Ⅱ-14 拉致

「くそ、まったく聞こえん……」


 捌神正教の本部、その一角にあるカルカノの私室。その扉の前で、一人の男が耳をそばだてていた。アブトマット直属の諜報部隊――通称『影』の一員である。

 命じられたのは、蛇の長カルカノの監視。部屋の中で誰かと会っているようだが、内容は聞き取れない。相手が複数人であることだけは、かすかな物音と気配から察せられた。


「何の話をしてるんだ……?」


「もう少し耳を鍛えたほうがいいよ」


「!?」


 声に驚いた男は思わず一歩後退し、周囲を見回す。だが、声の主の姿は見えない。


「誰だ……!」


 腰の長剣ロングソードに手をかけ、警戒しながら徐々に距離を取る。その瞬間、背後に気配が生じた。反射的に振り返って横薙ぎに斬り払うが、剣先は空を切る。


「そんなにビクビクしなくても」


 再びどこからともなく、女の声が響いた。姿は見えないが、間違いなくこちらを観察している――。

 男は逃走を決意し、近くの窓に手を伸ばす。地上七階だが、道具さえあれば生き延びる可能性はある。

 だが、窓にかけたはずの腕が、鈍い音とともに異様な角度へ折れ曲がった。


「ぐっ……!」


 激痛に呻く男。次の瞬間、見えない力に首を絡め取られ、身体が宙に浮いた。首を締め上げる紐が、ジリジリと音を立てながら食い込む。


「逃げられると思うのが間違いだよ?」


 足掻く男の顔が赤黒く変色していく。その様を見ながら、女はようやく姿を現した。

 小柄で、軽薄そうな声に似合わぬ鋭い目を持つ――アナである。


「……床が汚れるのは困るんだよね」


 呟くと、アナは紐を切って男を床に落とし、即座に首を捻った。くぐもった音が廊下に響く。

 その直後、カルカノの部屋の扉が開く。


「ふむ、カルカノの部下か」


「ごきげんよう、剛皇帝ガンファンディ様」


 蔡嘴ツァイズィは死体を一瞥すると「ご苦労」とだけ言い残し、部屋の中へ戻っていった。


「アナ、後の処理は頼む」


 カルカノが姿を見せぬまま命じ、扉が再び閉まる。


「はーい♪」


 アナは死体の足首をつかみ、ズルズルと奥の闇へ引きずっていった。


「蛇はやはり優秀だな」


「本来は無音で行うべきですが……アナはお喋り好きで困ったものです」


「ガハハ、それなら我にくれ」


「それは困りますよ、殿」


「やはり無理か」


 軽口を交わすが、空気はすぐに引き締まった。


「それにしても、『影』がここまで入り込むとは。ご用心を、カルカノ殿」


「私は蛇に守られています。それより、危険なのは貴方のほう。優秀な護衛をつけましょうか?ウィンチェスター殿」


「いえ、私などが急に護衛を増やせば、かえって怪しまれます。今のように軽んじられているほうが動きやすい」


「奸物ばかりだな」


 蔡嘴が笑い、二人も微かに笑みを返した。

 だが、すぐに話題は核心へと移る。


「剛皇帝、率直なご意見をいただけますか」


 カルカノは王都および各都市で発生している娼婦連続暴行殺人事件について説明した。

 蔡嘴の顔が険しくなる。


「……我には干渉はできぬ。正直、お前たちが健在なうちは内政には口を出したくない」


「それでも、どうかご意見を」


「ふむ……」


 髭を撫で、蔡嘴は言った。


「今は、ツェリスカを処刑するしかあるまい」


「……」


「処刑を示威行為とし、組織を最低でも半減させる。それでも完全に潰すのは不可能だ。だが、奴らの動きを鈍らせ、貧民窟に封じ込めればよい」


 貧民窟――それは政府が意図的に作り出したであった。犯罪者たちを隔離し、互いに潰し合わせることで治安を維持する装置である

 反政府組織をそこに封じる。それが蔡嘴の提示した現実的な解決策だった。


「……確かに、それしかないのかもしれません」


「保護した手前、ツェリスカの処刑には葛藤があるのだろう?だがな、カルカノ――統治に人情は通じぬ。今さら迷うな」


 蔡嘴の言葉に、カルカノは沈黙した。

 その時、扉が勢いよく開いた。


「猊下!」


 聖徒騎士団長ルインが駆け込んできた。その顔に浮かぶのは、いつもの冷静さではなく、焦燥だった。


「修道院に賊が侵入、ツェリスカ殿が……拉致されました!」

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