第3話 社員のための居場所と、豆粒の悪夢
2020年。
何事もなく2年の月日が流れた。
この静かで優しい部署で、私はすっかり安心しきっていた。
1人夜勤のプレッシャーもルーティンとなり、ここが自分の居場所だと確信していたのだ。
しかし、工場という組織の都合は、私のささやかな安心を容赦なく打ち砕いた。
建屋内で製造していた製品3つのうち、1つが生産終了となったのだ。
その製品を担当していた部署の社員たちは、他の会社へ異動したり、別の建屋へ異動したりすることになった。
「あぁ、大変だね。社員さんは、やっぱり大変なんだ」
派遣社員である自分には関係のない話だと思っていた。
だが、現実は違った。
ある日、作業長に会議室に呼び出された。
そこにいたのは、生産終了になった部署の社員5名。
全員、私よりも年齢が上の男性たちだった。
そして、製造長から告げられたのは、驚くべき宣告だった。
「佐藤さんには、この5名の社員さんたちに、あなたの担当している製品の作業を全て教えてほしい。そしてそれが終わったら、あなたは別の建屋の部署へ異動してもらいます」
私の頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
私が、彼らのための「研修係」として利用され、居場所を明け渡すことになったのだ。
理由は明らかだった。
恐らく社員だけにしたいんだろう。
私に与えられた仕事は、彼らがスムーズに移行するための「橋渡し」でしかなかった。
会社にとって、派遣社員の安定した居場所など、どうでもいいのだ。
「会社って、理不尽だよね……」
あの大学の教授に感じた、どうしようもない無力感が、再び胸を締め付けた。
私の2年間は、またしても組織の都合という名の巨大な力によって否定された。
2020年4月1日付けで、私は異動した。
私が仕事を教えた社員のおじさんたちは、「向こうに行っても元気でなぁ」と、優しく見送ってくれた。
その言葉は心底ありがたかったが、彼らが私の居場所を奪ったという事実は、割り切れない複雑な感情を残した。
新しい建屋の製造長に案内され、ロッカーと休憩所の場所を教わった。
案内された会議室には、私と同じく別の建屋から異動してきたという10数名が集まっていた。
全員が、組織の都合で動かされた人たちだった。
1週間の教育期間を終え、私は「テスト関係」の部署に配属された。
「はぁー、また初めから仕事を覚えるなんて嫌になる……」
異動のたびに、ゼロから新しい手順を覚え直す。
これが派遣という立場の宿命なのだとしても、心底うんざりした。
そして、その現場で扱っていた製品に、私は最初から鳥肌が立った。
それは、1つ1つが豆粒ほどの大きさの部品を、一度に何百個も集めて作業する工程だった。
私は、そういう集合体が苦手だった。
その小さな粒が視界いっぱいに広がるたび、生理的な嫌悪感が湧き上がった。
新しい部署の仕事は、前の部署と全く違った。
最も私を苦しめたのは、指導方法だった。
前の部署には、作業の手順が詳細に書かれた手順書があった。
私はそれに救われてきた。
だが、新しい部署では、手順書は使われず、口頭と実際にやって見せるという、昔ながらの指導方法だった。
繊細で責任感が強い私は、口頭で言われたことを必死で頭に入れようとした。
しかし、情報が整理できず、記憶に定着しない。
そして、ミスをすると、大声で怒鳴られた。
「何してんねん!!仕事せーよ!!」
怒鳴りつけるような、威圧的な言葉遣い。
前の部署では決して聞かなかった、感情的な昭和の叱り方だった。
私は身体が竦み、委縮した。
怒鳴られるたびに、頭の中が真っ白になり、次に何をすべきか、ますます分からなくなる。
最も理不尽だったのは、自分がやっていないミスで怒鳴られたときだ。
ある作業で、リールにシールを貼り付け、製品を巻き付ける作業をしていた。
普通はシールを貼った方を奥にセットするのが正しい手順だ。
作業中に、ベテランの派遣社員が気を利かせて新しいリールをセットしてくれた。
だが、その向きが逆だったらしい。
そして、作業記録には私の名前が書かれていた。
「おい、佐藤! なんでこんなセットの仕方してんねん!」
何の確認もなく、私は一方的に怒鳴られた。
(私がやったんじゃない! ベテランの人が気を利かせてくれただけなのに……!)
頭の中では叫んでいるのに、口を開くことができなかった。
「言い訳をするな」「波風を立てるな」という、幼い頃から刷り込まれた「優しさ」が、私の喉を塞いだ。
私は怒りよりも先に、「すみません」と謝罪し、ベテラン社員の名前が書かれた作業記録を、泣きそうな気持ちで直した。
他にも、計算を伴う複雑な作業で、教えてもらった通りにやったのに、「その時は違う!」と怒鳴られたこともあった。
(え、違うパターンがあるなら、最初に教えてよ! なんで私だけ怒鳴られなきゃいけないの!?)
理不尽な叱責は、毎日のように続いた。
精神的にも肉体的にも限界だった。
毎朝、吐き気で目が覚めるようになった。
このままでは、また大学を辞めたときのように、心が折れてしまう。
いや、それ以上に、人間を憎むようになるかもしれない。
そして、異動から半年が経ったある日、私はついに限界を迎えた。
派遣会社の管理職のスマホに、震える指で電話をかけた。
「あの、私、仕事を辞めたいんです」
管理職は、地元のスーパーの駐車場で会って話をしようと言った。
コロナ禍で就職が厳しい時期だと言われたが、もうどうでもよかった。
駐車場に停めてある管理職の車に乗り込み、私は絞り出すように言った。
「辞めるのは構いません。ただ、今の部署から異動できるのであれば、辞めなくても大丈夫です」
この一言を口にした瞬間、心の中で何か固まっていたものが、わずかに溶け出すのを感じた。
管理職は、「製造長に話をしてみる」と約束してくれた。
それから3日後。
私は、同じ建屋だが、別の工程(班替えも含む)への異動が決定したという連絡を受け取った。
2020年10月1日からの異動。
(勇気を出して言って、よかった……!)
怒鳴られて、耐えるだけの日々から、自分の声で自分の人生を変えることができた。
この経験は、私にとって初めての、そして最も重要な「自己防衛スキル」の獲得となった。
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