第四章【椎崎 真依】
第四章 第一話
五月の朝の光は、普段より冷たく、重たかった。
わたしは悪夢のような夜から、二日ぶりに会社に来ていた。早絢の誕生日パーティのあと、彼女がわたしの部屋で倒れたという事実が、わたしの心を押し潰していた。
また、わたしのせいにされる予感がする。
家に帰ってから、大叔母に事情を尋ねたけれど、大叔母はただ「疲れていただけでしょう」と言うだけだった。美花は、わたしを責めるような目で見るだけで、何も言わない。わたしは、あの部屋に並んだ人形のせいではないか、あの「来い」という声が、早絢を引き込んだのではないかと、恐ろしくて仕方がなかった。
あの声知っているのは、たぶんわたしだけだ。けれど、その恐ろしい真実を、誰にも話すことはできない。
重い足取りで山道支店のドアを開けると、そこは普段の張り詰めた空気ではなかった。ざわめきと動揺が、データ入力室全体を包んでいた。
何人かの先輩社員が、集まってひそひそと話している。いつも厳しい顔をしている佐野先輩でさえ、焦ったような表情をしていた。
何事だろう、と立ち尽くしていると、同期の岬が、泣きそうな顔でわたしに駆け寄ってきた。
「真依ちゃん……大変だよ」
「え……どうしたの?」
わたしは、岬のただならない様子に、心臓が嫌な音を立てるのを感じた。
岬は、声を詰まらせながら、震える唇で告げた。
「早絢ちゃんが……行方不明だって」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
行方不明。
岬の説明によると、早絢は二日前、わたしたちが病院から帰った後にいなくなり、病院にも家にも帰っていないと言う。家族や会社に連絡もなく、携帯電話も繋がらない。今朝になって、早絢の母から警察へ相談があった、と人事から連絡が入ったと聞いた。
嘘だ、と思いたかった。
太陽みたいに明るくて、希望に満ちていた早絢が、どこかへ消えてしまった。
わたしの身体は、急に、鉛のように重くなった。立つことさえ辛い。
「そんな……」
わたしは、何も言えなかった。
あの夜の光景が、脳裏に蘇る。人形の無数の視線。早絢が床に倒れ込む姿。
『来い……』
わたしが、早絢を家に招いたからだ。
わたしが、あの人形の部屋に入るのを止めなかったからだ。
わたしの心の隅に、冷たい事実が突き刺さる。
わたしは、どんな気持ちを抱いて、どんな顔をすればいいのだろう。
悲しいと思わないといけないのは分かっている。けれど、わたしの心には強烈な「恐怖」と「罪悪感」が、押し寄せてくる。だが、それより、わたしのせいになるのが怖くて、そうなる気がして、うつむいた。床の模様を見つめて、呼吸を浅くする。泣くことも、騒ぐこともできなかった。
ここで皆と同じように振る舞わないと、わたしのせいになるのは確実だ。それなのに。
「どうして、早絢なんだろう」
早絢は、誰からも愛され、この会社でも必要とされていた。わたしとは違う、価値のある人間だった。
それなのに、希望に満ちていた彼女が消えて、逃げ癖ばかりで無能なわたしが、どうしてまだここにいるのだろう。
この辛い毎日から投げ出したいのに、わたしにはその勇気さえない。母の顔、大叔母への恩、美花の冷たい視線が、わたしをがんじがらめにしている。
身体はここにあるのに、心はもう限界だった。
息を潜めるように呼吸をしていると、背後から聞き慣れた、聞きたくない声がした。
「椎崎さん」
佐野先輩だ。
わたしは、ビクッと肩を震わせた。
佐野先輩は、足音を立てないように近づいてきたようで、気づかなかった。
彼女の声は、いつもの叱責のような荒々しいものではなかった。低く、ひそやかな声なのに、それが逆に、ぞっとするような圧を感じさせた。
わたしが俯いていると、佐野先輩はわたしの顔を覗き込むようにかがむ。
「ねえ、椎崎さん」
そして、耳元で囁いたその声には、わざとらしいほどの心配と、好奇心が混じっていた。
「山吹さんが居なくなったのってさ……椎崎さんのせいじゃない?」
その言葉が、わたしの心臓を鷲掴みにした。
「!」
ごくん、と大きな音を立てて、喉が上下した。唾を飲み込む音が、フロアのざわめきの中に、響いたように感じた。
わたしは、佐野先輩から顔を遠ざけたいのに、身体が動かない。
佐野先輩は、わたしの顔をじっと見つめていた。彼女の目は笑っていない。それが、わたしが最も恐れていたことを、彼女が知っていると言っているようだった。
「だって、椎崎さんと山吹さん、仲良かったんでしょ?最後に会ったの、椎崎さんの家でしょ?何か、知ってること、あるんじゃないの?」
彼女は、追求しているのではない。楽しんでいるのだ。早絢の失踪という事件を利用して、わたしという弱い人間を追い詰めることが楽しいのだ。
わたしは、何も知らない。何も話していない。わたしのせいではない。わたしは、誰にも、何もしていない。
そう、心で必死に叫んだ。
けれど、口が開かない。
佐野先輩の一言で、静かにざわめいていたデータ入力室の空気が、一変した。
ばっと、一気に、みんなの視線がわたしに向く。
同期の岬や恵理、里奈も、他の先輩たちも、皆、わたしを見ていた。視線には、好奇心、疑い、少しの怖れが混じっていた。
早絢の行方不明という皆がショックな出来事の渦中で、わたしは「疑いの目」を集める存在になってしまった。
わたしは、床に視線を落としたまま、動けない。
佐野先輩は、勝ち誇ったように立ち上がり、静かに言った。
「まぁ、冗談だよ。でも、早く見つかるといいね」
そう言って、彼女は背を向けた。その言葉は、冗談なんかではなかった。わたしを追い詰めるための、最も冷酷な一撃だった。
わたしは、みんなの視線を全身で浴びながら、震える体を制御しようと必死だった。
佐野先輩の言葉は、火をつけた。これから、わたしはこの会社で、早絢の失踪について疑われ続けるのだろう。
早絢のいなくなったこの場所で、わたしは一人、孤独に耐え抜くしかないのだ。
重たい、新しい恐怖が、わたしの心にのしかかってきた。
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