『軍医、異世界に立つ ~その知識は、禁断の厄災を呼び覚ます~』
とびぃ
第1話 血と泥の救護所
意識が、ゆっくりと浮上してくる。
それはまるで、光の届かぬ冷たい深海の底から、微かな希望の光が差し込む水面を目指して、抗いがたい浮力に身を任せるような、そんな曖昧で緩慢な覚醒だった。最後に脳裏に焼き付いている感覚は、鼓膜を内側から引き裂くかのような凄まじい轟音と、全身の骨という骨を軋ませる暴力的な衝撃波。そして、野戦病院のテントを内側から不気味なオレンジ色に染め上げた、爆炎の灼熱。
そうだ、俺は――自衛隊の外科医官、川上剛洋(かわかみ たけひろ)は、平和維持活動の一環で紛争地帯において負傷者の治療に当たっていたはずだ。所属不明の部隊による、無差別な砲撃。それが俺の最後の記憶。
(……死んだのか?)
それが、最初に抱いた率直な感想だった。痛みも、熱さも、苦しみも感じない。ただ、全てを包み込むような穏やかな静寂が、そこにはあった。だが、死後の世界というには、妙に生々しい感覚が五感を刺激する。閉じた瞼の裏に、柔らかな光の粒子を感じる。鼻腔をくすぐるのは、嗅ぎ慣れない木の匂いと、微かな黴の匂い、そして薬草を煎じたような植物の香り。耳を澄ませば、遠くから、壁の向こう側から、くぐもった人々の喧騒が微かに聞こえてくる。
意を決し、鉛を飲ませたかのように重い瞼を、ゆっくりと押し上げた。
そこに広がっていたのは、見慣れたテントの白いビニールでも、無機質な病院の天井でもなかった。視界を占めていたのは、黒く煤けた、ごつごつとした木の梁が縦横に走る天井だった。その間を埋めるように古びた木板が張られ、石を積み上げた武骨な壁には、かつて松明が掲げられていたのであろう黒い染みが、歴史の証人のようにこびりついている。窓から差し込む光が、空気中を舞う無数の埃を、まるで生命体のようにキラキラと照らし出していた。
「……ここは、どこだ」
掠れた声が、自分の喉から発せられたことに、俺は心底驚いた。聞き慣れた俺自身の声――30代半ばの、落ち着いた低音とは違う。少しだけ高く、どこか張り詰めたような若々しい響きを持っていた。体を起こそうとして、再び強烈な違和感に襲われる。手足に力が入らないのは当然として、その手足そのものが、まるで借り物のように軽く、細い。特に、長年の執刀で鍛えられ、指先にまで神経が行き届いていたはずの筋肉の感触が、綺麗さっぱりと消え失せている。
混乱の極みに達した俺は、力の入らない腕でなんとか体を支え、ベッドの横に置かれていた簡素な木製のサイドテーブルに目をやった。そこには、素焼きの水差しと、その隣に鈍い輝きを放つ金属製の杯が置かれている。乾ききった喉を潤すというよりも、この非現実的な状況を少しでも物理的に洗い流したいという一心で、それに手を伸ばした。
そして、杯に水を注ぎ、中身を一気に呷った後、ふと杯の表面に目を落とした俺は、息を呑んだ。
磨かれているとはいえ、歪んで映る金属の表面に、全く見知らぬ若者の顔が、困惑の表情を浮かべてこちらを見ていたからだ。
歳は十代の終わりか、二十代の初め頃だろうか 1。陽の光をあまり浴びたことのないような白い肌に、やや線は細いが、意志の強さを感じさせる涼やかな目元。そして、夜の闇を溶かし込んだような、深い黒の瞳。それは紛れもなく、俺――川上剛洋の顔ではなかった。
(何が、どうなっている……? 夢か? それとも、これは一体……)
その時、ガチャリ、と重い閂の音がして、部屋の扉が開かれた。
「アシェル様、お目覚めになられましたか!」
入ってきたのは、簡素なメイド服のようなものを着た、亜麻色の髪を後ろで束ねた若い娘だった。彼女は俺の姿を認めると、心からの安堵の表情を浮かべて駆け寄ってくる。
「アシェル……様?」
俺は、オウム返しにその聞き慣れない名前を口にした。
「はい、わたくしです、リリアにございます。三日三晩、酷く魘されておられましたので、本当に心配しておりました。お加減は、如何でございますか?」
リリアと名乗った娘は、俺の額にそっと手を当てる。その親密な仕草に戸惑いながらも、俺は記憶の断片を手繰り寄せようと必死だった。アシェル。アシェル・フォン・バルサス。その名前に、全く聞き覚えがない。
「状況が……よく、分からない。私は、どうしていたんだ?」
「三日前、隣領のゲッベル子爵の斥候部隊との小競り合いで落馬なされ、頭を強く打たれたのです。それからずっと、お眠りになられておりました」
ゲッベル子爵 4。斥候部隊。落馬。知らない単語ばかりが飛び交う。ここは日本ではない。それどころか、俺の知る世界のどの国でもない可能性が高い。
窓の外から聞こえる喧騒が、先ほどよりも一段と大きくなった。鬨の声のような勇ましい叫びと、断末魔の悲鳴、そして金属が激しくぶつかり合う、生々しい戦闘音。
「外が騒がしいな。一体、何が起きている?」
俺の問いに、リリアの顔がさっと曇った。
「ゲッベル子爵の本隊が、国境の砦に……。今、グラム隊長率いる傭兵団が防衛にあたっておりますが、負傷者が次々とこの館に運び込まれて……」
負傷者。
その言葉が、俺の意識の根幹を、鋭いメスのように切り裂いた。そうだ、俺は医者だ。軍医だ。目の前で人が傷つき、死にかけているのなら、やるべきことは一つしかない。身体の違和感も、記憶の混乱も、全てが思考の彼方へと追いやられる。
「……案内しろ。その、負傷者がいる場所へ」
「し、しかしアシェル様! あなた様はまだ安静にしていなければ!」
「いいから、案内するんだ!」
有無を言わせぬ強い口調だった。自分でも驚くほど、その声には力がこもっていた。それは、この見知らぬ若者――アシェルの身体が元々持っていたものなのか、あるいは、川上剛洋という軍医の魂が、この肉体を無理やり動かしているのか。
リリアは俺の気迫に押されたように、一瞬怯んだが、やがてこくりと頷いた。
俺はベッドから立ち上がる。ふらつく足取りを壁で支えながら、リリアの後について部屋を出た。石造りの冷たい廊下を抜ける。すれ違う使用人たちが、驚いたように目を見開き、深々と頭を下げていく。どうやら、このアシェルという青年は、この館の主らしい。
やがて、一つの大きな両開きの扉の前でリリアが立ち止まった。扉の隙間から、血の錆びた匂いと、人の呻き声、そして膿の腐敗臭が混じり合った、濃厚な死の匂いが漏れ出してくる。それは、俺が紛争地帯で、飽きるほど嗅ぎ、聞いてきたものと同じだった。
覚悟を決め、扉を開ける。
そして俺は、目の前に広がる光景に、我が目を疑った。それはもはや、野戦病院などという生易しいものではなかった。
地獄。まさしく、阿鼻叫喚の地獄が、そこにあった。
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