死を越えた痛み
クリスマスの鐘の音が、遠くから静かに響いていた。
それはまるで、世界そのものがハルの胸を包む沈黙を嘲笑っているかのようだった。
冷たい風が、まだ灯りの残る街を切り裂いていく。
赤いリボン、人工の雪、点滅する「メリークリスマス」のネオン——
そのすべてが、胸の奥で押しつぶされるような重苦しさと対照的だった。
ハルの瞳が、ゆっくりと開かれた。
一瞬、彼は夢を見ているのだと思った。
だが——違った。
見慣れた天井、雪に覆われた歩道、遠くに響く人々の足音。
それは、またループの始まりを意味していた。
「……また、か。」
かすれた声でつぶやく。
目の前にはレナが立っていた。
いつもと同じ、少し緊張した笑み、心配そうな瞳、そして——決まりきった言葉。
すべてが、何度も繰り返されてきた瞬間そのものだった。
同じクリスマス。
同じ時間。
同じ運命の始まり。
けれど、今回は違和感があった。
空気が重い。
まるで震えるように、空間そのものが歪んでいる。
ハルが瞬きをすると、視界がかすみ、地面が揺らいだ。
「ハ、ハル? どうしたの?」
レナが慌てて近づく。
だが、声が遠くに聞こえる。
体が動かない。
胸の奥が焼けるように熱く、腹の底から何かが這い上がるような感覚。
そして——全身を突き刺す、数千本の針のような痛み。
「う、ああああああああっ……!」
ハルの叫びが、冬の街に響いた。
膝をつき、腹を押さえる。
息が詰まり、喉が焼けつくように熱い。
「ハル! しっかりして! ねえ、ハルっ!」
レナが駆け寄り、彼の体を支える。
けれど、彼の耳には、もう声がまともに届いていなかった。
雪の冷たさも感じない。
ただ、痛み。
焼けつくような、終わりのない痛みだけが存在した。
――その時。
どこか、遠い場所から声が響いた。
『……死ねば、神でさえ耐えられぬ痛みを味わうだろう。』
その言葉が脳裏を突き抜けた瞬間、ハルの瞳が見開かれた。
あの“存在”。
彼を永遠の輪廻に閉じ込めた、あの白い存在の声だ。
「ま……まさか……これは……」
震える唇から、言葉がこぼれる。
目から涙があふれ出し、雪の上に熱い雫が落ちた。
内側から焼かれているような感覚。
神経が一つ一つ、燃え尽きていく。
「ハル! お願い、耐えて! 誰か、助けてぇ!!」
レナの悲鳴が、冬の空に響く。
人々が集まり始める。
誰かが携帯を取り出し、救急車を呼ぼうとする。
ざわめきの中で、ハルの視界はぼやけ、世界が滲んだ。
(……まだ、生きてる? いや……これは生きてるとは言えない。罰だ……)
彼の手が震える。
呼吸のたびに、胸の奥で刃が刺さるような痛みが走る。
心臓の鼓動が、頭の中で爆音のように鳴り響く。
「ねえ、ハル! 私を見て! 聞こえる!? お願い……返事して!」
レナが彼の頬を両手で包む。
「レ、ナ……」
ハルの声は、かすれていた。
「痛い……痛いんだ……。死ねば終わると思ってたのに……これは、始まりだったんだ……」
その瞬間、再び体が弓なりに反り返った。
叫びが夜空を切り裂き、クリスマスソングと重なった。
皮肉だった。
世界が祝福する「誕生」と「希望」の夜に、彼だけが「死」と「苦痛」を繰り返している。
レナは泣き叫び、何度も彼の名を呼んだ。
だが、その声はもう届かない。
――そして、世界が暗転した。
すべての音が消える。
時間が歪み、彼は静寂の中に浮かんでいた。
痛みは止み、残ったのは虚無。
その中に、光のような影が現れた。
白く、形を持たない存在。
その瞳だけが、すべてを見透かしているようだった。
『……まだ終わっていない。』
『お前が望んだことだろう?』
穏やかで、しかし恐ろしく冷たい声が、ハルの心に直接響く。
「お……前……」
かすれた声で彼が呟く。
「お前が……あの“存在”か……」
『お前の魂は輪廻に刻まれた。』
『死ぬたびに痛みを得る。痛みこそ、生を知る唯一の道だからだ。』
「ふざけるな! これは拷問だ!」
『学びに、痛みはつきものだ。』
その言葉を最後に、光の影は溶けるように消えた。
——闇。
すべてが再び沈黙した。
そして、瞼の裏に白が戻ってきた。
「……っ!」
まぶしさに目を細める。
機械音。
誰かの足音。
漂う消毒液の匂い。
「……病院、か?」
ハルは呟いた。
「はい、ここは東京中央病院ですよ。」
優しい女性の声が答えた。
顔を向けると、笑顔の看護師が立っていた。
「あなたは路上で倒れていたんです。通りがかりの人が救急車を呼んでくれました。
まだ動かないでくださいね?」
ハルは小さく笑った。
「その台詞……もう何度聞いたんだろうな……」
「え?」
看護師が首を傾げる。
「……長い話ですよ。」
彼は天井を見上げた。
痛みは消えていた。
けれど、体の奥深くに焼きついた“感覚”だけは、消えてくれなかった。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。」
ハルは手を上げ、掌を見つめた。
指先が震えている。
あの痛みを、確かにこの体が覚えている。
「ええ……ただ、ちょっと……怖いだけです。」
看護師は困ったように微笑み、モニターを確認してから部屋を出ていった。
静寂が戻る。
ハルは、ゆっくりと目を閉じた。
あの“存在”の言葉が脳裏にこだまする。
——死は終わりではない。
——それは束縛だ。
彼は、再び目を開けた。
天井の白い光が、心を刺すように眩しい。
「……これが、生きるってことなのか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます