第二章 第七話

山道支店での毎日は、ひどく重い砂袋を背負っているようだ。

会社へ行けば、太陽のように明るい早絢の光が、わたしの影を深く濃くする。家に帰れば、壁一面に並んだ日本人形たちがわたしを無言で見つめ、美花は露わになった憎しみをわたしにぶつけてくる。

どこにも逃げ場所がない。その中でも、わたしを最も削り取ってゆくのは、やはり山道支店の空気だった。

この支店は、たしかに真由先輩が言っていた通り、古い倉庫のような場所だ。しかし、中には若手の女性社員が多く、一見すると明るい雰囲気に見える。それでも、その空気は張り詰めていた。

外見より綺麗に見えた内装も、わたしが傷つく度に、暗く澱んでゆくように見える。

わたしが配属されて二週間。

この会社の古い体質は、噂通りで、もしかしたら、噂より酷いかもしれない。特に、新人への当たりが強く、指導係の先輩たちは、些細なミスでも声を荒げ、データ入力室には常にピリピリとした緊張感が漂っていた。


そして、その矛先は、なぜかわたしばかりに向かう。わたしは、嫌われるオーラを持っているのだと昔から思っていたのが、現実味を帯び始める。

指導係の佐野さの先輩は、本社研修で真由先輩に「やる気がない」と叱責されたわたしの弱さを、すぐに見抜いたようだ。佐野先輩は、三十代前半の女性で、いつも完璧なメイクをしているが、目は笑っていない。

早絢のように明るく、誰とでもすぐに打ち解ける社員には、彼女は穏やかな顔を見せるのに、わたしに対しては、常に鋭い言葉を突きつけてくる。

先日も、わたしは、データ入力システムに、数字を一つ間違えて入力してしまった。

佐野先輩は、わたしの席まで大きな足音を立ててやってきた。

「椎崎さん、また?これ、単純な入力ミスですよね?集中力がないんじゃないですか?あなた、本当にやる気があるの?」

佐野先輩の声は、フロア中に響き渡った。周りの社員たちの視線が、一斉にわたしに集まるのを感じた。心臓がどきどきと激しく鳴り、全身から冷たい汗が噴き出す。あの圧迫面接で感じた無能さを責め立てられる感覚が、蘇ってきた。

面接官と、人形と、真由先輩の視線が佐野先輩の目線に重なる。


「申し訳ありません。すぐに直します」

わたしは、それしか言えなかった。言い訳をすれば、それは佐野先輩の怒りをさらに大きくするだけだと、本能的に理解している。

わたしが悪いのは分かっているが、何も皆に聞こえるように言わなくても良いのではないか、と思った。

社員みんなの視線が、棘のように突き刺さって抜けない。


しかし、わたしがミスをしていない時でさえ、佐野先輩はわたしを責める。

わたしは先輩に頼まれた資料のファイリング作業を間違いなく終わらせた。先輩に確認してもらうと、彼女は資料を雑な手つきで受け取ってパラパラとめくり、突然ため息をつく。

「椎崎さん、これ、ファイリングの意味わかってます?こんなんじゃ、どこに何があるか、全然わからないですよ。もう一度、全部やり直してください!」

わたしは、戸惑った。言われた通りに、資料の内容ごとに分類し、付箋もつけているはずだ。何回みてもどこが間違っているのか、わからなかった。

「あの、どこを直せばいいでしょうか」

恐る恐る尋ねると、佐野先輩は露骨に嫌な顔をする。

「自分で考えてください。いちいち聞かないとできないんですか?わたしが暇だと思わないでください」

「椎崎ってバカ」

佐野先輩は、同期の人に小声でいいながら去っていった。結局、わたしは何が悪いのかわからないまま、言われた通りに全ての資料をやり直した。もう一度先輩に提出すると、先輩は何も言わず、資料を机の隅に置いただけだった。


わたしが間違っていたから怒られたわけではない。ただ、わたしを怒りたかっただけのように感じた。

きっと、わたしを馬鹿にして、わたしに嫌な思いをさせたら楽しいのだ。

本社研修でわたしを追い詰めた真由先輩と同じだ。わたしは、「やる気のない、どうしようもない不良品」として、この会社から評価され続けている。

もしかしたら、佐野先輩と入社時期の近い真由先輩が、告げ口したのかもしれない。そうでなければ、同じことを言われるほどわたしは無能ということだ。

いつかは認めないといけないのに、わたしは先延ばしにしてしまう。

佐野先輩に怒られた後、早絢は必ずそっとわたしに近づいてくる。

「ね、真依ちゃん。佐野先輩、ちょっと怖すぎるよね。でもさ、真依ちゃんは一生懸命やってるの、みんなわかってるよ!気にしないでね」

早絢は、心からわたしを心配し、励ましてくれているのだとわかる。彼女の言葉は、優しくて、何の悪意もない。その親切心は、わたしにとって救いであるはずだった。

それなのに、わたしは早絢の優しさを、素直に受け入れられない。

普通なら、皆早絢が好きなはずだ。

わたしも早絢をすきにならないといけないのに、好きになれない。

恩をもらったからには、返さないといけないのはわかっているが、わたしの中に何かが引っかかる。

早絢は、わたしと同じ新人なのに、佐野先輩からは一度もあんな風に叱られていない。彼女は、愛される人間として、最初から正しい場所に立っている。わたしが必死に繕っている「明るく素直」という仮面を、彼女は呼吸するように自然に身につけている。

彼女が「頑張ってるよ」と励ますたび、わたしの心は痛い。

「わたしがこんなに苦しんでいるのに、あなたは何の苦労もしていないでしょ?」という、ひどい感情が湧き上がってくる。その感情が醜いことは、わかっている。わたしは、親切な同僚にさえ、嫉妬してしまうような捻くれた人間なのだ。

早絢の太陽のような笑顔と、佐野先輩の冷たい叱責。その両方が、わたしを責め立てる。

会社に行くことが、辛い。まだ二週間と少ししか過ぎていないのに、挫けては行けない。

そう分かっているのに、逃げてきた痛みが、一気に襲ってきている。


朝、制服に着替えるたび、動悸がする。佐野先輩の顔と、早絢の笑顔が、交互に頭に浮かぶ。家を出るまでの間、わたしは何度も「お腹が痛い」「頭が痛い」と言って、すべてを投げ出してしまいたいという衝動に駆られた。

けれど、わたしには逃げ場所がない。

母の安堵の笑顔と、大叔母への恩が、わたしをこの山奥の家に繋ぎ止めている。そして、もし会社を辞めれば、わたしは無職として社会に放り出され、家族の不安を再び背負うことになる。それは、わたしが最も恐れる未来だ。

わたしは、自分の弱さと醜い感情、そして会社と家庭の重圧に、押し潰されそうになっていた。

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