1960(イチ・キュウ・ロク・マル)―始動! アイゼンハワー暗殺計画―

ぽぽんS嬢

プロローグ:日本が割れた日

 1960年5月19日、木曜日、深夜。


 後世、歴史家たちが戦後日本の民主主義の転換点と呼ぶことになるその夜、東京永田町は物理的な暴力と怒号の渦中にあった。


 国会議事堂の中央広間は、議論の場ではなく戦場と化していた。


 新日米安全保障条約の採決を阻止するため、社会党議員たちが議長室前にバリケードを築き座り込んでいる。岸信介首相率いる自民党は、警視庁の警官隊を議場に導入するという前代未聞の決断を下す。


 制服警官が国会内になだれ込む。怒号、悲鳴、そして「ズリズリ」という、人間が引きずられていく鈍い音。野党議員は必死の抵抗をしていた。だが、物理的な力の前に議会制民主主義の手続きは無力だった。


 深夜11時49分。


 ようやく議長席に辿り着いた清瀬一郎議長が野党不在のまま、新日米安全保障条約の承認を宣言する。木槌の音が乾いた銃声のように響き渡った。


 この新安保条約は、反対派によって「日本がアメリカの戦争に自動的に巻き込まれる条約」と見なされていた。太平洋戦争の記憶がまだ生々しい国民の間には、再び戦火に巻き込まれることへの根源的な恐怖が広がっていたのである。


 そして、この「力による強行採決」という政府の手法が、条約そのものへの反対運動を、巨大な「民主主義擁護」と「岸内閣打倒」の運動へと変質させた。



 5月20日、金曜日。


 夜が明けると東京は別の都市に変貌していた。


 新聞の朝刊は一斉に政府を批判した。「民主主義の破壊」「暴力による議会支配」。各紙の見出しが国民の怒りを代弁する。


 朝日新聞は社説で「議会政治の危機」と題し、強行採決を「立憲政治の根幹を揺るがす暴挙」と断じた。毎日新聞も「警官隊導入は議会史上の汚点」と書いた。読売新聞でさえ、政府の手法を批判した。


 ラジオからは絶え間なくニュースが流れ、街角では学生たちがスクラムを組み始めた。全学連、総評、そして一般市民。怒りは地下水のように都市の底を流れ、やがて巨大な奔流となって路上へ溢れ出した。


 午後には、国会前に数千人が集まっていた。


「アンポ、ハンタイ!」

「キシ、タオセ!」


 そのリズムは心臓の鼓動のように、アスファルトを、ビルの壁を、そして人々の神経を振動させ続けた。もはやそれは単なる政治運動ではない。都市そのものが発する抗議の叫びだった。


 東京大学、早稲田大学、明治大学。各大学の自治会が相次いで声明を発表する。「無期限ストライキ」「岸内閣打倒まで闘争継続」。


 労働組合も動いた。総評は緊急中央委員会を開き、「全面的な闘争態勢」を決定した。国鉄労組、私鉄総連、全電通。日本の労働運動の中核が、一斉に反政府の姿勢を鮮明にした。


 夜。国会前のデモ隊は一万人を超えていた。警察との小競り合いが散発的に起き、サイレンの音が絶え間なく響く。


 何かが壊れた音だった。


 戦後15年かけて積み上げてきた、脆弱な民主主義への信頼が。



  5月21日、土曜日。


 民衆の怒りは収まらない。むしろ、日を追うごとに高まっていた。


 午前中から国会周辺には続々と人々が集まり始める。学生だけではない。労働者、主婦、サラリーマン、教師。あらゆる階層の人々が、路上に出た。


 午後2時。国会前のデモ隊は三万人に達する。


 機動隊が盾を構え、デモ隊と対峙する。緊張が湿った空気の中で高まっていく。いつ衝突が起きてもおかしくない。


 全学連の指導者たちが、マイクを握る。


「岸政権は民主主義を殺した!」

「我々は、この国の民主主義を取り戻す!」

「アメリカの戦争に巻き込まれることを拒否する!」


 群衆が呼応する。


「アンポ、ハンタイ!」

「キシ、タオセ!」


 シュプレヒコールの波が永田町全体を覆う。


 警視庁は警備体制を強化した。だが、これは始まりに過ぎなかった。6月19日のアイゼンハワー大統領訪日まで、あと29日。その間、この怒りの炎は燃え続ける。


 いや、燃え続けるどころか、さらに激しくなるだろう。


 秩序は薄氷の上にあった。誰もが予感していた。


「何かが起きる。何かが、決定的に壊れる」



 そして、5月22日――。

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