によく考えてあって君らしい」
「ありがとうございます」
「ああ、そうだ。氷川君、良ければでいいんだが……来月のコロキウムで、五分でいいからスピーチをやってくれないかな。適任が君しかいなくてね」
「はい。分かりました」
「そうか、助かるよ。本業で忙しいところ、君には頼み事ばかりで申し訳ないね。よろしく頼む」
「いえ、好きでやっていることなので」
教授が軽く頷き、机の上の原稿に視線を戻す。紙をめくる音がしばらく続いたあと、部屋に静寂が戻った。
「そうだ、これもお願いできるかな。前回まとめた研究データの一部、文献番号がずれてるんだ。確認と修正を頼みたい」
「分かりました。ここで作業しておきます」
「助かる。終わったら私の机に置いておいてくれ」
教授が出ていくと、部屋の空気が一段と静かになった。
印刷機の音と、遠くの講義室から漏れる声だけが微かに響いている。
モニターに映る文字を眺めながら、原稿の修正箇所を赤で記していく。考えることと書くことの境目が曖昧になる時間だ。
静けさが集中を誘う中、時計の針が進む音だけが、かろうじて時間の存在を意識させていた。
教授から預かった文献を一枚ずつ照らし合わせ、番号を修正してファイルにまとめていく。同時に、自分の資料の進行状況も確認する。
――紙をめくる指が、いつもよりわずかに滑ることに気付いた。手元から柑橘の香りがふっと立って、意識が静かに戻される。
気づけば、外の光が少し傾いていた。時計を見ると、針は十五時を回っている。
俺は肩を軽く伸ばして、机上の書類を整えた。
教授にメモを残して、研究室を出る。
廊下の空気はひんやりとして、窓際には淡い陽光が差し込んでいた。
静かな時間が続いても、退屈はしない。むしろこうして何かを積み上げている感覚が、自分を落ち着かせる。
今の俺は、作家業に加え教授の実質的な助手の役割を担っているため、確かに教授の言う通りで負担は大きい。けれど、文学に関する研究は俺の興味関心を引くもので、自分の意思で行っている。
そこに関心を引かれる理由は言うまでもないが、とにかく、必要なことなので苦痛にはならないということだ。
講義棟へ戻る途中――名前も知らない女子に声を掛けられた。
……いや、失礼な話だが、〝覚えてない〟が正確だろう。
「あ、氷川さん探してたんです! 金曜に文芸サークルのみんなで飲みに行くんですけど、良かったら来ませんか?」
「ごめん、妹と約束があるから」
「あ……そうなんですね、分かりました。また誘いますから!」
そう言い残すと、女子学生は小走りで去っていった。
その背中を見送り、ポケットの携帯を確かめる。新着の通知はない。
校舎を出ると、構内の時計は十五時半を指していた。
ベンチでノートを見直しながら時間を潰していると、
【もう少しで授業が終わります。】
俺はその通知を見て、すぐにノートを仕舞った。
鞄の口を閉じると、立ち上がってそのまま門に向かって歩き出す。
正門を出て顔を上げると、そこには冬の空が薄く広がっている。
今から向かえば、黒羽の下校時刻にはちょうどいいだろう。
歩幅を整え、俺は門を離れた。
――冷たい風の中で、授業を受ける黒羽の横顔がふと頭に浮かんだ。
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