(幕間)日曜日


 日曜の午前、窓際のカーテンはまだ弱い陽を柔らかく透かしていた。


 リビングのテーブルにはノートと参考文献が数冊置かれ、万年筆の小さな擦過音が、時折しずかな部屋に線を引く。


 雪透は朝から、教授に頼まれた考察の追記と自分の原稿の推敲を交互に進めていた。


 段落の切れ目で視線を遠くに投げ、言葉の重さを計量するように呼吸を整える。

 文字の列が一区切りつくと、彼はソファの背もたれに体を預けた。


 それは短い休憩のつもりだった。


 けれど、ページの余白に最後の一文を置いてから数分――指先から力が抜けていく。


 疲れは静かに限界を迎えていたらしく、ゆるやかな吐息が流れ始める。


 胸の上下は規則正しくなっていき――やがて、雪透は静かな眠りに落ちた。



 階段の上で足音が一度止まる。

 黒羽は手すりに指を置いたまま、薄く開いた目で瞬きをした。


 まぶたの内側に昨夜の熱をうっすら残したまま、朝の出遅れを悔やむように小さく息を吐く。


 寝坊の理由は、自分だけが知っていた。


 階段を一段ずつ、音を吸い込むように降りていく。


 リビングの入口で視線を上げると、ソファに横たわる雪透の寝顔があった。


「……」


 黒羽は戸棚からそっと薄手の毛布を引き出して、雪透の肩へふわりとかける。

 布が沈む感触に合わせて寝息がわずかに深くなり、唇から漏れる空気の音が、さらに穏やかに整う。


 ――毛布の端を整えた黒羽の指は、そこで止まった。


 ――伸ばせば、頬に触れられる距離。


 黒羽の指先は空気を掴んだまま、躊躇いの中に置かれる。


 昨夜の涙の記憶が指に重さを乗せて、触れてしまえばまたが来る――そんな予感が、彼女を引き留めた。


 黒羽は指を軽く握り直して、一歩だけ後ろに下がった。


 部屋の静寂を刻む時計の秒針が、時間を運び続ける。



 ――静けさが、ひとつ息をしたように揺れた。


 黒羽が目を瞬いたその瞬間、雪透の肩がわずかに動く。


「ん……」


 まつ毛が細く震え、瞼がゆっくりと持ち上がった。


 焦点の定まらない目が天井を彷徨い、次の瞬間、傍らに立つ黒羽を映す。


 まだ夢と現の境を漂うような声で、雪透はぽつりと呟いた。


「黒羽……? ……わるい、寝てた」


 眠気混じりの優しい声に、黒羽は小さく首を振って、視線をテーブルの脚へ逸らした。


「……あの。今日、朝ご飯……用意できなくて、ごめんなさい」


 喉の奥に留まっていた澱のようなものが、形を持とうとする。


 ――自分でも望んでいなかった言葉が、勝手に輪郭を結んでいく。


「…………私、兄さんの役に立ててるのかな」


 視線を床に向けたまま、指先はエプロンの裾を弱弱しくつかむ。


「――何言ってるんだ、そんなの当たり前だろ」


 淡々と。けれど温かい声で、雪透は返した。


「…………」


 ――それでも、黒羽の肩の力は抜けきらなかった。


 それはきっと黒羽が、自分が聞きたかったことを正直に形にできなかったから。


 言葉はそこで途切れて、冷たい息だけが細く続く。



 沈黙の後、雪透がソファから立ち上がった。



 ゆっくりと近づいた雪透は、黒羽の目の前に立って――


 ――手のひらを、彼女の頭にぽんと置いた。


 強く押しつけず、すぐに離しもしない、優しい触れ方で。


「……まったく。お前は何歳になっても、俺の可愛い義妹いもうとだな」


 小さな笑みと一緒に、そんな言葉を落とした。



 それだけを残して、雪透は二階に上がっていく。


 寝室に向かう背中は振り返らず、言葉の余韻だけがリビングに残った。



 黒羽はそこで、時間から降ろされたみたいに、しばらく固まっていた。


「――」


 頭に残ったぬくもりが、余計に思考を鈍らせている。


 ――遅れてやってきた理解が、頭のてっぺんから頬へ、そして胸の奥へと。


 順番に、熱を運んでいく。


(……え?)


 震える指先で頬を押さえる。


(お兄さん、なんて言ったの?)


 思考が、追いつかない。


 鼓動だけが、先に走っていく。


(雪透さんが……私に可愛いって言った……? ……え?? かっ……か、かわっ……聞き間違い??)


(えっ……でも言ったよね?? 聞き間違いじゃないよね……?? あんなに優しい目で……それに私が雪透さんの言葉聞き逃すわけないし……あれ、えっ??)


(え、てことは私可愛いと思われてたの?? それに言いながらぽんってされたし……え、異性として見れない相手にそんなことする?? ってことは脈あり? 脈ありなの……? え、顔あっつ……。それとも……もしかして、私が勘違いしてただけで私たちはとっくに付き合ってたってこと……????)


(いやでも私なんかが雪透さんに好かれるわけないしそもそもずっと妹として過ごしてきてアプローチもできてないのにそんなわけああでもでも可愛いって言ってくれたしあっそれと近づかれた時めっちゃいい香りしたんだけどいやちがうっていまはそうじゃなくてえっとえっとえっと……っ!!)


(――あああっもうわけわかんないよぉおおおっ、可愛いってなに!? いきなりそんなの反則すぎるよ……っ。もうだめ頭の中がめちゃくちゃで私おかしくなっちゃう……っ、ちゃんと説明してよ雪透さんのばかああああ!! でもかっこよすぎるよおぉおおお……っ♡)


 胸の奥で暴れ回る鼓動を押さえようとしながら、黒羽は両頬を手で包んでうずくまった。

 指先まで熱がのぼり、息を整えるたびに口に入る空気が甘くなっていく。


(ああああああああああもうっ!!! お兄ちゃん好き好き好き好き好き……っ! だいすきぃっ……♡)


 床に転がって毛布を掴んで顔をうずめる黒羽に、もう昨日の影はなく――そこにいるのは、いつもの恋する義妹だった。

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